2023年12月24日「共におられる神」

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聖書の言葉

マタイによる福音書 1章18節~25節

メッセージ

2023年12月24日(日)熊本伝道所朝拝説教

マタイによる福音書1章18~25節「共におられる神」

1、

 お集まりのみなさまの上に主イエス・キリストの恵みと平安が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。クリスマスおめでとうございます。

 今朝、2023年のクリスマスを記念して捧げる礼拝で、ご一緒に聴きますみ言葉は、マタイによる福音書1章18節から25節であります。『新共同訳聖書』の小見出しには「イエス・キリストの誕生」と記されています。

 今朝の説教を準備しながら気が付いたことがありました。わたくしはこれまで20数回、クリスマス礼拝の説教をしてきたのですが、このマタイによる福音書1章のみ言葉から説教したことがほとんどなかったということです。それは、何かはっきりした理由があったわけではないのですが、結果としてそうなったと言うことです。たいていのクリスマス礼拝では、ルカによる福音書1章の「マリアへのお告げ」のところや2章の「羊飼いの礼拝」、マタイによる福音書では第2章の「東方の博士たちの礼拝」、そしてヨハネによる福音書1章の「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」の四か所を取り上げて説教してきました。

 しかし今朝は、主イエス様の父となるヨセフに対するこの大切な天使のお告げについてのみ言葉を聴くように導かれました。今年はマタイから語ろうと思ったのですが、このマタイによる福音書全体の中で、主イエス様の誕生、つまり、ずばりクリスマスのみ言葉というのは、実はこの御言葉だけなのです。マタイによる福音書は、母マリアのことをほとんど語りません。あの有名なベツレヘムの村での宿屋探しの物語や羊飼いたちに天使の大合唱が響きわたり彼らが幼子を礼拝する場面についても語りません。かろうじてと言っては語弊がありますけれども、クリスマスのことは、今朝のみ言葉と次の第2章に占星術の学者たち、つまり三人の博士の礼拝が記されるだけです。

どうしてなのかと考えましたけれど、もちろん聖書自体にはその理由は書かれていません。けれどもやはりそこには何か理由と言いますか、狙いがあるのだと思います。マタイによる福音書の特徴がやはりここにも現れているのだと思います。

それはマタイが旧約聖書との連続性を大切にしているということです。旧約と新約を一貫した、ひとくくりの神様の契約、恵みに満ちた契約、それが完成成就した、主イエス様において完成成就したことを考えているのだと思います。

その一つのヒントは、マタイによる福音書の書き出しの1章1節の言葉です。やはり書き出しの言葉、第一声というものが大切です。

こうあります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。アブラハムから始まっています。そして主イエス様をダビデの子と呼んでいます。ここには14代の系図が三つありますけれども、全体はダビデを中心にしています。この14という数字もヘブライ語でダビデを示す数字であると言われているんですね。ヘブライ語のアルファベットには番号があり、ダビデという綴りの合計が14だということです。

系図の最初は、まずアブラハムからダビデまで14代、これは神の民としてイスラエルが恵みを受けて一つの完成を見るまでの時代です。そして今度はダビデからバビロン捕囚までの14代とそれ以降の14代。つまりイスラエルの没落とそれ以降の歴史です。そこに救い主が現れます。

主イエス様の法律的な父親はヨセフです。けれども、今朝のみ言葉では、ヨセフは「ダビデの子ヨセフ」、つまりダビデの子孫と呼ばれています。そして主イエス様がお生まれになったのはベツレヘムでした。ベツレヘムは、ダビデの出身地であり、ダビデの町と呼ばれていました。

ダビデは紀元前10世紀に最初にイスラエル12部族を束ねるイスラエルの王となりました。旧約聖書のサムエル記下の第7章に、ダビデがイスラエルの王となって長らく放置されていた神の契約の箱を神の幕屋に運び入れる場面があります。そのすぐ後に、有名な「ダビデ契約」という神の救いの約束が告げられます。ダビデから出る子孫が王国の王座に着き、神様はそのものの父となり、そのものはわたしの子、つまり神の子となるという約束です。ここにはクリスマスの預言があると言って良いと思います。

 

2,

 説教題を「共におられる神」といたしました。23節に次のように記されています。「見よ、乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」、この名は「神は我々と共におられる」という意味である。」

 新約聖書は古代のギリシャ語で書かれています。それが当時のローマ帝国の公用語であったからです。その新約聖書にいくつものヘブライ語がギリシャのアルファベットで音をあてるようにして登場します。ハレルヤ、アーメン、ホサナ、マラナタ、など、そして今朝の「インマヌエル」もそれに当たります。主イエス様が天に帰られた後の最初期の教会の痕跡がそこに残されているのです。「エル」が神、「イヌマ―」が我らと共にいるというヘブライ語です。マタイは、ヘブライ語を知らない読者のために、この名は「神は、我々と共におられる」という意味であると翻訳して見せています。

主イエス様の父となるヨセフに、天使が告げたこのみ言葉は、旧約聖書イザヤ書第7章14節の「インマヌエル預言」です。紀元前8世紀、風雲急を告げる当時の国際情勢のなか、ユダ王国は大国の脅威にさらされます。その時、預言者イザヤがアハズ王に告げるのです。

実は、この「神が共にいて下さる」インマヌエルは、旧約聖書と新約聖書を一本の背骨のように貫くメッセージです。アブラハム以来、イサクにもヤコブにも、またモーセ、ヨシュアにも、またダビデと続く者たちに、神様は、「わたしがあなたと共にいる」と言ってくださるのです。

 マタイによる福音書は、このインマヌエル預言から始まり、最後の28章20節の主イエス様のインマヌエル宣言で終わります。開きませんけれども、マタイによる福音書の最後の節、28章20節はこうです。19節からお読みします。

「だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

 このインマヌエルというみ言葉が、主イエス様の誕生に先だって、生まれてくる救い主の名、つまりその本質として告げられたのです。そして主イエス様が、弟子たちを世に派遣するにあたって、最後にインマヌエルの約束を与えてくださいました。教会は、今もこの約束の中で働きを続けています。

3,

 さて今朝のみ言葉の18節に、婚約という言葉が出ています。そして二人が一緒になる前に、つまり共に生活を始める前に、マリアの妊娠が明らかになったというのです。現代では、いわゆる「できちゃった婚」(デキチャッタコン)などと言う言葉があり、婚約もしていないのに妊娠し、あわてて結婚すると言ったこともあるようです。しかし、ヨセフとマリアの場合は違いました。ヨセフへの天使のお告げに先だってマリアの方にも天使が遣わされていました。それはルカによる福音書1章26節から38節に示されています。マリアが「お言葉通り、この身になりますように」と答えるみ言葉です。そのお告げ通りに、マリアは子を宿し周囲にもそれが分かるようになってしまった、そのときに、婚約者のヨセフに天使が現れたのです。

 18節には、マリアが「聖霊によって身ごもっていること」が明らかになったとありますが、このときはまだ聖霊によって身ごもったという不思議な現実は、当の本人であるマリア以外には明かされていません。当時のユダヤでは婚約は、まだ結婚式を上げて同居していないだけであり、結婚と同じ義務がお互いに生じていたと言われます。つまり、婚約者以外の男性と関係し子を宿すということは姦淫の罪を犯すことでした。そして当時その女性は石打の刑で処罰されることになっていました。

 おそらく許嫁のマリアは、ヨセフに天使のお告げを伝えていたと思いますが、信じることが出来なかったのです。マリアの姦淫、不倫を目の当たりにしたヨセフは、たとえ、本人から、それは人間ではなく聖霊によると聞かされても言い訳のようにしか受け止められなかったことでしょう。わたしももしも自分がヨセフのような立場になったら、聖霊によるなどと言うことを信じることは出来ないと思います。

 ヨセフは正しい人だったのでと記されています。この場合にヨセフの取る道はいくつかありました。一つはマリアを姦淫の罪で訴えて処罰させることです。それが表ざたにするということです。正しいこと、正義にかなうことかも知れませんが、動機にはマリアに対して自分の怒りや恨みを晴らすという復讐の思いがあります。しかし、ヨセフはその道を取らず、ひそかに、つまり何も言わずにマリアと別れることを決めたというのです。しかし、マリアにそれを切り出す直前に、天使が真実を告げました。それは驚くべき内容であり、そして同時に天使からの、つまり神からの命令を含むものでした。

「マリアは聖霊によって胎に子を宿した」だから決して不倫でも姦淫でもないというのです。それゆえ、マリアと結婚し家に迎え入れるようにというのです。そして生まれてくる男の子の名前も指定されます。「その子をイエスと名付けなさい」「この子は自分の民を罪から救うからである」。イエスは、ヘブライ語の「ヨシュア、あるいはイエシュア」のギリシャ語読みです。ヨシュア「神、主、ヤワエは救い」、あるいは「救ってくださる」という意味のヘブライ語です。そして「その救いは、罪からの救い」であることが明らかにされます。人は罪のうちに生まれ、その罪のために様々な災いや苦しみを受けるということは聖書が一貫して知らせていることです。

イスラエルが分裂しやがて北王国も南王国も滅ぼされ、民はアッシリヤやバビロンに連れて行かれることとなったのはソロモン王以来の偶像礼拝、神に背いた罪のためであったと旧約聖書は語ります。詩編130編にはこんな言葉もあります。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに。豊かな贖いは主のもとに。主はイスラエルをすべての罪から贖ってくださる」7節と8節です。このような「罪からの救い」とういうような明確な表現ではなくとも、イザヤ書53章の身代わりに死んでくださるメシアをはじめとして、神様の救いの根本は、人間世界の、あるいは神の民イスラエルの、あるいは個々人が負っている罪からの救いであることは聖書の至るところで示されています。その救いを、マリアから生まれてくる子が成し遂げるというのです。マリアは、天使のお告げに対してm「お言葉通り、この身になりますように」と答えました。

ヨセフが、どう答えたかは記されていません。ヨセフははっきりした行動で答えています。まず、命じられた通りに、離縁せず、周囲の目に負けることなくマリアと結婚し生活を始めます。その後マリアと関係することがなかったことは本人しか知らないことです。けれども、聖書は、このことを示すことで、生まれてくる子は、法的にはヨセフの子であっても、決してヨセフの血を引く子、人間による子ではないことが明確にしています。主イエス様は聖霊によってマリアの胎に宿ったのです。

4、

 ヨセフは、生まれて来た子の名を神の命令通りにイエス、ヨシュアと付けました。この子は、神がよしとしてくださる人々、つまり神の民の罪を救う使命を帯びていることをヨセフ自身が信じたのだと思います。預言者を通して主が言われていたことがこの世に実現する。その子はそのような重大な使命をもっていることと天使が告げたのです。それを信じ受け入れたのです。

 クリスマスを迎えています。わたしたちは教会に集い、クリスマスの礼拝を捧げています。目には見えないけれども、神さまがおられることをわたしたちは信じています。しかしそれだけではなく、その神が、現実に、実際に、この世界に来てくださったことを信じ、受け入れているのです。世界と人の罪を赦すために来てくださった。それがクリスマスです。

 聖書の全体が告げ知らせている神の祝福、神の恵み、インマヌエル、神が我らと共にいて下さる、この驚くべき恵みを喜びお祝い致しましょう。祈ります。

天におられる神さま、聖霊において今ここに共にいて下さる神様、救い主イエス・キリストの父なる神、父。子。御霊の三つにして一人の神。このクリスマスのとき、あなたの恵みの業を改めて覚えて感謝いたします。あなたの愛の内にこの週も、また新しい年も教会が、一人一人が歩んでゆくことが出来ますようお願いいたします。主の名によって祈ります。アーメン。