2023年11月19日「真理の霊、聖霊」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 16章1節~15節

メッセージ

2023年11月19日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書16章1節~15節「真理の霊、聖霊」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 さて、今朝は、ヨハネによる福音書16章の1節から15節までの御言葉に聞きたいと思います。主イエス様は、十字架にお掛りになる前の夜に弟子たちと最後の晩餐をなさいました。その食事の後で弟子たちに向かって、特別なお話をなさいました。

「今、ここでこの話をしておかなければならない」という思いでお語りになりました。この14章から17章は、そのような主イエス様の別れの説教、弟子たちへの告別説教であります。

 先ほどお読みしました御言葉の中で、16章1節から4節の最初の4つの節は、15章の中ほどから続いています、「迫害の予告」のまとめともいうべき言葉です。

主イエス様に従って歩もうとする主イエス様の弟子である限り、主イエス様がユダヤ人から憎まれ、迫害されたように、こののち弟子たちもまた、ユダヤ人たちから憎まれ、迫害されるだろうと主イエス様は言われるのです。そのときにつまずくことがないために今、前もって話しておくというのです。

 今朝の16章2節には「人々はあなた方を会堂から追放する」とあります。会堂といますのは、ユダヤ教の会堂、いわゆるシナゴーグです。これは今日の教会のようなものではあえいませんで、研究者に言わせますと、むしろ公民館に近いものだと言います。シナゴーグでは礼拝も行われましたけれども、それだけでない。そこは子供たちが律法の学びをする教育の場であり、食事をしたりお茶を飲んだりして交わりをする、あるいは、情報交換をする場所でありました。ときにはそこで裁判も行われたということです。その会堂から追放されるということは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人として扱われなくなることに等しいのです。当時「アポシュナゴーグス」「会堂追放」という特別の単語がありました。この16章2節でもその言葉が使われています。「会堂追放」、それはユダヤ人社会の中で一つの罰則でありました。道徳的な罪を犯した者や律法に違反したと思われたものは、一週間、あるいは一か月の会堂追放という罰を受けました。

主イエス様と弟子たちは、初めは、ユダヤ教の中の一宗派と思われていたようです。ユダヤ教の中にファリサイ派やサドカイ派があったように、ナザレ派と呼ばれていたという文献もあります。実は、主イエス様の十字架が行われた頃には、まだ弟子たちに対する明確な会堂追放は行われていなかったようです。もちろん主イエス様が捕らえらえられて十字架に掛けられるという状況なのですから、迫害に近いことはあったと思います。しかし場所や時期によって濃淡の違いはあるのですが、そういうどっちつかずの状態が続いていたと思われます。

使徒言行録には、12弟子のリーダーのペトロや、後になって弟子とされ、使徒とされたパウロが広くギリシャ世界で伝道してゆくときの話が出てきます。彼らや、まずは各地にありましたディアスポラ、離散のユダヤ人たちの会堂に入って、聖書の話をします。ところが、次第、次第にキリスト教はもはや、ユダヤ教の一宗派とみなされなくなってゆきます。そうなりますと、会堂への出入りを禁止されるようになるのです。歴史的には、紀元85年にユダヤ教のヤムニヤ会議の決定によって、キリスト者はすべてのユダヤ教の会堂から追放されるようになりました。ユダヤ教会の権威ある決定としての会堂追放、まさしく、主イエス様が言われた通りになってゆくのですね。熱心なユダヤ教の活動家の中には、禁止しても禁止しても広がってゆくキリスト者たちを捕らえてエルサレムにまで引っ張ってゆくと言う働きをするものまで現れました。その中の有力な一人が実は後に伝道者となるパウロでした。

捕らえられたキリスト者は、エルサレムで宗教裁判にかけられます。キリスト者は、イエス・キリストを神とするがゆえに、神を冒涜するものとされました。当時のユダヤでは神を冒涜するユダヤ人には死刑が課せられました。「あなた方は殺される」と主イエス様が言われた通りです。後に大伝道者となるパウロは、キリスト者を捕らえて死に至らせるような、熱心なファリサイ派の過激派のひとりであったと聖書に書かれています。

当時、ユダヤはローマ帝国の植民地でしたが、そのローマ帝国は、ユダヤ人がユダヤ教の信仰を持ち、シナゴーグに集まることを認めていました。しかし、会堂から追放され、ユダヤ人扱いされなくなったキリスト者たちはローマ帝国からも異端者使いされ、弾圧されるようになってゆくのです。つまり、使徒言行録の時代になりますと、主イエス様の弟子たちは、ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害されるようになるのです。

主イエス様は、後になって主イエス様が言われた通りにそのような迫害、苦難が起こった時にも、あなたがたは決して慌てることはない、獲物が罠にかかってしまったように、絶望に落ち込む必要はない、そのためにこの話をしたと言っておられます。

 しかし、これを聞いた弟子たちにしてみますと、やはりこの先が聞きたいわけです。「あなたがたは決して絶望する必要はない、あわてることはない」と主イエス様は言われるのですが、では一体どうなるのか、どうすればよいのかと弟子たちは不安だったと言わざるを得ません。

この最後の晩餐の席では、弟子たちは、「主イエス様、あなたはこれから何をなさるのですか、どこに行かれるのですか」としきりに尋ねていたのですが、もうそんなことは言わなくなる。そうではなくて、「悲しみに満たされてしまった」と書かれています。6節に「あなた方の心は悲しみで満たされている」と主イエス様がおっしゃっている通りであります。それもこれも、主イエス様ご自身が、ユダヤ人たちに捕らえられ、殺されるという決心をなさったことによります。主イエス様がこの世から去って行き、そしてそののちに、弟子たちに対する迫害が起こるようになる、弟子たちは一体どうすればよいのでしょうか。

 わたくしが以前に奉仕しておりました教会で、ひとりの女性が洗礼を受けられました。離婚を経験され、女手一つで二人のお子さんを育て上げられ、ようやく落ち着いた生活をなさるというときに教会においでになりました。若い時代に教会に行っていたことがあって、もう一度近くの教会に足を踏み入れてくださったのです。そして、この世界には、やはり神様が働いておられる、救い主としてイエス様がおいでになった、この方をはっきりと信じて生きて行こうと決心されて洗礼をお受けになりました。洗礼を受けられた姉妹の目は輝いておられました。けれども、そのあと数か月もしないうちに思いがけないことに遭遇します。乳がんが発見されました。それも複数の転移があって手術も出来ないと宣告されたのです。主イエス様と出会って、これから喜びの人生を送ろうと思っていた矢先です。わたしがお訪ねしますと、すっかり沈み込んでおられました。こんなはずではなかった、思いがけない悲しい出来事が起こったのです。信仰をもてば、すべてが思い描いていたようになるということはないのです。むしろ、この世のいろいろな悲しみは誰にも容赦なく襲ってくるのだと思います。

2、

 今朝の御言葉の16章5節から、主イエス様は、弟子たちの悲しみは、最後まで続かないのだ、どんでん返しがあるのだと語られます。

この時の弟子たちと違いまして、わたしたちは、聖書を終りまで読んでいます。いったい何が起きたかを知っています。さらにわたしたちは、主イエス様を信じる人々が世界中に広がっているという現実の中を生きています。しかし、この時の弟子たちは、そうではありません。彼らは悲しみに満たされていました。

しかし、主イエス様が言われた通りに、彼らが考えてもいなかった、どんでん返しは確かに起きたのであります。

時間的な順序から言いますと、まず主イエス様の復活であります。この先の16章19節「しばらくするとあなたがたはわたしを見るようになる。」これですね。

主イエス様の復活は、単に弟子たちが主イエス様にもう一度会うことが出来たというようなことではなく、もっと深い意味があります。つまり、主イエス様は死に打ち勝たれたということです。主イエス様は、この世では起こりえないような出来事に与った生ける神であられる、天の父なる神様から、このお方は力ある神であるという宣言をしていただいたのです。そのことが明らかになりました。弟子たちが復活の主イエス様に会ったということは、主イエス様は間違いなく神の子である、神であるということを弟子たちがはっきりと悟らされたということです。十字架の贖い、救いの達成、成就と言ってもよいのです。

そして次に起こることが、聖霊降臨、ペンテコステの出来事です。今朝の御言葉の16章7節「わたしは弁護者をあなた方のところに送る」これであります。「真理の霊が来る」この御言葉は今朝の16章13節の前の15章26節にも出てきていました。「真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をする」。今朝の16章13節では「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。

この「真理の霊」という主イエス様の御言葉を今朝の説教題にいたしました。聖霊はまさしく「真理の霊」であります。

主イエス様は言われました。「わたしが去ってゆかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない」。そして主イエス様が去ってゆくことは弟子たちの為になることであると言われます。「為になる」とは「益になる、よいことである」という意味です。聖霊がおいでなることはわたしたちにとって大きな恵みなのであります。

もうどうしようもない、行く道が見えなかった弟子たちの心は聖霊で満たされ、復活の主イエス様と共に生きるようになります。地上の主イエス様が去って行かれたからこそ、復活の主イエス様にお会いすることが出来、聖霊が注がれるという恵みに与りました。

後になって、体験した悲しみの意味が分かるということは誰もが経験することではないでしょうか。先ほどのガンが見つかった姉妹もまた、絶望的な病を経験する中でいよいよ神様のご存在と恵みを味わったと後におっしゃいました。成人されたお子様とは実は疎遠になっておられたのですが、病の後は頻繁にお子さんたちが病室を訪れ、積もる話をしたり、あるいは静かに一緒の時間を過ごしたりして主が共にいて下さる言いようのない平安を味わわれたのです。

聖霊は神の霊であります。また主イエス様の霊であります。主イエス様、また天の父なる神が、ご自分の霊、神の霊を送ってくださるということは大きな恵みです。もし天の父なる神様が、あるいは主イエス様が聖霊を送ってくださらなければ、どうしても成し遂げられないことがあるからです。主イエス様という現実の体をお持ちになっておられる神、主イエス様。その主イエス様は、同時に二つの場所にいるということがおできなりません。ですから、仮に復活の主イエス様がおいでになったとして、わたしたちが文字通り主イエス様とともにいるためにどこに行けばよいか全くわかりません。しかし聖霊の神様は、その存在において自由自在であります。聖霊の神は、わたしにも、あなたにもいつも一緒にいてくださることが出来ます。旅行をしても、地球の裏側に行ってもそうであります。このお方は、主イエス様の霊であります。わたしたちを導かれる方であると同時に、この世を導かれるお方です。また、主イエス様を信じる信仰が与えられるのと機を同じくして、わたしたちの心の中に住んでいてくださいます。聖霊の神がおいでになったことは素晴らしいことであります。

3、

この別れの説教の中で、主イエス様は聖霊の神のお働きを、主に二つのことにまとめて教えてくださっています。

第一のことは、まだ主イエス様を信じていないこの世の人々に対するお働きです。それは、罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかにすると三つに分けて語られています。第二のことは、すでに主イエス様を信じて救われたものに対するお働きです。13節に「あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。主イエス様の救いにあずかったものの生きる道を教えるということであります。

 真理の霊は、この世の人々を導いてくださり、世の罪を明らかにしてくださいます。わたしたちが、信仰をいただいた時のことを考えてみたいと思います。何らかの仕方で自分の罪を知らされたのです。同時に光をも見たのです。思いもかけない困難に遭遇したとき、人間関係のもつれに巻き込まれた時、あるいは、まさしく聖霊のお働きとしか言えないような仕方で、それぞれが自分の心の醜さ、罪を知らされました。そのうえでこの罪を赦してくださる神様の愛を知りました。

 神様の義と愛とは主イエス様の十字架において頂点に達しています。これが神様の義であり、わたし達の義ともなるものです。初代教会の大伝道者、指導者であるパウロという人は、ローマの信徒への手紙という、聖書の中でも最も救いについて整理した仕方で書かれている手紙を書きました。その3章のところでこう言っています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」

 「無償で」というのは「ただで」ということです。真実の救いは、人間の側の努力、修練や献金に依らず、ただ神の恵み、神の愛によってということです。これこそが、神の正しさであり、神の義であります。

 主イエス様が何の罪もない神の御子でありながら、旧約聖書において贖いの子羊が捧げられる過ぎ越し祭りのさなかに十字架に御掛りになり、血を流されたのは、それによって、わたしたちが命を得たということです。

この世におけるわたしたちのすべての罪は、主イエス様において刑罰を受け、裁かれました。この神様の愛を最後まで、受け入れないとするならば、人はそれぞれ自分自身の罪の裁きを自分で受けなければなりません。この世の人々が神を信ぜず、主イエス様を信じないのであれば、この世においても本来の神の愛を受けることはできません。また、来たるべき世においては最終的な裁きを受けます。ここにおいてもまた、神様の義、神様の正しさがあらわになるのです。

 主イエス様は、救われたものを、「ああよかった、救われた」と言ってただ喜んでいるだけのものにしてはおかれません。聖霊の神が、わたしたちを導き続けてくださいます。「しかし、その方、真理の霊が来ると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる」13節の御言葉です。

 この真理は、主イエス様から弟子たちに告げ知らされ、そして使徒たちは、聖霊に導かれて、聖書を書き記しました。聖書の真の作者は、聖霊です。「主イエス様が父なる神からお受けになったことを聖霊があなたがた、つまり弟子たちに伝える」と13節に書かれ、また同じことが続く14節にも書かれています。これは大変重要なことです。

 ここに聖書がわたしたちの信仰の基準となる理由があります。弟子たちがその時代において残した成果は大きいものがあります。彼らは教会を建て上げると共に、聖書を後の世に残しました。それは主イエス様の御心に従うものであり、また聖霊に導かれて書かれたものです。そして聖霊は聖書を読む者に働いて下さって、それを受け入れるようにしてくださいます。

一方で、聖霊は、聖書に書かれていないことを神の言葉として勝手に告げたり教えたりしないのです。言い換えますと、弟子たちがわたしたちに残してくれた神の御言葉、聖書において、救いに必要なことは、余すところなく教えられるのです

 教会は伝道を大切な使命としています。一体何が伝えられなければならないのでしょうか。世の人々が、自身の罪を知り、神様の愛を知り、義を知る、裁きを知る、これが伝道の結果としてもたらされなければならないことだと思います。楽しいお話や音楽で、単に人をたくさん集めても、そこで終わってしまっては伝道とは言えません。

伝道は、教会の働きです。教会はいつも伝道のことを考えています。しかし、結局のところ、世の人が信仰をいただくことが出来るのは聖霊のお働き以外にはありません。そして聖霊のお働きは神様の自由な御心によります。わたしたちは聖霊のお働きに信頼することが出来ますし、信頼しなければなりません。

神様の時というものがあります。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。教会の伝道も同じです。教会が伝える言葉、わたしたちが伝える言葉を人々が信じるかどうか、また喜びに溢れているわたしたちの日々の生活を見て、ああ、わたしも神様の恵みを受け入れよう、そう思うかどうか、それは究極的には聖霊の御業によることです。

そして、その働きは、必ず、主イエス様と天の父なる神の御心通りになされてゆきます。聖霊の神様は、真理の霊であられます。今週一週間のわたしたちの歩み、また教会の歩みを聖霊なる神様が守り導いてくださるように、わたしたちが主イエス様の恵みをいよいよ知り味わうことが出来るように、聖霊の神様が導いてくだると信じます。お祈りを致します。

祈り

 天の父なる神と御子イエス・キリストのすべての恵みを私たちが味わい知り、理性においても感情においてもよく理解することが出来ますよう聖霊の神様が導いてください。今週一瞬間、あなたの恵みの中で歩むことが出来るようにしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。