2023年10月15日「貧しき者への福音」

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聖書の言葉

マタイによる福音書 5章1節~12節

メッセージ

熊本伝道所礼拝説教2023年10月15日(日)秋の特別集会

マタイによる福音書5章1節~12節「貧しき者への福音」

1、

 今朝、このところにおいで下さいました、すべての方に、救い主なるお方、主イエス・キリストの祝福、恵み、幸いが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 今朝、私たちに与えられましたみ言葉は、マタイによる福音書第5章のはじめの言葉であります。この5章から7章の終わりまで、主イエス・キリストの山上の説教、山の上の説教と呼ばれる御言葉が続くことになります。先ほどご一緒に聞きました5章1節から12節は、その冒頭に置かれている八つの幸い、八福の教えと呼ばれている聖書の中では有名な御言葉です。

新約聖書には、書き手が異なっている主イエス様についての4つの記録が収められていて、それらは四福音書と呼ばれています。その中でも今取り上げています、このマタイによる福音書は、古代の教会以来、教会の中で、もっとも重んじられてきたものです。それは四つの福音書の中で最初に置かれていということからもわかりますし、その内容も充実していて整ったものです。そのマタイによる福音書の中で主イエス様が最初に語られた説教のはじめのところが今朝の個所です。

みなさんが聖書を始めて読んだ時のことを覚えていらっしゃるでしょうか。もちろん、聖書などは読んだことがないという方がいても構いません。このあと是非お読みになっていただきたいと思います。そうしますと、まずは新約聖書の第一ページから読むのですけれど、最初にイエス・キリストの系図と呼ばれるものがあります。外国人のカタカナの名前が延々と書かれている。ここで、何だこれはと、もう読むのを止めてしまうのではなく、飛ばして読んで行けばよいのですが、そうしますと、イエス・キリストの誕生という小見出しが出てきて、クリスマスのことが書かれています。3章には、イエス・キリストの到来を預言した洗礼者ヨハネが登場し、4章は主イエス様が荒れ野でサタンの誘惑を受けられる場面があります。その誘惑に打ち勝たれた主イエス様が、さあいよいよ伝道をお始めになるというのが第5章なのです。まさに、いよいよ主イエス様の御言葉、教えがここから書かれている、そういうところです。

2,

5章1節をお読みします。「イエスは、この群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」

「この群衆」というのは、その直前の4章25節の人々のことです。4章の終わりには、サタンに打ち勝たれた主イエス様の最初のお働きが凝縮してまとめられています。その主イエス様の神の力が溢れるような救いのお働きに触れた人々が当時のパレスチナの各地から集まってきます。主イエス様に望みをかけ、主イエスを慕ってやってきた大勢の人々に主イエス様が語られるのです。

「山」は、普段の生活、日常の生活から離れ、また世の中のあれやこれやからも、心を遠ざけることが出来る場所です。仏教のお寺も大抵は何々山何とか寺と名がついていますが、それもまた、同じような意気込みを現わしているのだと思います。そのような場所で、人々は主イエス様の御言葉にこれから集中して耳を傾けるのです。

2節をお読みします。「イエスは、口を開き、教えられた」。ちなみに、この部分のもとのギリシャ語を直訳しますとこうなります。「そして彼は、彼の口を開きつつ、語りながら教え続けた」、あるいは、「教え始めた」。これは大変厳粛な前置きです。言い方を変えると、ある意味勿体ぶったような書き方だと思います。読む人に、これから語られる主イエス様の御言葉に心を向けるように、その準備をさせるのです。

ここから始まります山上の説教、別名、山上の垂訓は、マタイによる福音書の5章から7章の終わりまで続く、長い主イエス様の教えであります。いよいよ、主イエス様の説教が始まるのです。

もちろん、これらのみ言葉は、主イエス様が、山の上で、弟子たちと集まって来た人々のために語られたただ一回の説教を、あたかもテープ起こしをしたかのように、そのまま記録したというものではないと考えられます。そうではなくて、主イエス様が弟子たちに、あるいは集まって来た群衆のために繰り返し語ってくださった御言葉を、聖書記者であるマタイが改めて語り直し、一つの説教としたものだと思われます。もちろんそこでは、主イエス様の実際の語り口や繰り返し語られたことが再現されています。

福音書記者マタイは、主イエス様から12弟子の一人として召しだされた人物です。主イエス様から教会を建てるための教育を受け、また主イエス様と共に伝道した使徒のひとりとして、神様の霊の導きを受けながら御言葉を書き連ねていったのであります。その冒頭に置かれているこの八つの幸いの教えは、主イエス様が人々に幾度もお語りになったものだと思いますが、新ためて、山上の説教の序文のようなものとして、ここに置かれているのです。主イエス様の教えの神髄、真骨頂がここにあると言っても良い、そのように説教の初めに置かれているのです。

3節から10節まで、ここではまるで詩を書くように、歌の歌詞のように8つの文章が分ち書きされています。

八つの幸いが並べられています。3節の「心の貧しい人々」から始まって、10節の「義のために迫害される人々」まで八種類の人々について、「その人たちは幸いである」という祝福の言葉が投げかけられます。

3,

 主イエス様が、満を持して、開口一番に語られたのは、祝福の宣言でありました。「幸いだ!」。この世界にいるすべての心の貧しい人たち、あなたがたは幸いだ、天国はあなたがたのものだ、こう宣言なさいました。これは、わたしたちがしっかりと受け止めなければならないことだと思います。例えば、旧約聖書に登場する多くの預言者たちの言葉は、そうではなかったのです。「神はこう言われる!」と前置きして、民や王たちに悔い改めを迫るものでした。また主イエス様の道備えをする人物としてこのマタイによる福音書第3章に洗礼者ヨハネが現れますが、この人の最初の言葉は、こういうものです。「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。警告の言葉です。しかし、主イエス様が語られたのは幸いの宣言であります。

 改めて、この八つの幸いを読んで見ますと、わたしたちが常日頃抱いています考えとずいぶん違っている、これはまるで反対ではないかと思えることが並んでいるような思いがいたします。

幸いだと祝福されている人々は、むしろ生きにくさを抱えている人、およそ天国の幸いとは縁遠いような人々ではないかと思えるのです。

「貧しい人々は幸いだ」と言いますが、貧困にあえいでいる人々がどうして幸いなのかと言いたくなるのです。しかも、ここでは心が貧しいと言われます。ギリシャ語には貧しい、貧乏という意味の言葉が何種類かあるそうですが、ここで使われているのは最も貧しい、赤貧、空っぽというような貧しさです。「心」と訳されていますのは多くの場合、「霊」と訳される言葉です。肉体と精神の働きの根底にある人間の魂、霊であります。8節に「心の清い人々」という言葉がありますが、そこで心と訳されている言葉とは違う言葉です。ある翻訳は、「霊において乞食である人々」と訳します。その人々は幸いだ、祝福されると言われるのです。

悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人と続きます。「柔和」と訳されています言葉のもう一つの意味は、力や権力と縁遠い、力がないという意味です。英語ではmeek(おとなしい)です。例えば旧約聖書の詩編37編11節にはこのようなみ言葉があります。「貧しい人は地を受け継ぎ豊かな平和に自らをゆだねるだろう」、権力も軍事力もない、この世の王とは正反対の人が土地を獲得することはありえないことですが、神はそのようにして下さるという詩編の言葉です。神様の恵みの力強さを歌うのです。柔和と言う言葉は、この詩編37編が言う「貧しい人」と同じ意味で使われていると考えられます。

「幸いな人」「あなたがたは幸いだ」と呼ばれている人々は、この世の考え方からしますと、幸いとは言えない、むしろ不幸である、あるいは、生き辛さを抱えているような人々ではないかと思うのです。

後半の四つについても同じことが言えると思います。最後の「義のために迫害される人々」では、それは明確ですけれども、憐み深い人、心の清い人、また、平和を実現する人々についても、実は、この世の常識からしますと、むしろ生き辛い人々に分類されるのではないかと思うのです。わたしたちは心清く生きたい、憐み深く生きたいと思っていますけれども、実際にその生き方を実行すればするほど、損をする、それこそ、この世界の現実ではないでしょうか。

 この八福の教えについては、わたくしは、二種類の違った解釈が可能であると思っています。一つは、この主イエス様の教えを旧約聖書の箴言のような一種の知恵の言葉としてとらえるものです。逆説の中に真理が秘められている、不幸と考えられることが実は幸福に至る道であると考えるのです。その場合には、ここに掲げられている人々のように生きること、真実な幸福への生き方への道しるべとして、これらの御言葉が働くのだと思います。特に、後半の四つの教えについてはそのように読み解くことが説得的であるように思えます。

 もう一つは、旧約聖書の詩編のように、これらの御言葉を、苦難の中に、あるいは苦しみの中にいる人々に希望を与える主イエス様の約束の言葉として読む読み方です。とりわけ、前半の四つの幸いについては、こちらの方がふさわしいのではないかと思うのです。その場合には、天の国を頂く、慰められる、満たされる、憐れみを受けるという言葉が、主イエス様の恵み深い約束として響いてまいります。

 天の父なる神様は、その独り語であるイエス・キリストを救い主としてこの世界にお送りくださいました。神様の身分でありながら、乙女マリアの胎に宿られ、人間のかたちをとってお生まれになりました。その目的は何なのか、それは間違いなく世界と人とをお救いになるためです。

 聖書の全体は生まれながらの人間、またこの世界をどのように見ておられるのでそしょうか。間違いなく、救いが必要なものとして見ておられます。そうであるからこそ、主イエスがこの世界に来られました。イエス・キリストは、神様の御心をわたしたちに教え、この世に教え、御自身の命をわたしたちの罪の赦しのための犠牲、贖いの子羊として捧げてくださいました。十字架は、実は死刑の道具であります。主イエス様は十字架にお架かりになり死んでお蘇りになりました。そして今、生きて天におられます。そこでわたしたちのために絶えず祈っていて下さり、祈りを聞いていて下さり、実際に救いを実現してくださるのです。

 この世の現実において、極貧の人、それも心がそのような状態の人々は、幸いであるということが出来ません。その人は、すっかり打ちひしがれています。悲しむ人々も同様です。わたくしは牧師をしておりますので、様々な境遇の方々と接する機会が普通の人よりも多いと思います。最愛の人を失って悲しんでいる人、自信や台風で、財産をすっかり失って悲嘆に暮れている人に向かって、あなたは幸いですなど言うことは出来ません。この苦しみは、実はもう一段高い幸福にきっとつながりますなどとは決して言えないのです。もちろんその人を幸いにする方法さえ持ち合わせていません。

 しかし、主イエス様はおっしゃるのです。あなたがたは幸いだ、必ず満たされる、天国を手にする、慰められると。

 なぜ、山上の説教の冒頭で、主イエス様は、このようなマイナスの立場にある人、苦しむ人々のことについて語られたのでしょうか。それは何よりも主イエス様というお方の関心事が一体何なのかを示しています。主イエス様が心に留めてくださる人が誰かを現わしているのです。満ち足りている人よりも、心が空になっている人、満足している人ではなく、飢え渇き、悲しみ、何の力もない人々のためにこそ、主イエス様は来てくださいました。

心の貧しい人、悲しむ人、力のない人、義に飢え渇く人、それは、実はわたしたち自身のことではないでしょうか。外側にまとっているすべての覆いをはぎ取られたわたしたちは、本当のところ、まさしく救いが必要な者なのです。

そのようなわたしに、主イエス様は祝福の約束を与えてくださいます。不安や孤独から救い出し、心を作り替え、赦しを与え、道を開いてくださいます。単に心理学的なことではなく、実際に、責任を取って下さり、現実のこととして救って下さるのです。主イエス様はわたしたちに必ず寄り添ってくださいます。具体的な助けを与え、祝福をくださるのです。

主イエス様は、わたしたちに約束なさいます。「幸いなるかな」、「あなたは幸いだ」、なぜなら、このわたしが必ず助けるから。

祈りを致します。

天の父なる神、主イエス様の父であられる神、あなたの大きな愛を覚えて感謝を致します。生き辛いこの世界の中で、あなたはわたしたちを勇気づけ、具体的な助けを必ず与えてくださることを信じて感謝を致します。それぞれが遣わされる場において、主イエス様の恵みをいつも覚えることが出来るよう導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。