2023年08月13日「イエス、弟子の足を洗う」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 13章1節~13節

メッセージ

2023年8月13日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書13章1節~11節(朗読~20)「イエス、弟子の足を洗う」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

先ほど朗読しました聖書のみ言葉は20節まででしたが、今朝は特に11節までの御言葉を集中して学びたいと思います。20節までの御言葉の全体は、キリスト教会において、「洗足の教え」として良く知られているものであります。主イエス様が、明日は十字架にお架かりになるという過越し祭の食事、最後の晩餐に先だち、弟子たちの足を一人一人ずつ洗ってくださった。そして、あなたがたもこのように互いに足を洗い合いなさいと教えてくださったみ言葉であります。

カトリック教会やギリシャ正教会では、イースターの前の木曜日の必須の行事として、どの教会でも神父が教会員の足を洗う儀式、洗足式を必ず執り行うそうです。イースターの前の木曜日を聖木曜日、あるいは洗足木曜日と呼んで洗足式の儀式を行います。最近はプロテスタントの教会でも、この洗足式を行う教会があるようです。しかし、わたしたちの改革派教会では、受難週の木曜日が、伝統的に主イエス様が弟子の足を洗って、愛の模範を示された日、洗足木曜日であることは知ってはおりますけれども、その日に特別に教会で、そういった儀式を行う習慣はありません。けれども、そういったことを覚えておく必要はあると思います。

今朝は、20節まで長く御言葉をお読みしました。1節から20節までが一つの大切な御言葉の塊だからであります。次週も同じ1節から20節をお読みしますが、今朝は前半のところを中心に、次回は後半の12節から部分を中心に説教をいたします。

さて、主イエス様の時代のユダヤでは、格式ばった宴会の会場に入るときに、出席者は入り口で足を洗ってもらう習慣がありました。当時はみな革のひもで編んだサンダルを履いていました。靴下などは履いていません。泥だらけの道を歩いてやってきますから、会場に着くときには誰の足も真っ黒になっていたはずです。それを係りの人が水で洗ってくれるのです。この仕事は、当時は奴隷の仕事であったと言われています。井戸から水を汲んできて水瓶にため、その水をたらいに移し、ひざをかがめ、這いつくばるようにして何十人もの足を手でごしごしと洗います。そのつらく汚い仕事を主イエス様が弟子たちに対してしてくださったのであります。それは、弟子たちを教育するための一つの模範としてのみわざであります。従ってわたしたちも、主イエス様の弟子となったなら、その主イエス様の心を模範として、互いにへりくだって、仕え合うということを勧められているのです。

しかし、今朝の御言葉をよく読みますと、決してそれだけ終わらないことが分かります。実はもっと深い意味がある、そのような大切な御言葉であると思います。今朝は、特に11節までの部分を中心に、その隠された意味に与ってゆきたいと思います。

2、

1節に「過ぎ越し祭の前のことである」とあります。パスカ、過ぎ越しの祭りは、ユダヤ教の祭りの中で最も古く大切な祭りです。昔、イスラエルの民がエジプトで暮らしておりましたが、それは奴隷として苦しめられている、そういう生活でありました。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がそこから脱出して荒れ野の旅に出るときに、神様が彼らにしてくださった大いなる恵みのわざを記念する祭りであります。

エジプト脱出の時、モーセが、エジプト王ファロと交渉しますが、うまくゆかない。そこで神様はエジプトに十の災いを与えて、ファロをうんと言わせるのですが、その最後の災いがエジプト中の長男である子供が神によって撃たれてしまうという恐ろしい災いでした。エジプト王は、十の災いが起こる前にモーセを通して神様から警告を受けます。しかし、神様を侮って絶えず約束を翻してしまう。そしてついに最後的な災いが起こります。そのとき、モーセが神様から命じられたのは、各家庭で一匹の子羊を屠って、玄関の柱とかもいにその血を塗っておくことでした。いよいよ災いが起こり、子供の命が次々と犠牲になってゆく中、子羊の血が玄関に塗られていた家だけは、神の怒りの災いが通り過ぎて行った、過ぎ越していった、このことが過ぎ越し祭りの起源となりました。すなわち屠られた子羊の血によって、人々の命が救われたのです。それも個人の命ではない、イスラエルという神の民全体の命が救われたのであります。

過ぎ越し祭りでは、子羊が屠られ、神にささげられ、そしてその肉を家族で集まって食べる特別の食事をいたします。これが過ぎ越しの食事です。ヨハネによる福音書以外の福音書では、主イエス様と弟子たちの最後の晩餐は、この過ぎ越しの食事であったと書いてあります。そしてその過ぎ越しの食事会の中でパンとぶどう酒が主イエス様によって祝福され、パンは、主イエス様の体であり、ぶどう酒は主イエス様の血であると宣言されます。最後の晩餐を終えると主イエス様は十字架にお掛りになる、主イエス様の命によってあなた方の命が救われる、これが十字架の意味であることが聖餐式によって示されるのです。聖餐式が定められ、聖餐に与ること、つまり共にパンを裂いて食べ、ぶどう酒を飲むことが、主イエス様の十字架の恵みに与ることとなりました。

しかし、ヨハネによる福音書には、この聖餐式制定の御言葉が書かれていません。そもそもヨハネによる福音書では、最後の晩餐は、過ぎ越しの日の食事ではなく、その前の日のことになっています。そして子羊が屠られて、皆がそれを食べる過ぎ越しの日に主イエス様が十字架にお掛りになるのです。ヨハネによる福音書は、1章29節で、主イエス様を「世の罪を取り除く神の子羊」であると紹介しています。そして聖餐式制定のことが書かれているはずの場所にあるのが、今朝の御言葉であります。この洗足の教えなのであります。

3、

わたくしが、今朝の御言葉において最も心惹かれましたのは、1節後半の御言葉です。

「1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

「愛した」という言葉が二回繰り返されています。しかも二回目には「この上なく愛しぬかれた」と示されています。「この上なく」また「愛しぬかれた」という翻訳も決して悪くはないと思いますが、一種の意訳になっています。元の言葉では、口語訳聖書がこれをそのままに訳していますが、「最後まで愛し通された」、「最後まで」という言葉が使われています。「最後まで愛した」と書かれています。カトリックのフランシスコ会訳聖書では、ここは「終りまで愛された」と訳します。明治の文語訳聖書は「世にある己のものを愛して極みまで愛し給う」です。「最後」も「終り」もその意味は共通しています。

「世にいる弟子たちを」という言葉は、本来は「世にいるご自分のものたち」という言葉です。ですから、その場所にいた12人の弟子だけに限定されません。主イエス様のものとなった者たちのすべてであります。当然、わたしたちもその中に含まれています。

ハイデルベルク信仰問答という宗教改革の時代の大切な信仰問答があります。その第一問は、「わたしたちのただ一つの慰め」について語っています。

問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」答「わたしが私自身のものでなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであるということです」

本来は神様のご支配の中で喜んで生きるべきものが、罪にとらえられてしまっている、生まれながらのわたしたちは、その心の最も深いところにおいてですけれども、本当に暗く悲惨な状態で生きるよりほかなくなってしまいました。そのようなわたしたちにとって唯一の慰め、希望、力を与えるものは何ですかと問うのです。その答えは、わたしたちを、主イエス様がご自分のものとしてくださったことだというのです。主イエス・キリストが、わたしたちがもう一度正しく生きることが出来るようにしてくださった、罪の内にいたわたしたちを、罪から贖い出してくださったのです。主イエス様が、ご自身の命を持って買い取ってくださった、ご自分のものとしてくださった、主イエス様に属するものとなった、これがわたしたちの究極的な慰めである、わたしたちの労苦や困難のすべてが覆われ、慰め、はげましを受ける歩みがここからくるというのです。

今朝の1節にありますように、世にいるすべてのキリスト者、弟子であるわたしたちを、この上なく愛してくださいます。主イエス様は、終りまで、極みまでの愛によって、その救いの御業を果ての果てまで成し遂げられるのです。主イエス様は、最後まで、終りまで、この上なく、世のすべてのキリスト者を愛し、そして、今も愛していてくださいます。それが「わたしたちが主イエス様のものである」ということにほかならないのです。

主イエス様が、弟子たちの足を洗ってくださったのは、わたしたちが互いに仕えること、奉仕しあうことの模範であったと同時に、わたしたち一人一人を、かけがえのいないもの、ご自身のものとして愛してくださる主イエス様の愛の表れでもありました。

1節の前半には、「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」とあります。また2節には「すでに悪魔が、ユダのこころに裏切りの思いを定めさせていた」ことが告げられます。今や、十字架の時が迫っています。このときに、主イエス様が弟子たちの足を洗われるという特別の行為をされたことは深い関係があります。主イエス様の洗足、それは十字架の本質を表しているのではないでしょうか。わたしは、あなたたちをわたしのもとする、最後まで愛しぬく、あなたをすべて引き受ける、だからこそあなたがたの汚れた足でさえも、ご自身の手を使って、こうして洗う。あなたのすべてを世話する、命を与える、これこそが主イエス様の十字架の救いです。

4、

 さて6節から10節に、シモン・ペトロと主イエス様との問答が記されています。主イエス様は突然立ち上がり、服を脱いで裸のような姿になられ、長いユダヤの手拭いを腰に巻きました、弟子たちの足を洗い始めました。そのありさまを見て、弟子たちは驚きました。そこで弟子の代表として口を開いたのはやはり、ペトロです。こういいました。「主よ、あなたが足を洗ってくださるのですか」。そして言います。「わたしの足など決して洗わないでください」そんなことをしないでください。

 主イエさまは、お答えになります。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

 どうして、主イエス様が、ここで足を洗い始められたのか、それにはどういう意味があるのか、それが本当にわかるのは今ではない、後のことであるというのです。それは、主イエス様が、このあとすぐに「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた時でもなく、もっと後のことです。主イエス様が復活なさり、弟子たちが聖霊を受け、さらに、ペンテコステの日に聖霊が下って、教会が誕生した、そのときになって、初めてわかると言われたのです。

つまり主イエス様の十字架ということがなければ、わたしたちは本当の意味で互いに愛し合うことはできないからだと思います。古い自分が死んで新しい命に生きるようになること、そのことと、わたしたちが互いに愛し合うようになることは切っても切れないのです。

 主イエス様は、ペトロに言われました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

 主イエス様は、ご自身の十字架の救いのしるしとして、その愛のしるしとして、今弟子たちの足を洗ってくださいます。弟子たちが、それに与らないのなら、もはや、主イエス様の弟子ではありません。わたしたちは、主イエス様に洗っていただいき、罪を赦され、清められ、新しくされて、初めて、互いに愛し合うことができるようになります。

 これを聞いたペトロは、さらにおもしろいことを言います。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

足を洗わないでくださいと言ったペトロが、主イエス様から、それなら、私とあなたのかかわりはなくなると言われ、今度は、それならイエス様、足だけでなく、手も頭も洗ってくださいと願いました。

 ペトロが、ここでとっさに考えたことは、本来主イエス様は、救い主であり、足だけでなく手も頭も、つまり人間の全体を清める力と権威を持っておられる。だから、わたしは、そのような霊的なこと、救いのことをあなたに期待しています。泥だらけの足だけを洗ってくださるというような、奴隷のようなことをすべきではないということだったかも知れません。

 ところが、主イエス様はお答えになりました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 あなたがたは、すでに全身清い、だから、足だけ洗えばよいと言われたのであります。裏返せば、ペトロが考えたこととは違って、今主イエス様が、あなたの足を洗うということにも大きな意味があると言われたのです。「皆が清いわけではない」と言われたのは、この後のユダの裏切りのことを前提としていることです。しかし、主イエス様は、そのユダの足をも洗ってくださるのです。

ここで弟子たちは、主イエス様から「すでに全身清い」と宣言されています。「すでに体を洗った」という言葉が、何を意味するのか議論が分かれています。

伝統的なカトリック教会の解釈では、弟子たちはすでに洗礼を受けていたから、今は、改めて洗礼を受ける、全体を洗う必要がないとします。しかし、洗礼を受けた後で犯した罪は、このようにそれぞれの部分、部分において洗い清められる必要がある、そう主イエス様がおっしゃったと解釈します。そこから洗礼を受けた後の罪について、司祭による赦しの儀式を行うようになるのです。これがカトリック教会における告解、赦しの秘跡となります。

けれども、罪の赦しは、ただ一度の主イエス様の十字架だけで全く十分であるというのがわたしたちの信仰です。主イエス様を信じて洗礼を受けたものは、完全な罪の赦しに与かっています。洗礼を受ける前の罪も、それから後のすべての罪も主イエス様に十字架と復活によって赦されています。主イエス様の十字架は、すべての罪を赦す力があります。「すでにあなたがた清い」と主様は言われました。主イエス様を信じているからです。主イエス様は、だからこそわたしは今、あなたがたの足だけを洗って、愛の模範とすると言われるのです。「あなたがたはすでに全身が清い」とは、「あなたがたはすでにわたしのものである」ということにほかなりません。

「主イエス様は、世にいる弟子たち、すべての信じる者をこの上なく、極みまで、愛された。愛し抜いてくださった」と1節に書かれています。そのしるしが弟子の足を洗われるということでありました。それは主イエス様の完全な「ヘリくだり」を表しています。奴隷のように足を洗われること、それはこの後に成し遂げられる主イエス様の十字架の死と結びついていると思います。その上で、今度は、主イエス様によって赦されたわたしたちが、互いに足を洗い合う、愛し合うことが求められるのです。

わたしたちは、主イエス様から、極みまで愛を受けました。十字架の恵みを受けました。罪を赦され、清められ、新しくされました。そして、今度は、主からいただいた愛を互いに表しあう生活へと導かれます。14節では、弟子たちが、主イエス様から勧めを受けます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

わたしたちもまた同じであります。主イエス様から愛を受け、また受け続けているわたしたちは、互いにその愛を表して歩んでゆこうではありませんか。

お祈りをいたします。

天の父なる神様、主イエス様がわたしたちに現わしてくださったこの上ない愛を、わたしたちはおなじように実行することは到底出来ませんけれども、互いに相手を大切な人と思うこと、奉仕し仕えて行くことは出来ます。どうかあなたのものとされているわたしたちが、あなたの愛の中で、愛を行動に現わすものとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。