2023年06月18日「一粒の麦、イエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 12章20節~26節

メッセージ

2023年6月18日(日)熊本伝道所 朝拝説教

ヨハネによる福音書12章20節~26節「一粒の麦、イエス」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 6月も第三週に入ろうとしています。季節は梅雨のただ中にありまして、湿度の高いうっとうしい日々が続いています。けれども、このように雨が降ることは山の木々や畑の作物にとっては大切なことです。これによって地の水が蓄えられ、自然は生気を取り戻すのです。雨が降らなければ作物は弱ってしまい沢山の実を実らすことはできないのであります。考え方を変えれば、わたしたちは今、恵みの雨の季節を過ごしているということもできると思います。

 今朝の御言葉の中ほどですけれども、24節にこのようにあります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

聖書の中でも有名な、また印象に残る御言葉の一つであると思います。キリスト者に限らず世に良く知られているみ言葉の一つです。わたくしの友人であるある牧師が仕えていた教会の名前は、一麦教会と言いました。一つの麦と書いて一麦と読みます。このような名前の教会や福祉施設、出版社は数多くあります。歴史の中で、わたしたちの心をとらえて来た主イエス様の御言葉なのです。

 主イエス様は、この御言葉を語られました時、その前の24節のはじめで「はっきり言っておく」と前置きされました。「はっきり言っておく」、元のギリシャ語では、アーメン、アーメンと二回繰り返されまして、そのあと、あなた方にいうと続いています。新改訳聖書はこう訳します。「まことに、まことに、あなた方に告げます」。今から大切なことを言うから、あなた方は、よく聞いておいてほしい、そういう意味を込めた御言葉です。

 小麦の一粒が、たとえば、机の上やザルの中におかれていて、そのまま時間がたち、月日がたってゆくとしましょう。おそらく何年たっても、それはずっと、一粒のままであります。けれども、この麦の一粒が、一人の農夫によって畑にまかれたとします。小麦の粒の上に土がかぶせられますと、その麦の粒は、土の中の温度や湿度に、あるいは土そのものに反応して、動き出します。芽が出て、根を生やしてゆくのです。そのとき、小麦の一粒は、殻が破れ、でんぷんは栄養になって失われ、もとの形は全くなくなってしまいます。しかし、ひとたび生え出た小麦の芽は伸びて太くなり、苗となり、やがて、穂をつけて、何千、何万の小麦の実を実らせることになります。実際には、小麦の命は連続しているのですが、主イエス様は、一粒の麦は死んだと言い、しかし、死ねば多くの実を結ぶのだと言っておられるのです。

この直前ですが、23節で、主イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃられました。元のギリシャ語では、主イエス様は、まず、「時が来た」とおっしゃって、そして、その「時」を説明して「人の子が栄光を受けるとき」と続けられています。今まさに、「時が来た」、このことを強調しているのです。その「時」とは何でしょうか。主イエス様ご自身が、今や、土に撒かれた一粒の麦のようになる、死なれる、十字架にお掛りになる、そのときであります。そして、そのことによって、たわわに実った麦の穂のように、今度は多くの実が実るようになります。すなわち、信じる者の誰もが罪の赦しをいただいて、死から命へと移されることになるのです。

2,

20節をお読みします。「さて祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に何人かのギリシャ十がいた」

そのギリシャ人たちがこう言ったというのです。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。以前の文語訳聖書、口語訳聖書では、「お願いです」とは言わずに「君よ」と言って頼んだとされています。もとの言葉を見ると、ギリシャ人たちはフィリポに向かって「主よ」と言って語りかけています。「主よ」、これは、特別に主イエス様のことを表す「主」という言葉と同じ言葉なのですが、当時の目上の人に対する丁寧な言い方でもありました。僕に対する主人、主、であります。主イエス様だけでなく主イエス様の弟子に対してさえもそう呼ぶほどに謙遜な思いで願い出たということです。ここには、この人たちが主イエス様に対して特別な敬意を抱いていたことが示されています。

フィリポは、12弟子のひとりですが、珍しくギリシャ風の名前を持っています。注解者の中には、フィリポは、弟子になった時にはガリラヤの漁師であったけれども、その名からしても幼い頃はギリシャ人が身近にいる環境で育ち、おそらくギリシャ語を話せたのではないかと推測する人もいます。そのピリポにギリシャ人たちは頼んだというのです。

ギリシャ人といいましても、ここでは過ぎ越しの祭りに神を礼拝するために来た者たち混じっていた人たちです。当時の地中海各地にはユダヤ人の住む町が多くありました。度重なるエルサレムの戦乱や迫害が原因で散らされていった人々です。彼らは異国の地にあってもユダヤ教の会堂、シナゴーグに集まり、聖書を読み、祈りを捧げて生活しています。その周囲の異国の人々の中で、ユダヤ教の生活に興味を持ち、旧約聖書を読み、その教えに感銘を受け、またユダヤ人に同調して信仰の生活をおくろうとするギリシャ人が生まれてきました。このような人たちのことを新約聖書は「神を崇める人々」と呼んでいます。中には、ユダヤ人の女生と結婚し、自ら進んで割礼を受けてユダヤ教に改宗した人々もいたということです。エルサレム神殿には異邦人の庭と呼ばれる場所がありました。つまり、神殿の奥深くに入ることは許されないのですが、割礼を受けていない異邦人もまた、神殿に参り、礼拝することが許されていました。今朝の御言葉が画期的なのは、そのようなギリシャ人、神を崇める敬虔な異邦人の中からもさえ、主イエス様にお会いしたいと願う者たちが現れたと言いうことであります。

 12章の前半では、ロバの子に乗ってエルサレムの町に入られた主イエス様を、多くのユダヤ人が棕櫚の枝を手に持ち、賛美して出迎えています。12章19節では、ユダヤ教の指導者であるファリサイ派の人々が、もう何をしても無駄だ、世を上げてあの男についてゆく、と嘆いている場面もあります。もちろん、ファリサイ派の人々が、「世を上げて」といいましたときには、ユダヤ人世界のことを言っているわけです。ところが、今朝の御言葉では、ユダヤ人だけではない、ギリシャ人までもが主イエス様を求めている、こういうことが起きたということであります。

 12弟子たちは、どうしたのでしょうか。思わぬ人々が主イエス様を求めてきた、主イエス様を紹介してほしいとやってきたのであります。

わたしたちもまた、キリスト者ではない人たちから、わたしも教会に行ってみたい、主イエス様の話を聞いてみたい、教会を紹介して欲しいと求められることがあるのではないかと思います。すぐに喜んで、礼拝や家庭集会などの案内をすることでしょう。

この幾人かのギリシャ人は、いわば求道者として主イエス様のところにやって来た人たちです。しかし、問題がありました。当時の普通のユダヤ人たちは、ユダヤ教の律法によって異邦人とは接触しないことになっていたのです。たとえば徴税人のように、ローマの役人、彼らも広い意味でギリシャ人と呼ばれていましたが、異邦人と常日頃交わる人は汚れた罪人と蔑まれていたのです。

フィリポはどうしたでしょうか。「いや私たちの先生は、ユダヤ人ですから、さすがにギリシャ人とは直接お会いになりません」などとは言いませんでした。一人で結論を出さずに、弟子仲間のアンデレに相談しました。アンデレはペトロの兄弟であり、フィリポと同じ、べトサイダという漁師町の出身です。そして二人で主イエス様のところへ行って話したのです。

23節にこう記されています。「イエスは、お答えになった」。今朝の御言葉を何回も読み返してみましたけれども、この時、主イエス様がこのギリシャ人たちと直接お会いしたのかどうかは定かではありません。ギリシャ人たちに向かってお答えになったのか、それとも、こういう人が来ていますとやって来たフィリポとアンデレに向かってお答えになったのかどちらかであります。いずれにしても、主イエス様のもとにギリシャ人、ユダヤ人ではない異邦人が道を求めて訪ねて来た、そのことを前提にしてお答えになったことは間違いありません。主イエス様はこう答えられたのであります。「人の子が栄光を受ける時が来た」。

主イエス様は「時が来た」と言われたのです。主イエス様は、これまでいくつかの場面で「時はまだ来ていない」と言ってこられました。ヨハネによる福音書2章で、あのカナという村で婚礼、結婚式の宴会があった時のことです。主イエス様の母であるマリアが、「ぶどう酒がなくなりました」と知らせましたときに「わたしのときはまだ来ていません」と言われました。また、7章ですけれども、仮庵祭というユダヤのお祭りのときに、主イエス様の兄弟たちが、祭りに行って、あなたのしているわざを人々に見せてはどうかと促しましたときにも「わたしのときはまだ来ていない」とお答えになりました。しかし、今朝の12章23節では、主イエス様ははっきりと、時が来たとおっしゃったのであります。一粒の麦が地に落ちて死ぬべき時が来た、多くの実が豊かに与えられる時が来たと言われたのであります。そして、その中に異邦人も間違いなく入っているといわれたのだと思います。

そこでは、主イエス様の命を頂いて実を結ぶ、大切な、永遠の命を頂く人々の数は多いと宣言されています。さらにこの後の32節では、このようにも言われました。

「わたしは地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

すべての人と言われている通り、主イエス様の十字架によって救いを受ける人は、ユダヤ人だけではなく、すべての国の人です。そして、主イエス様は復活して40日間弟子たちと過ごされた後に天に帰って行かれましたが、その時弟子たちにこう命じています。「あなた方は行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」

どんな人でも、主イエス様を訪ねてくることが出来ます。身分性別や職業、健康状態にかかわらず、誰でも主イエス様の救いの恵みに与り、洗礼を受け、神の子となることができます。教会は、そのような人々を心から歓迎するのです。

たとえば、気心が分かり、同じ民族であるユダヤ人だけが主イエス様の弟子であれば、弟子たちはある意味で気が楽であったかも知れません。しかし、フィリポは、アンデレに相談し、二人でそのギリシャ人を主イエス様のもとに連れて行ったのです。そのとき、主イエス様は時が来たと言われました。これこそが、時が来たことのしるしだと言われたのです。

キリストの教会は、人間的な親しさや、同じ民族や地域、風俗習慣あるいは文化によって結びついているのではないということを思います。教会は、地上的な親しさによって結びあわされるのではなく、天におられる神様の救いのご計画によって結びあわされる神の民なのです。

 それは、神の子である主イエス様が十字架にかかり死ぬという神様の愛のご計画によるものです。救いがユダヤ人だけでなく、全世界に及ぶ、そのような旧約から新約への神様の契約の新展開がこのあと実現します。主イエス様の十字架と復活、そして聖霊の降臨です。ギリシャ人たちが主イエス様を求めてやってきたという出来事の中で、主イエス様は、その神様の世界救済のご計画をご覧になって「いよいよ時が来た」とはっきりとおっしゃられたのであります。

3、

 さて、主イエス様のおっしゃられた一粒の麦のたとえにもう一度心を向けましょう。一粒の麦が死ぬ、そのことによって多くの人、ユダヤ人も異邦人もが皆、命をいただくと先に申しました。けれども、一粒の麦が死ぬということ、それは単に主イエス様ご自身の十字架のことだけを指すのではありません。実は、主イエス様を信じて従ってゆこうとするわたしたち一人一人の生活にも深くかかわるのです。そのことをはっきりと言い表しているのが25節のみ言葉です。

 25節をもう一度お読みします。主イエス様の御言葉です。

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」

 自分の命を憎むと聞いて、躓きを感じる方もおられると思います。およそ愛こそが信仰者にふさわしいのであり、自分を憎む、他の人を憎むなどいうのはおかしいと思うからです。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙5章29節で「夫は自分を愛するように妻を愛せ」と命じたあとで、「わが身を憎んだものは一人もいない」「かえってわが身を養いいたわる」ことが当然だと書いています。そのようにして妻を愛しなさいというのです。聖書は、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいと教えていますように、隣人についても、また自分についても何か無条件で人を憎む事を命じてはいません。そうではなく、むしろ愛することを命じています。

 しかし、主イエス様はここでは「この世で、自分の命を憎む人は永遠の命を得る」と約束しています。「自分の命」を憎むことが勧められているように思えます。しかし、それは永遠の命を得るためだとも言われています。憎むべき命と受けるべき命があるのです。古い命を捨て、新しい命を頂くという子です。わたしたちの中には、実は二人の自分がいて、それぞれに命を主張しているのではないでしょうか。そこには闘いがあるのではないでしょうか。

わたしたちの心のうちには、主イエス様から頂いた、優れたもの、よいものも多くある一方で、いまだ清められていない汚れたものもまた多くあります。人をねたみ、憎む、あるいは、他の人を見下げて、自分は高ぶる、プライドこそわが命と思う、みな自分がすることであります。同じ使徒パウロが、ローマの信徒への手紙7章で「わたしは自分の望む善を行わず、かえって望まないはずの悪を行っている」「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」と書いています。主イエス様がここで永遠の命を得ると言っておられるのは、そのような、利己的な思い、神も人も愛せない、かえって互いに憎み合うような命において死ぬ、古い自分が死ぬ、そのことによってまっとうさせていただく神様の命のことです。

 ここで憎むと訳されている言葉は、憎むという意味だけでなく、軽んずるとか、捨てる、ないがしろにする、無視するという広い意味があります。しかし、主イエス様は、ここでは愛するという言葉と対比させて、愛することの反対である、憎むという意味をあえて前面に出して、わたしたちをドキッとさせる、そういう言い方をしておられるのであります。あなたはいったいどちらで生きてゆくのか、二つに一つであると私たちに決断を迫るのです。

一粒の麦が死ななければ新しい命を生み出すことができないように、わたしたちもまた、一度は死ななければなりません。それは古い自分、救いを受けていない罪によって翻弄されているような自分が完全に死んでしまうことを表します。そのことによって、わたしたちは本当の命、神の命へと至るのです。神様を知らないこの世的な生き方ではなく、主イエス様に従い、主イエス様にお仕えする新しい命に生きるのです。

26節をお読みします。主イエス様の御言葉です。「わたしに仕えようとする者はわたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」「わたしのいるところにいるようになる」、これが大切なことです。主イエス様はそう約束してくださいます。そして、こう続けられます。「わたしに仕える者がいれば、父は、その人を大切にしてくださる」

 「大切にして下さる」、これは「憎む、軽んじる」の反対の意味を持つ言葉です。十戒の第5戒、「汝の父母を敬え」のギリシャ語訳として用いられる言葉です。大切に重んじてくださる。古い命を捨て新しい命を頂いて、主イエス様に仕え、従うわたしたちを天の父なる神さまは心から愛し大切にして下さいます。

 主イエス様のために奉仕をする、そのものを父なる神様もまた大切にしてくださる、その人の命を守り、恵みで満たしてくださると主イエス様は約束してくださいます。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

わたしたちが、主イエス様の命を受けるとき、私たちの中の古い自分、罪の自分は死にます。そして神様の恵みの中で新しい命が生まれます。わたしたちは死ぬことによって生きるのです。主イエス様はわたしたちの信仰生活においても、「死ねば多くの実を結ぶ」という同じ原理が働くと教えてくださっています。

「主イエス様によって結ぶ実」「主イエス様が結ばせてくださる実」は、決して小さなもの、少ないもの、ではありません。それは一粒の麦から実った幾千、幾万の麦の穂と同じように、多いと言われています。その理由は、その実りの実が、主イエス様の命から生まれてくるからであります。主イエス様の命に共に与りましょう。祈りを捧げます。

天の父なる神様、わたしたちは、一粒の麦として死んでくださった主イエス様の恵みによって新しい

命を頂きました。この命を大切にして歩むことが出来ますようお願いいたします。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。