2023年06月04日「イエス、香油を注がれる」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 12章1節~11節

メッセージ

2023年6月4日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書12章1節~11節「香油を注がれたイエス」

1、

 主イエス・キリストの恵みが豊かにありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

 ずいぶん前のことですが、ある教会員のかたから、「イスラエル旅行に行ってきました」とおっしゃって、お土産を下さったことがありました。小さな布袋を開けてみますと、英語でスパイクナード、ナルドの香油と書かれた小瓶が入っていました。スパイクナードは、植物の名前です。花がスパイク、つまり釘のようにとがった筒状のものの集まりであることから、その名がついたようです。このスパイクナードの根から採取したものがナルドの香油だそうです。口をあけて手の甲に垂らして香りをかぎますと、樟脳など防虫剤を連想させるような香りと同時に香水のような甘い香りも感じられました。高山植物の根から採ったものですから昔から香油の中でも大変貴重なものであったようです。イスラエルでは旧約聖書の時代からさまざまな香油が用いられましたが、特にナルドの香油は高級品であったようです。それは化粧品であり、腐敗防止のための薬品であり、また任命式や就任式の儀式で頭に注ぐものでした。さらに死体の葬りのためにも使われました。いずれにせよ、非常に大切なものでありました。

 ただ今、お聞きしました御言葉の12章3節にこう書かれております。「家は香油の香りでいっぱいになった」

 小さなびんの口から香ってくる香りであっても、ああ深い香りと感じることが出来る香油ですが、それがまるまる石膏の容器一瓶分が注がれたことを思いました。ああ、この香りが、主イエス様の足元や体全体から、弟子たちがいる部屋中に漂っていったのか、それだけでなく台所や二階も含めて、家の中の隅々にまで満ちたのかと思いました。

2、

主イエスのみ体に、一人の女性が純粋なナルドの香油を注ぎかけるというお話は、新約聖書の四つの福音書のいずれにも記されています。つまり大変有名な、そして教会の中で大切にされてきた物語であることが分かります。しかし、この物語は、四つの福音書の中で、それぞれの物語に微妙な違いがあり、一体これをどう読むのかという問いを投げかけています。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、そしてただ今聞きましたヨハネによる福音書という三つの福音書では、これは主イエス様がいよいよ十字架にお掛りになるという、福音伝道の終りのほうに起きたことになっています。けれども、ルカによる福音書では、全部で24章あるうちの第7章におかれていまして、もっと早い時期、ガリラヤ伝道の初めに起きたことであります。いったいいつ起きたのかということが問題になってくるのです。しかし、よく御言葉を調べてみますと、ルカの場合には、ほかの福音書とは違いまして、この出来事が起きている時が違うだけではありません。香油を注いだ女の名前は何も記録されておらず、ただ罪深い女とだけ記されている、そして、主イエス様の葬りのためという大切な言葉が出ていないのですね。そこでルカによる福音書の記事は同じ香油注ぎなのですが、これはマタイ・マルコ・ヨハネに書かれているものとは別の出来事であると考えることができます。

一方、マタイ、マルコ、ヨハネの三つの福音書のほうは、これは同じ一つの出来事を三つの福音書がそれぞれの仕方でしるしていったものだろうと思われます。わたくしたちが目の前にしておりますのはヨハネによる福音書であります。

 12章1節をお読みします。

「過ぎ越し祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」

 今朝の御言葉では、この出来事が起きましたのは、過ぎ越し祭りの六日前です。ところがマタイによる福音書とマルコによる福音書では、前後関係からは、過ぎ越し祭の二日前のところに物語が置かれています。しかし、マタイのほうもマルコのほうも、よく確かめますと、このことがいつ起きたかということについて、実ははっきりしたことは書かれていないのですね。そうしますと、わたしたちは、はっきりと書いてあるヨハネによる福音書に従って、このことは過ぎ越し祭の六日前、つまり主イエス様の十字架のちょうど一週間前に起きたと判断することができます。また、このことが起きた場所については、どうでしょうか。マタイによる福音書とマルコによる福音書にはライ病の人シモンの家、新共同訳聖書の新しい版では重い皮膚病の人シモンの家である、と書かれています。このヨハネによる福音書では、そのことは必ずしも明確ではありません。11章で、主イエス様がマリア、マルタ、ラザロの三兄弟の家をお訪ねになっていますので、12章もまた同じ家におられるように読んでしまいますが、実はそのことははっきり書いてあるわけではありません。

 1節の終りに「そこにはラザロがいた」とあります。これは、場所がラザロの家だというのではなく、ベタニアという町についての説明です。したがって、このことが起きた場所については、マタイによる福音書とマルコによる福音書が明確に書いていますからそれに従って、シモンの家でなされたということができます。2節に「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とありますが、その書き方は、ラザロは家族のようではなく、外から来て座っているという感じの書き方ではないでしょうか。

この病にかかると人々から隔離され差別される病であった重い皮膚病を主イエス様によって癒していただいたシモンという人の家で主イエス様を囲む集会があったのです。そのあとで皆が一緒に食事をしようとしているのです。その家の中でマルタが給仕をしている、そのことも、シモンの家に主イエス様がおいでなり、そこで集会がありマルタが奉仕に来ていると考えればおかしくありません。

11章は、ラザロの葬儀が舞台でありました。その葬儀の中で、主イエス様は死んだラザロを生き返らせるという奇跡中の奇跡をなさいました。この情報はエルサレムとその近郊に瞬く間に伝わって、多くの人々が、ついにメシアが来てくださったと主イエス様に期待を抱くようになりました。人々が、主イエス様を信じるようになるということで、危機感を抱きましたエルサレムの神殿当局、祭司長や律法学者たちは、主イエス様を殺害することを決定しました。逮捕状が出され、またそれと同時に、逮捕後は死刑とするというあらかじめ定めた内定書の両方が出されました。そこで、主イエス様と弟子たちは、エルサレムを離れ、エフライムという荒れ野にじっと身をひそめていたのです。

 しかし、いよいよ過ぎ越し祭りが近づきましたときに、主イエス様はエルサレムから数キロの町、ラザロをよみがえらせる奇跡をなさった町であるベタニア村に再び姿を現されたのであります。ついに神様の時がやってきました。主イエス様は、それをはっきりと自覚しておられました。

 いよいよ、明日はエルサレムに入城されるというその日であります。主イエス様がマリアから香油を注がれる、そして主イエス様が、これは私の葬り、今日は葬りの日だとおっしゃったことは、大きな意味があります。すなわちシンボル的な意味があるのです。このマリアの香油注ぎは、主イエス様が、翌朝からエルサレムにお入りになるのが何のためであるのかを象徴的に物語っています。つまり主イエス様は、このあとユダの裏切りによって敵に引き渡され、死刑を宣告され、そして十字架にお掛りになって、命を捨てられるのです。

 マタイやマルコのいずれもが、これは私の葬りの備えだと主イエス様がおっしゃったと記しているのに対して、ヨハネは、ここでは主イエス様の言葉から「備え」という言葉を省いておりまして、丸で主イエス様が「マリアは、今日というわたしの葬りの日のために高価な香油をとっておいた」と人々におっしゃられた、「備え」ではなく「葬りそのもの」である、そう解釈していることは大切なことです。

 すなわちマリアは、自分でもわからないまま何かに取り付かれたかのように、主イエス様の足に香油を全部注いでしまうのです。1リトラは重さの単位で326グラムと換算されます。今の貨幣で1グラム1万円はすると思われる純粋で高価なナルドの香油を注ぎ、しかも女性にとって大切な自分の髪の毛で、拭うのです。主イエス様への最高のもてなしであり、奉仕です。しかしマリアは、ここでは主イエス様の死を先取りしているのです。

 どうして、マリアは一年分の賃金にもあたる高価なナルドの香油を持っていたのでしょうか。ある人は、これは自分の結婚式のために親が用意してくれたものではないかと説明しています。結婚式で人々をもてなすために、自分と両親とが蓄えていた1リトラの香油をマリアは主イエス様に注ぎました。自分にとって大切なものをすべて主イエス様に捧げつくす、そのようにしてマリアは、気が付かないうちに、主イエス様の葬りの儀式を行ったのであります。

3、

 この美しい光景を見ていた人々の中で、計算してはならないものをすぐに計算する人がいました。それは弟子たちの会計係をしていたユダでありました。

4節と5節の御言葉をお読みします。「弟子のひとりで、のちにイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。なぜ、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」

 主イエス様がこののち、エルサレムでなさろうとしておられることは、ただ神様の愛の御働きです。それは主イエス様が十字架にお掛になるということです。人々の、いやわたしたちの罪をあがない、わたしたちを死と悲惨に定めている神様の裁き、御怒りから私たちが解き放たれる、この神様の愛は決して数字に換算することができません。主イエス様は、損得ではなく、ただ私たちを憐れんで下さるがゆえに、私たちを愛し、恵まれるがゆえにそうなさいます。

 それに先立ち、かけがえのない高価で純粋なナルドの香油が、主イエス様に注がれました。身を横たえて食事をするユダヤ式の食事の、その投げ出された主イエスの足に、マリアは、ひれ伏すようにして、香油を注ぎました。香油の香りが家の中いっぱいに漂いました。

 しかしイスカリオテのユダが、その場にあふれる恵みをぶち壊すようにしてマリアを問い詰めました。

 ほかの福音書を見ますと、ユダだけでなく、他の弟子たちもユダに同調したようです。彼らはマリアのしていることに価値を見出さなかったのです。それだけでなく、マリアを批判しなければならないと考えました。

 確かに貧しい人々に施しをすることは大切なことです。財布を預かっていたユダは、これまでも、その財布から施しをしていたでありましょうし、人々を助ける主イエス様と弟子たちの生活を支えていたことでしょう。マリアが差し出した高価な香油もまた、そのための資金となるべきだといって、マリアを叱ったのです。

 しかし、ヨハネはユダの心の中を知って、ここでは、ユダが不正をしていたので、その穴埋めのお金に困っていたことを暴露します。しかし、このときは誰もそのことに気がついてはいなかったのです。

 教会の働きにおいては、金銭的なことがきちんとしていることが必要です。すべては、兄弟姉妹の捧げものであり、その扱いについては信頼がなければなりません。しかし、そもそも主イエス様の御働き、それを行う教会の働きは、金銭を目的とするものではないということを私たちはいつも覚えておかなければならないのです。教会は計算ができないものよって生かされ、損得を超えたものによって働くのです。伝道もそうですし、奉仕もそうです。すべてのものがそうです。しかし、ユダは、直ちに頭をはたらかせて計算しました。「300デナリで売ればよかった。」

ところが、このマリアの行ったことは300デナリというような金額、それは今のお金で300万円にもなる金額ですが、それと比較することができないことでありました。

 主イエス様は、ユダに向かって、ユダだけでなく弟子たちとそこにある兄弟姉妹たちに言われました。「この人のするままにさせておきなさい」「私の葬りの日のためにそれをとっておいたのだから」今日という日のために、その香油がとっておかれた、マリアはそれをふさわしく持ち置いたというのです。

 私たちの捧げものも、奉仕も、本来、私たち自身によってではなく、主イエス様によってその価値が定められます。しかし、私たちは、いつもそれを自分の人間的な計算によって価値をつけようとします。他の人と比べ、他の人の働きを値踏みして批判します。しかし、主イエス様は、その本当の値打ちを必ず知っていてくださいます。それは主イエス様がいつも真実の愛によって生きておられるからであり、一人一人をかけがえないものとして愛し愛しぬいてくださるからであります。

 このあとに讃美歌391番を歌います。

「ナルドの壺ならねど」・・マリアの捧げたナルドの壺にはとても及ばないとしてしても、しかし、私たちのできる奉仕、小さな捧げもの、それをただ主イエス様と兄弟姉妹がたへの愛によって、わたしたちは行います、捧げます、どうかこの愛を受けてくださいと歌います。

 わたしたちが、心をこめて主イエス様にお仕えするとき、あのベタニア村の一軒の家をいっぱいにしたナルドの香油のかぐわしい、美しい香りは、きっとわたしたちの教会にもあふれます。その香りは教会の窓や壁を通り抜けて、この世界全体に少しずつかもしれませんけれども、伝わってゆくのです。主イエス様は、貧しい人はいつもあなた方と一緒にいる、とおっしゃいました。計算や損得ではなく、ただ主イエス様の愛によって、また主イエス様への愛によって、神を愛し隣人を愛する愛のわざによって、すべてのことを行いたいのです。祈ります。

尊き主イエス・キリストの父なる神、あなたの御名を崇めます。わたしたちの信仰による奉仕が、薫り高い香油のように、清い、そして主イエス様に喜ばれるものでありますように、どうか導いてください。教会全体がそのような奉仕で満たされ、いよいよ恵みを増し加えられますようお願いいたします。主イエス様の御名によって祈ります。