2023年04月16日「あるがままのあなたが素晴らしい」

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聖書の言葉

マタイによる福音書 9章9節~13節

メッセージ

「昔、ドイツにある夫婦がいました。ご主人は性病を患っていました。奥さんは結核を患っていました。二人の間には既に4人の子供がいます。最初の子供は目が不自由で産まれてきました。二番目の子供は残念ながら死産でした。三番目の子供はろうあ者として産まれてきました。そして四番目の子供は、今、結核を患っています。今、奥さんは五番目の子供を妊娠したばかりです。さて、あなたはこの二人に、五番目の子供を産むことを勧めますか?それとも、中絶することを勧めますか?」これは、実はある医学部の教授が、医学部の学生たちに対して投げかけた質問だそうです。この質問に対して、学生たちのほとんどが、「中絶を勧めます」と答えた、と言います。すると、その大学の教授は、そのことを確認した上で、このように言われるそうです。「おめでとう!君たちは今、ベートーベンを殺したのです!」と。

 あの有名なベートーベンは、そういう劣悪な環境の中で産まれてきたのです。もし、ベートーベンが生まれていなければ、あの有名な「運命」や「田園」や「第九」といった素晴らしい交響曲は、存在しなかったことになるでしょう。何故、この大学の教授は、この質問を、医学部の学生たちにしたのでしょうか。おそらく、この教授は、「人間の命に関わる仕事をする人は、命の尊厳性の前に、本当にへりくだらなければならない。まるで自分たちがあたかも人の命を左右できるかのように思ってはならない!」そういうことを伝えたかったのだと思います。しかし、これは何も将来、医者になる人だけの話ではありません。全ての人間が、命の尊厳性の前に本当にへりくだらなければならない。命の尊さは、健康か病気か、障碍があるかないか、優れた能力をもっているかどうか、外見が美しいかどうか、という人間の評価によって左右されるものではないのです。今の時代は、命が軽く見られている時代です。毎日のように殺人事件がおこり、毎日のようにどこかで誰かが自ら命を絶っています。日本だけで一年間に3万人もの人々が自ら命を断っているという悲しい現実があります。

本論Ⅰ 

 聖書は、人の価値や尊さは、人間の評価で決まるものではない、と教えます。聖書は、神様がこの世界の全てのものをお造りになり、その中でも、私たち人間を神様ご自身の性質に似せた者として、全く自由で、人格ある特別な存在として造り、特別な愛の交わりの中に置いて下さった、と教えます。つまり、人間をお造りになった神様が、私たちをあるがままで受け止め、尊く、価値ある存在として見なし、愛して下さる、と言うのです。美しいから愛する、何かが出来るから愛するというのではなくて、神様は私たちの存在そのものを愛して下さいます。聖書は、ここに人間の価値の土台がある、と教えているのです。

 ところが残年なことに、私たち人間は、せっかく神様から尊く、価値ある存在として造られたにもかかわらず、神様から与えられた自由な意志を乱用してしまい、造り主なる神様から離れてしまいました。清く正しい造り主なる神様から離れてしまったので、人間は本来の輝きを失ってしまった、いやむしろ堕落し、罪をはらむ存在となってしまった、と聖書は教えているのです。

 ある国で内乱が起き、多くの人々が虐殺されました。その虐殺からかろうじて免れた人々が難民キャンプに連れて来られたそうです。その中に幼い子どもが一人いました。両親を目の前で殴り殺され、逃げる途中も多くの人々が殺されるのを見ながら、その子は命からがら逃げてきました。大変なショックと心の傷を負い、難民キャンプに辿り着いた時には、もうその子は生きる気力を失っていたそうです。幸い、そのキャンプには医療器具も食料も充実していて、その子は食べることに不自由しませんでした。怪我と病気も完全に治療してもらうことが出来ました。けれども、どんなに栄養を与えても、その子の体は拒否反応を起こして受け付けず、日に日にその子は痩せ衰えていきました。とうとう医者もさじを投げ、「この子が死ぬのは、もう時間の問題だ!」と誰もが思っていた、と言います。ところが、そのキャンプで奉仕していたボランテイアの青年の一人が、その子を抱き上げると、朝から晩まで、ずっと抱きしめ、耳元でささやき、子守唄を歌い、顔や身体をやさしく撫でてやったそうです。何一つ反応を示さないその子を、青年は来る日も来る日も、ずっと一緒にいて、やさしく語りかけ、子守唄を歌い、しっかりと抱きしめたのでした。するとどうでしょう。それまで顔がこわばり、にこりともしなかったその子が、ある日、かすかに笑うようになった、と言うのです。そして、あれほど拒絶していた栄養も受け付けるようになり、それからというもの、みるみるうちに健康を回復していったそうです。

 何故、この子は助かったのでしょうか。この子自身が「生きたい」と思ったからです。大切な家族を目の前で殺され、絶望感にさいなまれる中で、何の希望もなく、誰からも愛されず、必要とされていないと思った時に、この子は本能的に自分の命を閉じようとしたのです。けれども、一人の青年が懸命にこの子に愛を注いだ時に、この子は自分の意志で「生きたい」と思うようになった。これは将に愛の奇跡でありましょう。人間は、ただたべもの食物や栄養だけで生きているのではありません。自分を愛し、あるがままで受け入れてくれる存在がどうしても必要なのです。

 私たちには、それぞれに弱さがあり、欠けがあり、破れがあります。もしかすると私たちは、神様から見れば、霊的に瀕死の状態にあるのかもしれません。先程の少年のように「もう何をやっても無駄だ!」と神様がさじを投げても何も文句が言えないような私たちです。けれども、神様は「そんなあなたでは愛せない」とは言われません。「美しいから愛する。格好いいから愛する。おしとやかだから愛する。頭が良いから愛する。優しいから愛する。そうではなくて、あなたがあなただから私はあなたを愛する。あるがままのあなたを愛する。あなたは愛されるために生まれてきたのだ!」「諦めてはいけない、もう一度、勇気を出して新しく生きてみるように!」と招いて下さるのです。瀕死の状態にあった子供を、ただひたすらに抱きしめたあの青年のように、神様は私たちを、欠けや弱さや破れをもったままで抱きしめて下さる。愛して下さる。受けとめて下さるのです。

 先程、お読みした聖書の箇所には、このように言われていました。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している。」旧約聖書のイザヤ書43章4節の御言葉です。神様の目には私たち一人一人が価高く、尊い存在なのだ、と言うのです。このイザヤ書の御言葉は、劣等感にさいなまれていたイスラエルの人たちに語りかけられた御言葉でした。イスラエルの人たちは、自分たちこそが神様に選ばれた「神の民」である、という誇りをもっていました。そして、それに見あうような黄金時代もイスラエルの国には確かにあったのです。イスラエルの国は、ダビデやソロモンという王様の時代には、けんらんごうか絢爛豪華な宮殿に神殿、立派な町、様々な芸術作品、世界に誇る文化を持っていました。ところが、このイザヤ書が書かれた頃のイスラエルは、バビロニアという大国に攻め込まれて、立派な神殿は破壊され、エルサレムの町はがれき瓦礫の山と化し、王様も含めて、ほとんどの人たちがバビロニアの国へ奴隷として連れて行かれてしまったのです。そしてバビロニアでの長い長い補囚の生活が始まりました。人々は、もうこんな落ちぶれた姿では神様から見捨てられてしまったのではないか、生きる価値など無いのではないか、と諦めかけていたのです。ソロモンの時代ならば、自分たちがユダヤ人であることを誇ることも出来たでしょう。けれども、全てを失った今、もう帰る国さえもない。そして今、外国の奴隷として売られている。もう彼らのプライドはズタズタです。けれども、そういうどん底にあるイスラエルに向かって、先程の御言葉は語りかけられました。「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛している!」と。つまり、「あなたには、あの黄金時代と少しも変わらない価値がある。絶大な価値がある。あなたの値打ちは寸分たりとも失われてはいない!」このように神様は、この落ちぶれた、どん底のイスラエルに対して語りかけて下さったのです。これが神様の私たちに対する眼差しです。

本論Ⅱ

 ここで先程お読みしたもう一つの聖書の箇所、マタイによる福音書の御言葉に注目いたしましょう。マタイによる福音書9章9節。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。」

 マタイは税金を集める仕事を請け負っていた徴税人でした。この徴税人という仕事は、当時ユダヤでは、非常に嫌われた職業でした。その理由はおも主に二つあります。当時のユダヤの国は、ローマ帝国に支配されていましたから、当然、民衆から集められた税金は、ローマ帝国のふところに入っていきます。徴税人は、ユダヤ人でありながら、このローマ帝国の支配に手をかし、民衆から税金をしぼり取っていたのです。そのために彼らは、「国を売った者」「民族の裏切り者」と罵られ、人々から嫌われていました。しかし、ただそれだけではありません。この頃の徴税という仕事はただの請負仕事であり、ローマ帝国からは「あなたは税金を集める仕事をしてもよい」という許可証が発行されただけなのです。ですから、この徴税という仕事をしたからと言って決まった給料がもらえたわけではありません。では徴税人たちはどうやって生計を立てていたのでしょうか。彼らは、ローマに納める金額よりも多くの金額を人々から集め、その差額を自分の収入にしていたのです。納める方のお金は決まっていますから、多く集めれば集めるほど自分の収入が増えていきます。当然、徴税人は自分の収入を増やすために、出来るだけ多くのお金を民衆からしぼり取ろうとしました。ある聖書学者は、この徴税人について、このように解説しています。「徴税人は、路上で歩行者に停止を命じ、包みを開けさせ、通行税、物品税としてほとんど好きなだけの額を要求することが出来た。払うことが出来ない場合には、途方もなく高い利子で自分のお金を借りるように強要し、ますます相手を毒牙にかけてしまうのだった。盗賊、人殺し、徴税人はみな皆同類と見なされていた。」ここまでくると、もう犯罪ですね。彼らは、そう大して悪い人間でもないのに、人々から誤解されていた、偏見の目で見られていた、ということでは決してなかったのです。彼らには、実際にそういう目で見られても仕方がないような実質があったのでした。

 マタイは、この時、徴税人として収税所に座っていました。私服に着替えて、人混みの中に紛れていたわけではありません。イエス様がちょうどそこを通りかかられた時に、マタイの罪は非常にはっきりとした形で表れていたのです。もしかすると、人々から税金を強引に取り立てている真っ最中だったのかもしれません。あるいは出し渋る相手を脅していたのかもしれません。あるいは、その日に取り立てたお金を数えながら、ニヤニヤしていたのかもしれない。いずれにしても、この時、マタイは、「今、将に罪を犯している」という罪の現場にいたのです。イエス様はそのマタイをご覧になりました。

 マタイはこの時、どんな気持ちがしたでしょうか。きっとマタイもイエス様の評判は聞いていたに違いありません。「清く正しい先生である」、あるいは「預言者かもしれない」、「いや預言者以上のお方であるらしい!」ちまたでそういう評判のイエス様が、他でもない自分を見つめているのです。身のすくむような思いがしたのかもしれません。あるいは、いなおって収税所に座り続けていたのかもしれない。いずれにしても、彼はそこにいたならば罪人であることが最もよく分かる場所に座りながら、イエス様に見つめられてしまったのです。

 イエス様は、このマタイに向かって、「私に従いなさい!」と呼びかけて下さいました。マタイはこの時、本当に驚いたと思います。今までこの国には、立派な宗教家と言われる人々が大勢いました。しかし彼らは、マタイのようなあくどい仕事をしている人間には近づかない。いや、むしろ遠ざかることが清らかな人間のあるべき姿である、と思っていました。立派な人間であればあるほど、清らかな人間同士が集まってグループを作り、マタイのような人間はそのグループに入ることが出来ない、これが当時の常識でした。ところがイエス様は、マタイが収税所に座っているのをご覧になりながら、「私に従いなさい!」と語りかけて下さったのです。誰の目にも明らかな徴税人です。彼は罪の現場にいたのです。そのマタイに向かってイエス様は、驚くべきことに、「私に従いなさい!」と招かれたのでした。

本論Ⅲ 

 イエス様は、いつもこのような仕方で私たちを招いて下さいます。私たちの罪をはっきりとご覧になりながら、その私たちに向かって、「私に従いなさい!」「私と一緒に生きるように!」と招いて下さるのです。

 しかし、ここで誤解してはならない事柄が一つあります。確かにイエス様は、このマタイのような社会から見捨てられていた人々、町のならず者や徴税人や罪人と呼ばれる人々をあるがままの姿で受け入れて下さいました。けれども、イエス様は彼らの生き方そのものを肯定なさったわけではありません。貧しい者をだまし、沢山の税金を取り立て、私腹を肥やしていた徴税人の生き方。神様の戒めを無視し、やりたい放題のことをして生きていた罪人の生き方。それがそのままに認められたわけではないのです。あくまでも罪は罪です。罰せられなければならない。そして、これは決して他人事ではありません。

 聖書によれば、「人間は皆、罪人である」と言われます。そもそも、この「罪」という言葉のもともとの意味は、引いた矢が的をはずすことを意味する、と言われます。的をはずす生き方をしていながら、それに気づいていない。自分は的をはずしていないと言い張る。それこそが根源的な罪なのだ、と聖書は言うのです。それでは私たちの生き方が「的はずれ」にならないために、目指すべき的とはいったい何でしょうか。宗教改革者カルヴァンは、「神を知り、神を礼拝する喜びを知らない人は人間ではない」と言っています。私たちは「神を知り、神を礼拝する」ために神様から造られました。その私たちが神様を忘れ、神様以外のものを拝むならば、それは将に的はずれな生き方をしている、ということになるでしょう。聖書は、それこそが根源的な罪であり、そのような生き方の中から、諸々の罪が生まれてくるのだ、と言うのです。「あいつさえいなければ」と思い、心の中で人を抹殺してしまう。人が見ていないからといって、手をぬいたり、ごまかしたり、嘘をついたりしてしまう。色んなけが汚れや色んな醜さが、人にはそれぞれあると思います。それが、神様を離れて生きるという根源的な罪から派生する諸々の罪の中身です。警察に捕まるような犯罪も、勿論、罪ですが、たとえ実行しなくても、心の中で考えるだけでも、神様から見れば、それも明らかな罪なのです。私たちを造られた神様は、正義の神様ですから、たとえどんな小さな罪であっても、罪は罪として、決してうやむやになさるようなお方ではありません。罪は必ず罰せられなければならない。けれども、神様は同時に愛の神様でもあります。私たちがどんなに罪深くても、どんなにけが汚れていても、私たちの思いが今は神様に向いていなくても、神様は私たちのことを掛け替えのない存在として受けとめ、愛し抜いて下さるのです。神様は、この愛と正義を貫くために、本当に大きな大きな犠牲を払って下さいました。それがあのイエス・キリストの十字架です。聖書は、神の御子イエス・キリストが、私たちの身代わりとなり、私たちの罪を全部背負って十字架の上で死んで下さった、本来、私たちが受けなければならない神の怒りと呪いを、あの御子イエス・キリストが十字架の上で全部引き受けて下さった、と教えます。そして、このことを信じ受け入れるならば、もうあなたは裁かれることがない、神の怒りと呪いは、もう一欠片も残っていないのだ、と聖書は教えるのです。

 当時、十字架刑は、死刑の中でも最も残酷な刑罰でした。まずイエス・キリストは目隠しをされ、鞭打ちの刑を受けられました。当時の鞭の先端には、鋭利な動物の骨が取り付けられていて、鞭が体を打ち付けるたびに、肉はザクロのように裂け、血しぶきが舞ったと言います。頭には数センチほどの棘をもった茨の冠が突き刺さり、血がしたた滴り落ちていました。顔も平手で何度も何度も殴られて、人相が変わるぐらいに腫れあがっていました。そんなボロボロになったイエス・キリストが十字架に釘付けにされて、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に息を引き取られたのです。神の独り子が、どうしてこんな惨めな、壮絶な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは他でもない私の罪のためです。他でもないあなたの罪のためです。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけました。それほどまでに私たちの罪は大きいのです。

 また、それだけにあの壮絶なイエス・キリストの十字架を見れば、神様の愛がいかに大きなものであったかがよく分かると思います。何故、神様はそんな犠牲を払ってまで私たちを救おうとなさったのでしょうか。それは、神様が私たちをそれほどまでに愛し抜いて下さったからです。つまり、神様にとって私たちの命は、御子を犠牲にするほどまでに価高く、尊く、掛け替えのないものであった、ということでありましょう。

本論Ⅳ

 さて、この後、マタイは、どうしたでしょうか。彼は、このイエス様の招きに、たちどころに従った、と今日の箇所には言われています。そして続く10節には、このように言われます。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」

 マタイは、徴税人仲間を呼んで、イエス様を囲んで食事会を開きました。こんな自分にイエス様は目を留めて下さった。もう嬉しくて嬉しくて、たまらなかったのでしょう。「この喜びを仲間たちにも、是非、知ってもらいたい!」と思い、彼は仲間たちを呼び集めたのです。ところが、この食事会の様子を見て、ユダヤ教の指導者たちは、弟子たちに対して文句を言いました。11節。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」

 「こんなにいかがわしい人たちと食事まで一緒にするとは、いったいあなたたちは、どういうつもりか!」ユダヤ教の指導者たちは、イエス様の弟子たちに向かって、そういう質問をしたのです。この非難はマタイのような者の胸には、本当に深く突き刺さる言葉ではなかったかと思います。「あなたのような人間がいるというのは、教会は何とけが汚れた、みすぼらしい人々の集まりなのか!」という非難です。教会員の方々は時々、この非難を恐れることがあります。「私は、自分がクリスチャンであることを、まだ面目なくて人には言えません。私はそっとクリスチャンをしています。」こういう方が中にはいらっしゃるのです。けれども、イエス様はそういう非難に対して、教会を守り、マタイを守られました。

12節。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

 医者の周りには、当然、病人が集まって来ます。そして腕のいい医者の周りほど、重病患者が集まってくるものでしょう。もし私たちが病院の待合室に行った時に、重い病気の人が沢山いたとしたら、どう思うでしょうか。こんなに重病患者ばかりいる病院では危なっかしくて信頼できない、とは思いません。むしろ重い病人、難病と言われている人が沢山いる病院は、腕のいい医者がいることのしるしでありましょう。

 イエス様は魂を癒す医者です。教会は、魂が重く病んでいる人々が来てよいところなのです。むしろそういう人が来ていることが、イエス様の誉れになるのではないかと思います。イエス様のまわりには、ユダヤ教の指導者たちが投げ出す他は無かった罪人が大勢集まって来ました。教会には、癒された人々もずっと来続けるわけですから、病院とは少々性格は違うでしょう。けれども、教会は、本来、イエス様に救っていただく必要のある人々が来るところであり、罪人が安心して集うことが出来る場所なのです。今日、教会に初めて来られた方々は、「教会というところは、立派で、心清らかな人たちが集まるところで、自分のような人間は教会には相応しくない!」などと決して思わないでください。「イエス様のもとには、徴税人や罪人が沢山集まっていた。」これが聖書の主張なのですから。

結論 

 「確かにあなたには醜さもあるし、弱さもある。暗い生活があり、否定的な考え方があり、冷たい心もある。私はそのことをちゃんと知っている。しかし、それは決してあなたの全てではない!あなたの最も深いところには、本当のあなたがいるではないか!神様に造られた素晴らしい可能性を秘めたあなたがいるではないか!!今は誰にも見えていないのかもしれない。けれども、掛け替えのない、素晴らしい可能性をもったあなたが、私には見える。早く、そのあなた自身に気づいて欲しい!そして、あなたはあなたらしく輝いて生きて欲しい!!」イエス・キリストは、自らの命を犠牲にしてまでも、私たちに近づき、こう語りかけて下さるのです。このイエス・キリストの救いは、ごく一部の信仰のエリートたちだけに与えられるものではありません。マタイのような社会からはみ出した、社会から見捨てられた者にも与えられる救いです。勿論、ここにおられるお一人お一人にも与えられる救いであります。あなたも、この神様に愛されています。あるがままのあなたが愛されているのです。今日、是非、この神様の愛を素直に受けとめて、希望をもって新しく生き始めていただきたいと思います。祈ります。

祈り

 イエス様、あなたは、私たちがまことに罪深い人間であることをはっきりとご覧になりながら、「私に従いなさい!」と私たちを招いて下さいました。心から感謝をいたします。私たちの内には、なお様々な罪がこびりついています。どうか魂の医者であるあなたが、私たちの魂を癒して下さり、罪赦されて生きる喜びを私たちに味わわせて下さい。特に、今日、初めてあなたのことを知った方々に、あなたが特別に働きかけて下さり、真実の平安と希望をその心に届けて下さい。それぞれの仕方であなたとの出会いが与えられますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。