2023年03月19日「素晴らしい羊飼い、イエス」

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聖書の言葉

わたしは良い羊飼いである、よい羊飼いは羊のために命を捨てるヨハネによる福音書 10章11節~21節

メッセージ

2023年3月19日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書10章11節~21節「素晴らしい羊飼い、イエス」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝の説教の準備をしながら、一つの讃美歌が心に浮かんできました。それは讃美歌211番、「按手礼」と名付けられているもので、教師任職式に必ず歌われる讃美歌です。このような歌い出しです。「ひつじかいのひつじかいよ、わが主よ」。わたしたちの教派の原則では、教師試験に合格しましても、いずれかの教会から牧者として招聘を受ける、言い換えますと外的な目に見える召命がなければ教師として任職されることはありません。その教師任職式が中会の議場でなされますときにこの211番が歌われます。ここには、それぞれの教会には牧会者、つまり羊飼いが立てられるとしても、究極の羊飼いは主イエス様であるということが歌われています。

英語では牧師のことをパスターといいます。辞書を引きますと、もはや、このパスターという言葉自体に「羊飼い」と言う意味はありません。英語で羊飼いはシェファードです。けれども、パスターと関係するパスチュアー、パストラルという言葉は、牧場、牧歌的という意味ですのでパスター、牧師が羊飼いのイメージを持っていることは明白です。

 「羊飼いの羊飼いよ、主イエスよ」、按手礼では、この讃美歌を皆で歌います。これは、羊飼いは牧師のことであることを示しています。この究極の羊飼いは、ただ牧師たちだけの羊飼いではありません。

今朝のみ言葉の11節と14節で、主イエス様は「わたしは良い羊飼いである」とに二回繰り返して言われました。主イエス様によって牧していただく、導かれる羊たちとは、父なる神様が主イエス様に与えてくださる神の子たちのことであります。

主イエス様を信じ、主イエス様に従う者たちにとって、ただお一人の究極の羊飼いが主イエス様です。そして主イエス様は、教会の中の誰に対しても「よい羊飼い」としてお働きになられます。

また、教会ではお互いに牧会し合うと言うことが行われます。万人祭司、皆が祭司であり牧師であります。そうなりますと皆が羊飼いであると言うこともできます。主イエス様に倣う羊飼いは皆が「よい羊飼い」でなければならないと思います。

本の言葉では、羊飼いという言葉は単数形ですけれども、「ホ」という定冠詞がついています。大部分の英語聖書、アイ・アム・ザ・グッドシェパード、ザ、羊飼いと訳します。羊飼いは多くいる。牧師も他の教会役員も、また会員の一人一人が羊飼いであるといってもよい、しかし、わたしが、わたしこそが羊飼いの中の羊飼い,良い羊飼いであると主イエス様はとおっしゃるのです。

2、

これは前回の個所になりますが、主イエス様は10章の1節、そして8節から10節で、羊飼いのふりをして羊の囲い、羊の檻にはいってくる盗人や強盗、のことをお語りになりました。また、今朝のみ言葉の12節13節では、雇い人の羊飼いのことがでてきます。

雇人という言葉から、わたくしは現実の教会の牧師たちのことを思いめぐらしました。事実上、教会の牧師たちは教会からその職務のために招かれて働く人、言ってみれば雇人ですけれども、ここでは、その雇人が良い羊飼いではない人の代表となっています。羊を持たない雇人の羊飼いはオオカミが来るとすぐに逃げ出してしまいます。そして主イエス様は、そういう者たちに対して、わたしが、わたしこそが良い羊飼いであるといわれました。

これは牧師に対する戒めの言葉ではないかと理解する方がおられるかも知れません。羊を置き去りにして逃げ出すような牧師であってはならないという警告と受け受けることができるのではないかというのです。およそ、牧師と言うものは決して雇い人の羊飼い、よく言われるサラリーマン牧師であってはならない。中には、ましてや羊飼いの姿をした盗人や強盗さえいるから気を付けよ。羊たち、つまり教会員をだまして自分の利益を図る盗人や強盗のような牧師さえいるではないか、そのような牧師にならないようにせよと牧師を戒める言葉というように受け取るのです。しかし、わたくしは決して、逃げるような気持ちでこういうのではありませんけれども、ここは決して牧師を戒める言葉ではない、あるいは教会役員を戒める言葉ではない、そう言断言することが出来ます。そうではなく、今朝の御言葉は、世の牧師たちを戒める言葉ではなく、主イエス様ご自身が、ご自分についてはっきりと証しをなさる、そのような御言葉であります。11節もう一度お読みします。「わたしは良い羊会である、良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

あるお寺の住職が、東日本大震災のボランティアに通ううちに、被災地に住んで、もっと被災者によりそう生活をしたいと一大決心をしました。そして彼は、東北の被災地のお寺に移ったというのです。彼はこう言います。「自分がこれまでしてきたのは、住職、お坊さんだったけれども、実際にはこの世のサラリーマンとなんら変わらなかった、テラリーマンだった」。実に安定した生活があり、社会的にも経済的にも優遇されていた。その中で、自分の本当の使命を忘れていた、テラリーマンだったと言われるのです。

わたくしは、この記事を、よみまして自分自身のことを思い返してみました。実は、わたくしは正真正銘のサラリーマンを25年間、していたことがあります。けれども、その中で、安定した生活とか、収入とかが、そのことが、わたしをささえるものであったことは事実です。けれどもそれらが自分が仕事をする上で中心的な動機ではありませんでした。そうではなく、キリスト信者、信仰者として、神様のおつくりになった世界の中で、どんな仕事にも、神さまの御心に適う使命が与えられていると信じて仕事をしてきました。ですから牧師になったときに、これまでよりは不安定で厳しい仕事だと言うことは分かってはいましたけれども、神様から与えられた使命を果たすと言う点では、基本的な変化はなかったのであります。

これは改革派信仰、正統的標準的なキリスト教信仰の世界では当たり前のことです。神様がお働きになるのは、教会や信仰の世界だけではなく、天地万物のすべてであります。私たちのまわりの大自然も気候も、家庭も会社も学校も政府の機関も、この世界のすべてのことが神さまの創造と摂理の御手の内にあると信じるからです。これを有神的世界観・人生観と呼びます。従って、サラリーマン、いわゆる雇い人のすべてが、自分の仕事に神様からの使命を感じていないと言う訳ではありません。しかし、12節13節で、自分の羊を持たない雇い人といわれている羊飼いは、サラリーマン的な立場の羊飼いですけれども、その中でも、その心が神様に向いていない人です。雇われの羊飼いであっても、オオカミが来るのを見て羊を置き去りにしてすぐに逃げさらないで、オオカミと戦って羊を守ろうとする羊飼いはいると思うのです。

ここで主イエス様がいわれるのは、雇い人、やとわれ羊飼いの中で、その使命をまったく忘れているような羊飼いのことです。サラリーマン根性と言う言葉があります。責任逃れ、アリバイ作り、形だけの仕事ばかりしていることです。あるいは上司の顔色が第一というような仕事ぶりを戒める言葉です。自分で本当に考えていない、そういう働き方のことを言います。わたくしが会社に勤めている時、サラリーマンは、サラリーマン根性を捨てなさいと常に言われていました。

わたくしたちは、出来る限り、忠実誠実に神様の御心に適うよう信仰をもってすべてを行いたいと願います。しかし、そのよう自己中心の心を完全になくすることは出来ないと思います。これは雇い人の持つ限界なのかもしれません。

さて、今朝のみ言葉が語っていますことは、それ以上のことです。主イエス様はわたしたちとは決定的に違っていることがあります。主イエス様は、わたくしたちと同じ人間でありますけれども、同時に、神のひとり子、御子であられます。そのお方が「わたしは良い羊飼いである」といわれました。そこには、雇い人の羊飼いの悪い点、限界と言うものは全く無いのです。良い羊飼い、羊にとって、素晴らしい完全な羊飼いであるということを理解しなければなりません。

10節の後半から11節に、主イエス様がこの世に来られたのは、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃるのです。ここには主イエス様の使命があります。この世の牧師たち、相互に牧会する教会の中の羊飼いたちが決して果たすことのできない使命、十字架による罪の贖いと言うお働きです。

主イエス様は18節では、「わたしは自分で命を捨てる」また「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と告げられます。主イエス様は、わたしたちの罪の赦しのために十字架にかかかって死んでくださる、そしておよみがえりになって下さる、罪を赦すだけでなく、命を与えて下さる。そして永遠に、羊飼いの中の羊飼い、まことの羊飼いとなって下さるのです。主イエス様は、羊飼いの中の羊飼い、本当の良い羊飼いなのであります。

4、

 主イエス様は、ここで。旧約聖書の伝統の中で語っておられます。「羊飼い」は、詩編23編、詩編80編ではヤワエの神、主なる神のことでした。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。」詩編23編1節3節

「2 イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。」詩編80編2節3節

 主イエス様は、その羊飼い、霊的に民を導き養うものはわたしだと、ファリサイ派をはじめ、神の民であるユダヤ人たちに宣言なさったのです。

 旧約預言者のエゼキエルと言う人は、神から御言葉を授けられて、当時の腐敗した王たち、祭司たちに向けてこう語りました。エゼエル書34章です。

:1 主の言葉がわたしに臨んだ。

2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。」エゼキエル書34章1節2節

 イスラエルの牧者たちとは、当時の支配階級です。まことの羊飼いである神が、ご自身の僕として王や祭司を立て、その仕事を行うようにさせたのですが、彼らは悪い雇い人の羊飼いであり、忠実でなく、却って民を苦しめている。そこで彼らを斥け主ご自身が羊飼いとなると語られたのです。

「11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。

14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。

15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。」

エゼキエル書34章11節から15節の御言葉です。

本当に、神の民を、守り、養い、憩いを与え下さるお方はまことの良い羊飼いである主イエス様以外にはありません。牧師たち、教会の会員たちは、このお方のもとに一人でも多くの人々をお連れする、そして、そこから決して離れることがないように気を配るのであります。

 わたしたちは、羊飼いと言う言葉を聴きますと、常に、やさしい思いやりに満ちた愛のお方をイメージ致します。事実、イスラエルの真の羊飼いはそのようお方です。エゼキエル書34章16節にもこうあります。

「16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」

ここには傷ついた者を包んで下さり弱った者を強くされる愛と憐れみの姿が、描かれています。しかし、同時にイスラエルにおける羊飼いは、羊の支配者であり、力と権威をもつ存在でもありました。続く17節にはこうあります。

「17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。」

羊飼いは、羊たちを導くお方であり、養うお方として羊たちのまことの指導者、支配者であります。

 わたしたちが、主イエス様が、わたしたちの羊飼いであると言うときに、この点をおろそかにすることは出来ません。旧約聖書では、羊飼いは王であり支配者の役割を果たすものであります。

羊の群れの中では、羊飼いは王であり、群れの統治者であります。

 教会は、このお方の権威に服さなければなりません。ヨハネの黙示録2章27節28節にこう書かれています。ヨハネに与えられた主イエス様の言葉です。

「7 彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように。

2:28 同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」

 主イエス様は、良い羊飼いであるとともに羊の門であると7節と9節で繰り返して二回告げておられます。門は入り口であり出口です。門は、門の中の世界と門の外の世界を隔てております。主イエス様はわたしを通らなければ、救われることはないと9節で宣言なさいます。門が閉まってしまえば、中に入ることは出来ません。しかし、主イエス様は、羊たち全員がこの門を通って中に入るように招いておられます。門である主イエス様を通ることは、これまでと違う世界にわたしたちが招きいれられることであります。これまでとは、霊的な意味で違った人になる、すでにそうなっていると言うことを現わしています。

「わたしを通って入るものは救われる」主イエス様の下さる恵みはわたしたちの救いであります。これは本当のことです。

 主イエス様は、囲いに入っていない羊、つまりユダヤ人ではない異邦人の神の民、その群れのことを知っていて下さいます。16節には「わたしには、この囲いに入っていない羊たちは、羊飼いの声を知っているので、必ず羊飼いのもとに来る」とも言われます。

18節で「羊は一つの群れになる」と主イエス様は言われます。今世界にはキリスト教徒はカトリックも合わせて20億人はいると言われます。カトリックがありプロテスタントがあり、それぞれが異なった教派教団に分かれて日頃の活動をしています。

 しかし、わたしたちは、今朝の御言葉に聴きつつ、それらの人々が実は主イエス様の前では、一つの群れなのだと言うことを信じたいと思います。羊飼いが沢山いても、まことの羊飼いは、主イエス様お一人であるからです。羊飼いの羊飼い、羊飼いの中の羊飼い、本当の羊飼い、主イエス様はそのようなお方です。祈ります。

 主なる神様、真の羊飼い、命をもってわたしたち救ってくださる素晴らしい羊飼い、主イエス様をわたしたちに下さってありがとうございます、緑の牧場に憩う羊のように、わたしたちを子の週も導いてください。主イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。