2023年02月26日「霊の目を開くイエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 9章35節~41節

メッセージ

ヨハネによる福音書9章35節~41節「霊の目を開くイエス」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

新しい年が始まって2か月が過ぎようとしています。一年の六分の一が過ぎたということですから、あらためて時の経過が早いといいうことを覚えています。わたしたちは昨年一年間に神様から頂きました数々の恵みを想い起こします。恵みを覚えれば覚えるほど、一方でわたしたちの至らなさ、貧しさ、あるいは怠惰というものが、心に浮かび上がってくるのだと思います。そういう中で、わたしたちは周りの状況が変わって行くとしても、絶えず主によって心を砕かれ、謙遜にされてゆきます。わたしたちは、神さまからすべてを見せていただかなければ納得しないということではなくて、今が辛く厳しいとしても神様を信じ、すべてをお委ねする思いで、主イエス様の恵みの中で歩ませていただきたいと思います。

 ただ今、お聴きしました御言葉は、ヨハネによる福音書9章の最後の場面です。主イエス様が生まれつき目の見えない一人の人を癒された物語が9章1節から始まっていました。今朝の御言葉がその9章全体の結論に当たるのであります。

9章3節で主イエス様は、生まれつき目の見えない人を前にして弟子たちにこう言われました。

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

そしてすべてのことが終わった今朝の39節で、主イエス様は、今度はすべての人に言われました。

「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

  実は、これこそが9章全体の結論であります。主イエス様は、神の業がこの人に現れるということは、第一に、見えないものが見えるようになることだと言っておられるのであります。しかしそれは肉体的に目が開かれると言うことだけでなくて、霊的な意味で目が開かれることをも現わしています。そうしますと、今度は、霊的に見える、見えると言っているものは、見えないものとなる、見えないものであることが神様の前にあらわになってしまうと言うことであります。これが第二のことであります。

2,

 カトリック教会が作りました、フランシスコ会訳という聖書があります。この聖書では、先ほどの主イエス様の御言葉が、行ごとの分かち書きになっていて、詩文、あるいは歌の歌詞のように記されています。そうすることによって、これは教会が特別に伝えてきた礼拝の言葉、典礼式文の言葉であると伝えています。さらに、フランシスコ会訳では、裁くためと言う箇所が「裁きのため」と変わっています。

「裁きのためにわたしはこの世に来た。それで、見えない者が見えるようになり、見える者が見えない者となるのだ。」

 人々を裁く、世を裁く、といいますと、もっぱら罪を宣告して弾劾するというようにも聞こえます。けれども、主イエス様が行います「裁き」は、そうではないのです。主イエス様が行います「裁き」はすべての不正や不義、悪が取り除かれ、救いが完成することであります。

 フランシスコ会訳において、この箇所が、まるで歌の歌詞のように分かち書きされて記されている理由は、このヨハネによる福音書が書かれた時代に、この御言葉が、すでに教会の礼拝の中で繰り返し唱えるべき主イエス様のみ言葉とされていたに違いないということです。わたくしもそうだろうと思います。

 そうしますと、そのあとに続いています40節41節の御言葉は、その特別な主イエス様の御言葉の解説なのです。ここでは私たちの代わりにファリサイ派の人々が主イエス様に尋ねています。

「0 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。」

ファリサイ派と呼ばれていた人々は、当時のユダヤ教会の中でも特別に律法を重んじ、旧約聖書の教えに忠実に生きようとしていた人々でありました。ファリサイと言う言葉は、分かれる、分離すると言う意味のヘブライ語によって名づけられたと言います。当時のイスラエルの人々は全員がユダヤ教徒ですけれども、その中でも、自分たちは世間の人々とは違う、分かたれたものであり、誰よりも神様に忠実に信仰の生活を歩みたいと考え、それを実践していた人々でありました。

私たち、キリスト者、あるいはまだ完全にキリスト者ではないけれども、教会に連なって生活しているものにとりましても、この「分かたれた者」という思いは同じようにあるのだと思います。ですから決して人ごとではありません。ずいぶん前のことですけれども、わたくしが千葉に住んでいまして、東の方の中会、東部中会の会議の時に、アメリカからきておられるスパーリンクと言う宣教師がこう言いました。スパーリンク宣教師は私たちの教会と国際的な宣教協力関係を結んでいる海外の教団の一つです。「わたしたちは北米改革派教会、リフォームとチャーチの宣教師です。改革派教会は、キリスト教の中のファリサイ派であると自分たちのことを考えています」。ちょっとびっくりするような言葉ですけれども、スパーリンク宣教師は、ファリサイ派の悪い面ではなく、良い面に着目しているのです。

わたくしたちの所属している教団もまたリフォームト・チャーチ、日本にあるリフォームと・チャーチと言う意味で日本キリスト改革派教会と名乗っています。常に改革され続ける、絶えず聖書の教えと、教会の正統的な歴史、伝統に立って歩みたいと願っている、そう言う教会です。キリスト教の中でも、正統派、保守派に位置づけられる教会なのであります。

従って、このあとの、ファリサイ派の人々の質問に主イエス様が答えられた41節の御言葉は、わたしたちにとっても大切な御言葉なんですね。

「我々も見えないということか」

主イエス様、あなたはそうおっしゃるのですか。この問いに対して、主イエス様はこうお答えになりました。

「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

自分たちは見える、分かっていると考え出したとたんに、実は本当のこと、真理は分からなくなる、主イエス様の教えではなく自分たちの考えを信じるようになると言うのです。だからあなた方の罪は残る、消えないと言われたのであります。

見える者は見えない者なってしまう、反対に、見えない者こそが見えるようになるのです。なぜなら、見えないということこそが、実は人間の真実であるからです。その見えない者が、主イエス様によって目を開かれる、神様の恵みを受けるのです。つまり、自分は見えている、分かっていると思いだしたとたんに、主イエス様が見えなくなってしまうのです。そこに私たちの罪があります。それゆえ、主イエス様は「あなたたちの罪は残る」と言われたのであります。

3、

 9章のはじめから三回にわたって、目の見えない人が見えるようになるという御言葉を聞いて来ました。今朝はその三課目ですけれども、この人は、今朝の御言葉において初めて主イエス様を自分の目で見ました。それまでは、自分を癒してくださった人を見ると言うことが出来なかったのです。なぜなら、この人は、主イエス様の言われた通りに、シロアムの池に行って、自分の目に塗られた泥を洗ったときに、見えるようになったのですが、その時には、すでに主イエス様と一行は、別のところへ行ってしまわれていたのです。

 このことが人々の間に広まったとき、この人は、ファリサイ派の人々のところ連れて行かれて、尋問を受けました。本当に、あなたは生まれつき目が見えなかったのに見えるようになったのか、また、それは本当にイエスと言う人の業であったのか、そのことを幾度も確かめられたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、はじめは真剣に彼のことを聞こうとする人もいたのですが、結局は、最後までそれを信じようとせず、真実を見ようとはしませんでした。それは彼らが、その前から主イエス様を警戒し、憎んでおり、イエスを信じるものは会堂から追放すると決めていたからであります。

しかし、この人は、最後まで自分の見たこと、経験したことをその通りに証ししました。その結果、そうなったかといいますと、ファリサイ派の人々は、彼を会堂から追放する、つまり破門したのであります。

真実を証しする人を破門する、このことこそ、見えないのにもかかわらず、見えると言い張る人がしたことであります。内容の無い、立て前のようなことばかりにこだわり、それでよいとする心であります。16世紀の教会改革、宗教改革の時代に、マルチン・ルターと言う改革者がいました。ルターは、人間の良い業とか、教会に対する忠誠ではなくて、人が救われるはイエス・キリストへの信仰であると主張しました。そのために、当時のローマ・カトリック教会から破門されました。そのとき、ルターは、このヨハネによる福音書9章の目が見えるようにされた人を自分自身に重ねたのであります。そしてローマ教会の司教や教皇をファリサイ派に重ねました。彼らは、本当のことが見えない、彼らの心は、真実を見ようとしない心だと言ったのです。ルターが主張したのは、主イエス様とその恵みを見ることでありました。

 さて、今朝の御言葉の35節にこう書かれています。

「35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。」

 主イエス様は、この人のことを決してお忘れになったのではありませんでした。主イエス様は、恵みを与えられた人を決して忘れてしまうことはないのです。35節で、「そして彼に出会うと」と訳されている元の言葉は、「出会う」と言うよりもむしろ「見つけ出す」と言う言葉です。英語の聖書では、たいてい、ファウンド、見つけた、見いだしたとなっています。日本語訳でも新改訳聖書は「彼を見つけ出して」と訳しています。主イエス様の方からこの人を探し出し、見つけて下さいました。そしておっしゃるのです。

「あなたは人の子を信じるか」

 癒された人にしてみますと、主イエス様は、このとき自分の目で初めて見た、出会った人です。「人の子」を信じるかと問われました。「人の子」とは、主イエス様がご自分のことをさしていつも使っていた言葉ですが、この目が見えなかった人にとっては、それが主イエス様をさすということは、まだ分かっていません。むしろ、当時のユダヤで広まっていた、旧約聖書のメシアの預言を思い浮かべたと思います。

それは旧約聖書ダニエル書に記されている預言者ダニエルが見た世の終わりの裁きのときの幻のことです。

ダニエル書7章13節14節の御言葉をお読みしますのでお聞きください。

「13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み14 権威、威光、王権を受けた。」

 世の終わりに、日の老いたるもの、すなわち太陽よりも更に長く、永遠におられるお方、天の父なる神の前に、天の雲に乗って人の子が来ると言うのです。そしてすべての権威、威光、王の権力を受けて、天地を裁くと言うのです。

 この見えなかった人は、元は道端に座って物乞いをしていた人です。どこまでそのようなメシアのことを聞いていたのかは分かりません。それにもかかわらず、この人は、突然目の前に現れた人に真剣に尋ねます。

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

ここで「主よ」と言っているのは、単に、ご主人さま、旦那さまといった言葉で、深い意味はないと考えられます。主イエス様は、まだこの人に自分があなたを癒したとは言っておりません。そのように問いかけておられる貴方様、その「人の子」と言うお方、信ずべきお方は一体どんな人ですか、その人を信じたいのです。どうすればよいのですかと問うたのです。彼は、その人こそ、イエスと呼ばれる人であり、自分の目を開けて見えるようにしてくれた存在、神から来た人、メシアに違いないと信じていたのです。

 主イエス様は、お答えになります。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

 彼が、目を開けていただいたときから、会いたいと願っていたイエスと言うお方が、今、目の前にいる人だと言うのです。そして、この方は、自ら、人の子と名乗り、ご自分が救い主メシアであることを隠されないお方でありました。

 この人が、どれほど感激し、喜んだのかは、その時の彼の行動と言葉とを見れば分かります。

「主よ、信じます」

このときの「主よ」とは、自分をその人のものとして下さる方、ご主人と言う意味であると思います。同時に、ヘブライ語では「主」「アドナイ」という言葉は、口に出してはならないヘブライ語のヤワエ、神様の隠された名前をしめすものでもありました。だからこそ、彼は、すぐに主イエス様の前にひざまずき、礼拝の姿勢を取ったのです。

 霊の目を開いていただいたものは、主イエス様を信じ、礼拝するものに変えられるのです。これこそが、わたしたちがするべきことであります。

 主イエス様は、わたしたちの心の目、霊のまなこを開いて下さいます。それは、この9章の癒された人のように、すべてが一度になされることではなく段階的に、また繰り返し与えられる恵みであります。

 ルカによる福音書の最後の章24章には、主イエス様が、天に昇られる前の復活のお姿で、弟子たちにもう一度、ご自分のことと、ご自分について旧約聖書に書かれていることを解き明かしてくださると言うシーンがあります。

 そのとき、主イエス様は、もうこれまでに信じているはずの弟子たちの真ん中に立ってこう言われたのであります。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」ルカによる福音書24章44節の御言葉です。

ルカは更に続けます。

45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 聖書を悟らせるために主イエス様が、わたしたちの心を目を開いて下さるので、わたしたちは、救いの約束を信じ受け入れることが出来ます。そして、主イエス様の十字架と復活という神様の愛の業の証人となります。

「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 自分の思いや考え、人間の力によって、この世界の真実や私たちの救いのことを知ろう、分かろうとするのではなく、主イエス様が開いて下さる心の目、霊の目によって、神さまの御言葉を信じること、主イエス様を信じること、このことがわたしたちに求められています。そうでなければ。見えない者となってしまい、わたしたちの罪は赦されることなく残る、残り続けるのです。

 霊の目を開かれたもの、また絶えず開かれつつあるものとして、わたしたちは主イエス様の前に、膝をかがめ、平伏し、心砕かれて、主よ、信じます、とより頼む、そのような謙遜な思いで歩みたいと願います。

祈りを致します。

天の父なる神様、見えなかったわたしたちの霊の眼をお開き下さるあなたの恵みに感謝いたします。わたしたちは絶えず、見えない者であることを忘れずに、あなたによって目を開かれ続けて行くことが出来ますように。主の名によって祈ります。アーメン。