2023年02月12日「神の業が現れるために」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 9章1節~12節

メッセージ

2023年2月12(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書9章1節~12節「神の業が現れるために」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝の御言葉は、主イエス様が生まれつき目の見えない一人の人を通してご自身の奇跡的な御業を現わされたと言う物語であります。説教題を「神の業が現れるために」と致しました。主イエス様が目の見えない人の目を開かれた、このことは、まさしく神様の御業であります。けれども、わたくしは、こうも言いたいのであります。それは神の御業の始まりであったと。

盲人の目を開いてくださる主イエス様の御業は、今お聞きしました聖書の御言葉の6節と7節とに簡潔に記されております。ここで中心になっている人は、生まれながらに目の見ない人であります。そのために彼は、定まった職業に就くことが出来ずに、いつも人通りの多い通りに座って物乞いをして暮らしておりました。この日も、いつも通り、道端に座って人々から施しを得ていたのであります。ところが、突然人々が自分に近づいてくる気配を感じたのです。一体なんだろうと思っているうちに、その人たちの会話が聞こえてきました。「この人の目が見えないのは誰の罪なのか」この質問井答える声も聞こえました。「本人が罪を犯したのでもない、良心が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

これは自分のことを話している、そのことがすぐに分かりました。そして、おそらくリーダー格だと思われる人が、顔が触れるほどの距離に近づいてまいりました。その人が迫ってきたのであります。目の不自由な人といいますのは、人一倍、音とか気配に敏感でありますから、その人の動きは手に取るようにわかっただろうと思います。

もう顔と顔とが触れるような近い距離です。一体何をするのだろうか、彼は、少し不安な気持ちになりました。しかし、そのリーダーらしい人は、丁寧な、決して乱暴ではない暖かいしぐさで、その人の目のあたりに何か泥のようなものを塗ってくれたのであります。主イエス様が目の見えない人の目に泥を塗っている時間が一体どのくらいであったのかは分かりません。聖書で用いられている「目に泥を塗った」という、目と言う言葉は一貫して複数形ですので、両方の目です。主イエス様は、その人の二つの目とその周りに指のぬくもりを感じるほどに丁寧に片方ずつ、泥を塗ってくれました。そして、その人はこう言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」

7節の後半には、こう書かれています。「そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」

 まさしく、奇跡的なこと、神でなければなしえないような出来事が起きました。しかし、この出来事において、もっとも決定的であったことは、この人が、すぐに立ち上がってシロアムの池に行き、主イエス様の言われた通りにしたことであったと思います。なぜなら、主の言葉にすぐに従う、ここから彼の新しい人生が始まったからです。主の言葉に従うこと、それこそが、主イエス様が望まれていたことでありました。

2、

 彼が聴き耳を立てて聴いたやり取りは、こうです。道端で物乞いをしている人、おそらく顔も身なりも汚れていたことでしょう。ああ、哀れだかわいそうだと誰もが思うような、本当に貧しい、そしてこれから先の展望もない、そういう生活をしている人を見て、弟子たちが主イエス様にこう尋ねたのです。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 このとき弟子たちは、目の見えない人を見たときに、ああ、哀れだかわいそうだと、思うと同時に、一つのいわば哲学的な問いを抱いたのであります。一体どうしてだろう、同じように世に生まれながら、この人は生まれながらに目が見えない。そのために本当に苦しんでいる。それに対して自分たちはそうではない。そこにある納得しないものを感じたのであります。

 弟子たちは皆、ユダヤ人であり、幼いころから旧約聖書によって育てられた人たちです。神様の天地創造、そして世をご支配くださる摂理の御業を信じています。ですから、この問いは神様に対する不信感と言ってもよいものだと思います。一体、どうしてだ、どうしても納得が行かないのです。

わたくしは、小学生、中学生のころに、学業成績はまあまあ、はっきり言えば割合良かったのですけれども、しかし、体育と音楽が苦手でした。背も低くて、40人のクラスで、男の子が20名、その中で、朝礼の時は、いつも前から2番目か3番目かに並んでいました。そして他の子に比べると運動神経が鈍い、足が遅くて、運動会の徒競争で3番以内に入って賞を取ったことは一度もありませんでした。いつも最後尾か、最後から二番くらいです。どうして、人は生まれながらに頭にしても顔にしても体にしても、優れている人と劣っている人がいるのだろうかと疑問に思いました。はっきり言って、これはおかしいと思ったのです。

今、71歳になりまして、そう言う自分と一緒に生きてきて、それなりに納得していると言いますか、もう自分の個性が身についていて、それで生きて行くよりほかはないと心が決まっています。何よりも、この世界を超えておられる神様の恵みを信じております。しかし、子供のころ、あるいは十代の頃はそうではありませんでした。

今ですと、人それぞれに個性がある、みな違っていて良いといって教えてくれると思いますが、そのころのわたしは、たとえ十分にせよ不十分にせよ、この問いに正面から向き合うような言葉を先生から聴いたことは一回もありませんでした。

けれども運動会で一等賞になれないというような悩みは、はっきり言って贅沢な悩みです。現実の世界はもっと深刻であります。今朝の御言葉に出ておりますように、うまれながらに障害がある、目が見えないとか手足が不自由な方がおられて、一方ではそうでない人がいる。お金持ちに家に生まれた人と貧しい家庭に生まれた人がいる。日本に生まれた人と、いつも飢え死にする人に囲まれている国に生まれて人がいる。病気になる人とそうでない人がいる。大来な災害にあった人とそうでない人がいる。その原因は、確かに政治であるとか、経済の問題があるにしても、しかし、どこにどんな風に生まれて来るのかと言うことは、その人の努力の範囲を超えているのです。

仏教とか他の宗教では、因果と言う言葉を用います。因果応報です。前世のたたりである。だからそれを取り除けばよい。そのためにはお祓いをしてもらう、先祖を供養すると称して、その宗教にお布施を出すと言ったことを勧めます。キリスト教にはそのような考え方はないかといますと、決してそうではありません。中世のカトリック教会にもお布施がありました。

聖書は、人間世界の不幸、災いの原因を人間の罪に求めます。しかし、主イエス様が、十字架にかかって神様の裁きをすべて受けてくださったことによって、この罪の問題が解決されました。その背景には、罪はやはり償われなければならない、という根本原則があります。主イエス様がわたしたちのために死なれたのは、人間の罪の代価でした。その賠償金の値というものは、少々のお布施や善行、良い行いによって解決されるほど軽いものではないという真実に基づいています。どうしても神の独り子の命が必要なのでした。

罪は、一人の人が生きるか死ぬかと言う分かれ目をその人にもたらします。ですから、お布施でもダメ、小さな親切を重ねて功徳を積んでも意味はありません。そそも自分が救われるための親切は本当の親切ではありません。人の罪は、神の御子、神ご自身が命を捧げて下さらなければ償うことが出来ないのです。従って、聖書の教えそのものにも、確かに原因があって結果がある、そう一本のスジがあります。そう言う意味での因果応報の考え方はないとは言えません。けれども、それを超えるものがある、それを乗り越える神さまの恵み、神さまの愛を信じていると言う点が大切なのであります。

3、

さて、ここで目の見えない人を見ております弟子たちは確かに納得していません。本人は生まれながらに目が見えないのだから本人の罪の結果と言うことが出来ない、それなら、彼の親の罪なのだろうか、そうであったら本人にとってそれを解決する方法があるのだろうか、一方的に不幸になるのは不公平ではないか、こう言う思いを主イエス様にぶつけたのです。因果応報、親の罪だというように納得していたなら、わざわざ問いを持ち出す必要はなかったのです。ですから、弟子たちは、心のそこにある神様に対する疑問をここでぶつけました。主イエス様、一体どうなっているのですか、教えてくださいと言って尋ねたのであります。

この問いは、わたしたちの問いでもあるのではないでしょうか。

主イエス様は、お答えになりました。3節の後半であります。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 主イエスさまは、今、この人に現れている苦しみ、不幸の原因を過去に求めて納得すると言う方法を取られません。そうではなく、わたしたちがまだ知らない、出会っていないこれからのこと、将来、まさに来るというそのことによって、あなたたちは必ず納得できると言うのです。今の苦しみと釣り合いが取れるものを過去に求めないで、これから先のことに求めることによってそれが出来るとおっしゃったのです。

 わたしたちは、明日、いや、今説教をしている次の瞬間に何が起きるか知りません。知らされていない。しかし、主イエス様はすべてを知っておられます。そのお方が、約束して下さるのです。

 わたしたちは、すでにくぐってきたこと、過去のことについて、あのときああしておけば、こうしておけばとどれほど悔やんでも、何の解決にもなりません。あるいは「神様不公平です、神さま大嫌いです」と嘆くばかりでも、悩みは深まるばかりです。それはマイナスの思考方法です。そうではなく、今がゼロの地点、いやマイナスの地点であるとしても、これから先にプラスがある、だから、これから加えて行けばよいのです。これから何をするのか。神様が何を下さるのか、これに期待するのです。教会の屋根には十字架があります。十字架は大きなプラスの字をしていないでしょうか。

 道端にずうっと座っていた人は、立ち上がりました。そして、シロアムの池にまで行ってその目に塗ってもらった泥を洗い落としました。一体何の意味があるのか、疑いもあったことでしょう。しかしその疑いを超えて、その人は行動しました。神様がそのように導いてくださったのです。信じて従ったのです。マイナスの場所、くぼんだ地にうずくまるようにして生きてきた、この人は、主イエス様に導かれてプラスの人生へと歩みを始めました。その同じ主イエス様は、今わたしたちをも招いてくださっているのではないでしょうか。立ち上がりなさい、そしてシロアムに行きなさい。わたしに従いなさいと。

4、

 目の見えない人が、新しい歩みへと旅立ったあと、主イエス様は、弟子たちに向かって告げました。4節と5節の御言葉をお読みします。

「4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

 わたしをお遣わしになった方とは、明らかに主イエス様をこの世界に遣わされたお方です。すなわち天地の造り主である父なる神であります。主イエス様と言うお方は、この方から遣わされたお方であり、このお方、すなわち神の業を行います。神の業を行うということは、主イエス様ご自身が神であると言うことのしるしでもあります。しかし、注意しなければならないのは、4節初めに「わたしたちは」と書かれていることであります。主イエス様だけではなく、「わたしたちは行わなければならない」と言われています。つまり主イエス様の周りにいる弟子たちもまた、主イエス様と共に、この業を行う、行わなければならないと言われます。

 5節では、わたしは世にいる間、世の光であると主イエス様は言われています。やがて、主イエス様が世から取り去られる時が来ます。十字架にお掛かりになって殺されるのです。その時が来るまで、主イエス様は、世の光として、神の御業を行うと言われます。それではそのあとはどうなるのか、心配することはないのです。主イエス様は、弟子たちが今度は世の光になればよいと言います。

しかし、人間である弟子たち、あるいはわたしたちがどうして主イエス様のような神の業が出来るでしょうか。

 主イエス様は、4節で「日のあるうちに業を行う」と言われて、主イエス様ご自身が、この世におられる期間が限られていることを告げます。けれども、その日のある期間、限られた時間が終わったなら夜が来ると言われたすぐ後に、しかしわたしが、世にいる間は世の光であると言われて、弟子たちの不安を打ち消しておられます。その後のことは、14章から始まる聖霊を与える約束、そして17章の第差しの祈りとして知られる主イエス様の祈りに記されることになります。

主イエス様は、天にお帰りになったあと、わたしたちにご自身の霊をお遣わしになります。この主イエス様の霊、聖霊に導かれて、今度はわたしたちが世の光の業を行います。主イエス様は霊的な仕方で、わたしたちと共にいつまでもいてくださるのであります。

マタイによる福音書5章14節で、弟子たちと主イエス様に従う群衆に向かって、主イエス様は、「あなた方は世の光である」と言われました。光である主イエス様に照らされて、もっと言えば、光であるお方が私たちの中にいてくださることによって、わたしたちもまた世の光として働くのです。

 マイナスの思考方法に囚われ、因果応報の鎖から逃れられないのだと諦めてしまう、そうではなくて、そのような心が変えられて、主イエス様がこれからなしてくださる恵みの御業に期待するのです。

 目の見えない人を昔から知っている近所の人は、この人が癒され、見えるようになったことについて半信半疑であります。そんなことが起こるはずがない、今見えている人は、あのかわいそうな人に似ているだけだ、別人だと言う人もいたと書かれています。しかし、その人自身がはっきりと答えました。「わたしがそうです。」

5、

 この目の見ない人が見えるようにされたという物語は、ここで終っていません。9章の最後の41節まで続きます。目が見えるようになった人が、取り調べを受けるのです。主イエス様に敵意を抱いているユダヤ人たち、とくにファリサイ派と呼ばれるひとびとは、その人に言いました。「今後ユダヤ教の会堂に入ってはいけない」。このことは、当時のユダヤ人たちの宗教的共同体から追放されるという試練であります。しかし主イエス様は、その人に出会って下さり、こう言われます。「あなたは人の子を、つまりこのわたしを信じるか」彼は、答えました。彼は生まれて初めて主イエス様を自分の目で見ました。そして言いました。「主よ、信じます」

すでに彼の霊の眼は開かれていました。主イエス様は、39節でこう言われます。「「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

見えていると思っていたファリサイ派は裁きをうけ、彼らは、実は何も見えていなかったことが露わにされました。見えないと思われていた人がはっきりと真理を見ることが出来るようになりました。

わたしたちの、霊のまなこ、霊の眼はきちんと開いているでしょうか。神の恵みの業を信じ、マイナス思考ではなく、これから起きることに心を開いて、期待しながら、歩みたいと思います。

コリントの信徒への手紙10章13節には、こう書いてあります。

「13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

これを書いた初代教会の指導者パウロは、ローマの信徒への手紙8章でこうも書いています。

「28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

わたしたちは神様の真実を信じ、神様はすべてのことについて、得心が行くようにして下さると信じてよいのです。

主イエス様は断言されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

神の業は、日々わたしたちに現れているのではないでしょうか。そしてこれからも、わたしたちの小さな思いや想像力をはるかに超えて、その恵みの御業は現れる、神さまがそうして下さると信じようではありませんか。これこそ霊的な開眼であります。祈りを致します。

祈り

天の父なる神様、全能の御名をあがめて感謝いたします。この世界は、光が現れているとはいえ、依然として暗い闇の中に置かれています。すべての被造物はうめき、苦しんでいます。トルコでは大きな地震が起き、たくさんの人々が命を失いました。神様、あなたの御業に期待いたします。闇を照らす光として、わたしたちもまた歩みことが出来ますように、導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。