2022年12月11日「罪のない者が石を投げよ」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

メッセージ

2022年12月11日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書8章1節~11節「罪のない者から石を投げよ」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 先ほどご一緒にお聞きしました、ヨハネによる福音書8章の初めの御言葉はまことに印象深いものあります。これまでに多くの人々の心を動かしてきた御言葉でもあります。なぜかと言いますと、ここには主イエス様が私たち自身に語っておられると受け止めなければならない二つのみ言葉が記されているからです。

一つは、7節のみ言葉です。姦淫の女の悪を告発する正義の味方を装う者たちに、主イエス様は、こう言われました。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

私たちは、この御言葉をそれぞれが自分自身に向けた言葉として聞くのであります。わたしたちは、日常の生活の中でとかく、他の人を批判し裁くということに心を向けることが多いのであります。自分は正しい、あの人、あるいはあの人たちが悪い、問題がある、罰しなければならない。心の中でそう思い、あるいはインターネットでつぶやくのであります。主イエス様は、そのような人々に向かってこの御言葉を語られたのです。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

実は、6節にありますように、この出来事の全体は、主イエス様を捕らえるためのユダヤ人の陰謀でした。主イエス様の言葉は、この陰謀に立ち向かうための機転にあふれた御言葉でした。しかし、決してそれだけのことではなく、この御言葉自体に深い意味が込められています。この世のわたしたちの心のありかたを問うのです。私たちが、神様の前で、本当に人を裁き、滅ぼしてしまう資格があるのかという問いであります。その答えは、主イエス様が明らかにされたように、誰にもないということです。

 そして私たちが受け止めるべきもう一つのみ言葉は、最後の11節の主イエス様のみ言葉です。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない」。

わたしたちの罪の赦しを成し遂げられる主イエス様の罪の赦しの宣言です。わたくしたちは、主イエス様の「あなたを罪に定めない」という御言葉を聞き、その後に主イエス様の隠された御言葉を聞くことができるのです。

「なぜなら、あなたの罪は、十字架の上でわたしがすべて負うから」

主イエス様による罪の赦しなしに、わたしたちは決して心の底から平安に生きることは出来ません。主イエス様は信じる者の罪をすべて赦してくださるのです。

ここで一つお断りをしておかなければならないことがあります。それは、この新共同訳聖書もそうですけれども、口語訳聖書も、また新改訳聖書も、この7章53節から8章11節までの部分を括弧に入れた形で、書き表しているということです。この括弧の意味が何かといいますと、多くの古い聖書の写本の研究の結果、どうやらこの部分は、「初期のころの聖書写本には無かったものであり、後になって付け加えられたものだ」と思われるということです。

多くの翻訳聖書が翻訳の底本、つまり翻訳すべきギリシャ語の本文としていますネストレアラントあるいは世界聖書教会の校訂本というものがあります。カッコに入れているのは、その校訂本の判断に従っているものです。その校訂本を作成した人たちは、二世紀三世紀の、本当にぼろぼろになっているような古いパピルスの断片や、伝えられてきた古代の聖書、これは4世紀から5世紀以後のものですが、あるいは、また他の国に伝わった古代のコプト語などの翻訳聖書の研究の結果、そういう判断をくだしました。

けれども、この物語そのものは、もともとの聖書には記されなかったのだけれども、初代教会の中で古くから伝えられてきたものだと考えられています。そしてこれは、4世紀から5世紀に書かれたべザ写本と呼ばれる有力な写本の時代から、はじめて聖書の中に姿を現わして来ました。そして、何がしかの論争はありましても、古代中世を通じて、ずっと聖書の一部として取り扱われてきたのであります。

今朝は、そういうこともわきまえながら、しかし、これを古い時代から伝わっている主イエス様の教えと御業を語る大切な物語として、この連続講解説教でも飛ばしてしまうことなく語ってゆきたいと思いました。教会はずっと、この御言葉を神様の言葉として受け入れ、また信仰の養いを受けてきたのであります。

2、

さて、今朝の物語は律法学者たちとファリサイ派の人々が一人の女性を引き連れて主イエス様の許にやってくるところから始まります。

主イエス様を中心にして熱心にその御言葉を聞いていた人々は、突然の出来事に驚いたことでしょう。しかし、この事件は主イエス様に敵対するユダヤ人たちによって巧妙に仕組まれた陰謀でありました。主イエス様を陥れようとするユダヤ人たち、とくに、ここでは律法学者たちとファリサイ派の人たちと言われていますが、彼らは、当時のユダヤ教の専門家で、旧約聖書の律法を研究してユダヤ社会に適用する仕事をしている人たちであります。律法に反することをしたユダヤ人を裁き、ふさわしい刑罰を科す、そういう仕事しているのです。それにも関わらず、姦通という違反をした女性を、わざわざ主イエス様のもとに連れて来たのであります。そしてこう言いました。4節です。

「「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 「モーセが命じている」と言うのは、旧約聖書レビ記20章10節や申命記22章24節のことを言っています。

レビ記20章10節はこうです。「10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」

申命記22章24節も同じで「22 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」

 ここで注目しなければならないのは、男も女も死刑にすると聖書に書かれていることです。彼らが引き連れてきたのは、女性だけであり、しかも、姦通の現場で、まさにその行為をしているところを見つけられて女性の方だけが連れて来られたというのは明らかに不自然であります。男の方も同時に連れて来て処刑しなければならないはずですが、そうではありません。男の方は逃げてしまたのか、あるいは、最初から悪評のある女性だけを捕らえて連れて来たのかも知れません。

 姦通の罪は男であっても女であっても、律法では、確かに死刑と定められています。しかし、当時は姦通罪による死刑は実際に行われていたことはなかったと言われています。姦淫を犯したなら財産を分け与えることなく離婚するとか、人々から白い目で見られて逃げ出すとか言うことが普通であったと言われています。律法に反して、当時は死刑にされることはなく、まして石打ちの刑などはなされていなかったのです。さらにまた、主イエス様の時代には、ユダヤ人たちには死刑判決を下す権限がなかったということもここでは重要なことです。人を死刑にするということはローマ帝国、ここではエルサレムに派遣されているローマ総督の判断によらなければなりませんでした。

 つまり、律法学者たちファリサイ派の人々の狙いは、主イエス様がどうお答えになっても、主イエス様が窮地に陥るということでありました。もし、女を罰することはない、と言えば、主イエス様は旧約聖書の律法を公の場所で否定した者として立法評議会、サンヘドリンに訴えられることになります。しかし、また律法の通りに死刑にすると言われたならば、民衆の期待を裏切ることになります。主イエス様は、律法の根底にある神様の愛、憐れみに心向けよと説教していたのですから、民衆の支持を失うことになるでしょう。それが彼らの目的でありました。さらには、主イエス様が、最終的に石打の刑を命じたということになりますと、これはローマ帝国への反逆とも、見なされることになります。つまり、この陰謀は、律法解釈について主イエス様を困らせると言う宗教的なものだけではなかったのです。植民地支配者であるローマ帝国に対する服従の掟とユダヤの律法との矛盾を用いた政治的な陰謀だったのです。

ルカによる福音書20章に、ローマ皇帝への税金を納めることは律法に適うでしょうかとユダヤ人の回しものが質問してくる物語があります。今朝の物語も同じような背景を持った計画的な陰謀でありました。律法の正義が実際にはその文言通りには実行されていない、そのことを改めて取りだして見せて、それを主イエス様につきつけて判断を迫る、手の込んだ陰謀であります。

 確かに、この女性は姦通の罪で訴えられても反論できないような行動をしていました。罪を犯した人でありました。けれども、ここで主イエス様を陥れようとしているユダヤ人たちこそ、実は無実の主イエス様を罪に陥れようとする殺人罪、また計画的な陰謀という偽証の罪を犯しているのです。姦淫を犯した女性以上に、もっと複雑で悪質な罪を犯すものでありました。

 さて主イエス様は、どうされたのでしょうか。

3、

 6節の後半から7節、8節をもう一度お読みします。

「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

 主イエス様が何と答えるのか、かたずをのんで待っていたのは、主イエス様を陥れようとした律法学者やファリサイ派の人々だけではありません。主イエス様の周りにいた民衆も、主イエス様に注目していました。そして最も真剣に答えを待っていたのは、このとき訴えられた姦通の罪を犯したとされる女性であったかも知れません。

 しかし、主イエス様は、少しもお答えになられません。黙って、下を向き、身をかがめて地面に何か書いておられたと言うのです。このときに、主イエス様が何をかいておられたのかは、どこにも記されていません。古代からキリスト教会は、これについていろいろと説を唱えてきました。旧約聖書の何か、関係のある御言葉をかいておられたのではないかとか、あるいは、答えを拒否するために全く意味の無い図形をかいておられたのではないかとか言われてきております。もう、その書かれていたものは消えてしまっているので分かりません。わたしたちは、それについてあまり興味を抱く必要はないのだと思います。とにかく、主イエス様は地面に向かって何かをかき続けておられたということです。しかし、敵対するユダヤ人たちがしつこく問い続けた時、立ち上がってこうおっしゃいました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

言い換えますと、あなた方のたくらみは良く分かっている、そのこと自体、大きな罪である、だから、あなた方にはこの女を裁くことは出来ない、こう言われたのです。しかし、同時に、確かに律法の定めに従って、この女性は裁きを受けなければならないと言うことも、ここでははっきりと言われています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

しかし、あなたがたにその権利はないというのです。

 自分たちの罪には気がつかずに、自分は律法を守っている優等生だと傲慢な思いに取りつかれているのがファリサイ派の人々の罪でした。しかし、この時ばかりは、彼ら自身が主イエス様を罪に陥れようとする巧妙な陰謀を実行している最中でしたので、主イエス様にその陰謀を見抜かれていたことを悟ったのでした。

出エジプト記23章1節には「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない」とあります。長い沈黙の果てに、罪を犯したことがないものがまず、この女に石を投げよ」と言われた主イエス様の言葉を聞いて、彼らもまた、自分たちの真の姿を知らされたのです。

 この場所から年長者から順に去って行った理由は、二つ考えられます。一つは、当時の石打の刑では、まず、最初に身分、位の高いものが石を投げることになっていたことです。まず年長のものに、あなたはどうするかと人々の視線が向けられた、そのとき、その人は去って行き、そして次々とその場を去って行ったというものです。別の理由は、年長者ほど自分の罪を知っているからだと言うものです。当時のユダヤでは年長であるということが尊敬されていましたので、まず年長者に判断が委ねられ、そしてその人はさすがに自分たちのしていることが分かっていて、石を投げる事が出来なかったでしょう。

 主イエス様の深い知恵に満ちた言葉によって、最終的にユダヤ人たちの陰謀は成し遂げられませんでした。そしてその場には、姦通の女として連れて来られた女性だけが一人残りました。

4、

 地面に向かって何かをかき続けていた主イエス様は、身を起こして女性に言いました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

 主イエス様は、自分はずっと地面を見ていたので、ことの次第は分からない、すべてを父なる神にゆだねていた、みなどこかへ行ってしまったのだね、こう言われました。

 女性は答えます。「主よ、誰も」

そして主イエス様が言われたことは二つのことでした。

一つは「わたしもあなたを罪に定めない」

 これは主イエス様もまた罪を犯したことがあるので、石を投げないと言う意味ではありません。主イエス様は、明らかに、石を投げなさいと人々に命じておられたのです。しかし、誰もそれをすることが出来ませんでした。彼女の姦通の罪については誰が裁くのでしょうか。それは、罪のないお方、主イエス様以外にはありません。その権限を持つ主イエス様自身があなたを赦すと宣言されたのです。

主イエス様による罪の赦しの宣言は、決して、から手形、うその約束ではなく、主イエス自身が、信じる者の身代わりにすべての罪をご自身が引き受けて下さると言う十字架の刑罰によって裏付けられています。

 律法学者たちやファリサイ派の人々、またそこにいた石を投げなさいと主イエス様から命じられたすべての人は、みな立ち去ってゆきました。彼らの罪は、主イエス様を陰謀にかけて、訴えようとしたと言うことだけではありません。すべての人が、そこを立ち去って行ったということは何を意味しているのでしょうか。パウロという初代教会の大伝道者はローマの信徒への手紙をかきました。その聖書の言葉の中に、このように書かれています。

「9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。」3章9節10節

そしてまたこのようにも書いています。3章23節24節

「23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 すべての人が石を投げることが出来なかったということは、すべての人は神様の前に罪がある、そのために自分では他の人を裁くことも、自分自身で神様の栄光を現わすことも出来なくなっていることを示しています。

 そして最後に主イエス様は、女性にこう言われます。

「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

罪を赦されたものは新しくされます。そしてその上で、主イエス様から、もう罪を犯してはいけないと励まされ続けるものであります。わたくしたちもまたそうであります。

 決して自分には罪がないとは言えないと悟った人々は、この罪の女性のもとから立ち去って行きました。しかし、それと同時に、主イエス様のもとからも去って行ったということです。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

主イエス様は、この御言葉をもって、この物語の結論とはなさいませんでした。人を裁くということの罪の背後には、私たち自身が、神様の前には誰でもが罪を犯しているものであるという前提があります。だからこそ、わたしたちには主の赦し必要なのです。

ただ一人、初めから自分の罪を知っていた、この女性だけが主イエス様のもとに留まりました。そして主イエス様の恵み深い、この最後の御言葉を聞きました。そして罪の赦しとこれからの生活についての励ましを受けました。

「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

わたしたちは、自分の罪を知ることだけに留まっていてはなりません。断じて主イエス様のもとから去って行くものであってはなりません。この女性のように主イエス様のもとに留まって、改めて赦しを受け、励ましを聞かなければなりません。

私たちもまた今朝の礼拝を終えて、この世の生活の場へと向かいます。罪の赦しの宣言に続いて語られた主イエス様のこの御言葉を心に抱いて、再び、新しい週の歩みを始めます。

祈りを致します。

天の父なる神、あなたを讃美します。わたしたち皆が、主イエス様から、自分が罪びとであり、そのことを棚に上げるようにして、隣人を裁き、憎み、排斥するような心を持つ者であることを教えられて感謝を致します。そのようなわたしたちを、あなたは、ご自身の十字架によって罪の赦しを与えてくださいます。主イエス様の復活の命によって、この週もこれからのちも歩んでゆくことが出来ますよう導いてください。主イエス・キリストの