2022年12月04日「勇気をもって反対する」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 7章45節~52節

メッセージ

2022年12月4日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書7章45節~52節「勇気をもって反対する」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 さて、今朝の御言葉では、ユダヤの都エルサレムにおいて行われた一つの会議の様子が描かれています。この会議は、ユダヤの国の祭司長たちやファリサイ派が集まった会議であります。ユダヤの国の自治組織、律法評議会です。

わたしたちもまた、いろいろな会議を致します。今月末には会員総会がありますし、わたしたちが生活している町内や地域においても、特に班長など役員になれば、いろいろな会議に出席することでしょう。そこでなされました私たちの言葉は、必ず何らかの働きをするものであります。

今朝の御言葉に描かれている会議は、エルサレムの町の議会です。今朝、ここでは、一人の人を捕らえる、あるいは殺すと言うことを議論しているのです。しかし、結果的に、そこでは対立は起こっても、最終的に結論を出すことができませんでした。それによって一人の人の命、すなわち主イエス様の命が救われたということが出来ます。主イエス様の十字架には神様の定めた時がありました。まだ時は来ていませんでした。この時の会議で自分の意見を主張した人が、ニコデモというファリサイ派の議員でした。

当時のユダヤの国はローマ帝国の植民地でした。その支配権はローマ総督の手にありました。しかしローマ帝国は、ユダヤの国においては「立法評議会」、あるいは「サンヘドリン」と呼ばれる71人から成る議会に自治権を委ねました。45節に「祭司長たちとファリサイ派の人々」と書かれています。祭司長は本来一人しかいないはずですが、当時は、前の祭司長や、更にその前の祭司長が幾人もいて権力を握っていました。その人たちと民の長老と呼ばれている選ばれた人、そしてファリサイ派と呼ばれる律法学者たちが議会のメンバーです。このサンヘドリンは、祭りの日と安息日を除いて毎日エルサレム神殿の中の一室において開かれたと言います。今朝の御言葉の場面は、サンヘドリンと呼ばれる正式の会議ではなく、その中の主だった人々が集まっているようなところであったのかも知れません。

さてそこに「下役たちが戻って来た」と書かれています。下役達、これを役人たちと訳している聖書もありますが、彼らは、裁判権、行政権、そして立法権のすべての権限を持つサンヘドリンの下に配置されている部下たちです。今日でいえば、役所の職員であり、あるいは警察官のような存在であります。「戻ってきた」と書かれていますのは、会議が行われているその部屋に帰って来たという意味でありましょう。この下役たちは、主イエス様を逮捕するために、祭りの会場であるエルサレム神殿の境内、あるいはエルサレムの市内に送り込まれたのです。7章の32節にはこう記されています。「32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」

 この時、エルサレム神殿では仮庵祭という秋の祭りが盛大に行われていました。祭りに集まっている人々はそこで主イエス様がなさった数々の奇蹟を見、また教えを聞き、この人はメシアではないかとささやき合いました。当時、主イエス様は、ユダヤ教の当局者たちから、このものは安息日にしてはならないことを推奨している不埒なものだとにらまれていました。また自分たちの地位を脅かす危険分子とも見られていました。しかし、主イエス様は、逃げ隠れしないどころか、わたしは天の父のもとから遣わされたと大声で宣言する始末だったのです。下役たちが派遣された目的の通りに、このときに主イエス様が逮捕されていたとするなら、主イエス様は、春の過越しの祭りではなく、この秋の仮庵の祭りで十字架にかけられていたかもしれません。しかし、下役たちは主イエス様を逮捕することは出来ませんでした。それは群衆が主イエス様を守ったからではありません。また彼らの力が足りなかったからでもありません。下役たちはこう言っています。

「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちは主イエス様を捕らえるために主イエス様に近づきました。そして主イエス様をつかまえるために、人々が主イエス様を離れている時を待っていたのです。当然、主イエス様が人々に教えている言葉を身近に聞くことになりました。その言葉を聞いた時、彼らは、この人を捕らえることが出来ないと思ったのです。そして祭司長たちファリサイ派の人々は言いました。「今まで、あの人のように話した人はいません」

 わたしたちは、ここで主イエス様の語る御言葉の力というものを覚えないわけにはゆきません。主イエス様の御言葉、神の御言葉は、災いをはねのけ、下役たちの心を変えてしまったのです。

下役たちの返事を聞いたとき、主イエス様を捕らえて命を奪おうとしていた会議の中心メンバーたちは驚いたに違いありません。命令を下したにもかかわらず、部下たちはその命令に反抗して従わない、彼らの不服従を目の当たりにしたからです。下役たちは、自分の首をかけて語ったと言ってよいでしょう。主イエス様という人、この人の語っていることを聞いたのなら、それを無理やりに止めさせることは決してできない。何か、この世の権力者たちとは違うものを感じたのです。「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちは決して間違ったことを言っていません。むしろ神様の前に素直な正しい判断をしています。主イエス様の御言葉を聞くとき、また、わたしたちが聖書の御言葉を聞くとき、心が正される、そのような力を受けるのです。

 さて、この会議で議論されているのは、これからどうしたらよいかということです。言うことを聞かない下役たちを厳しく罰し、他の下役たちを、しかももっと多くの人数を送って、あくまで主イエス様を捕縛すべきなのでしょうか。ここでは彼らの議論の様子はつまびらかにはされていません。断片的なことだけが書かれています。彼らは下役たちを叱りました。「おまえたちまでもあの男に惑わされたのか」

 ユダヤ教の幹部たちは、主イエス様が人々の心を捕らえていることを知っていました。しかし、その主イエス様を捕らえるために送った部下たちも主イエス様の言葉に心を動かされ、捕らえることが出来ないというのはどういうことかといきり立ちました。確かに、民衆には人気があるかもしれない。しかしそれは彼らが無知であり、聖書の知識も律法の知識もないからだと彼らは言いました。議員やファリサイ派の人々は律法、つまり神の命令とされていたことをちゃんと分かっているので、決して惑わされないと言うのです。そしてこう言いました。「律法を知らないこの群衆は呪われている。」

 主イエス様は、人々が神の呪いを受けるまでに人々を惑わしてしまうような存在である、だから、いよいよ排斥せねばならないという主張です。下役たちや群衆は、自分たちとは違って、神の律法について知識がないので、主イエス様の言葉に心を動かされるのだというのです。しかし、ここでただ一人、反対意見を語ったニコデモを別にして、ファリサイ派の人々の多くは主イエス様と会ったこともないし、真面目に話を聞いたこともありませんでした。

 しかし、ファリサイ派の議員の中で、非常に少数と思いますが、直接主イエス様と話をした人がいました。もちろんファリサイ派の人やサンヘドリンの議員達のような地位の高い人の中でも、ニコデモのように主イエス様と会ったことのある人がいたかもしれません。しかし、ここで発言したニコデモという人は、間違いなく主イエス様と一対一で語りあい、その語る御言葉を聞いた人でした。

 このヨハネによる福音書の3章にそのニコデモと主イエス様との出会いのことが記されています。

 3章1節でニコデモは、ファリサイ派に属する人で、しかも議員であったとその身分が明らかにされています。主イエス様とニコデモとの対話は、3章1節から21節まで長く記録されますが、その中でニコデモは、主イエス様から人は新しく生まれなければ神の国を見ることが出来ないと教えられました。そして、わたしのような年をとったものがどうしてもう一度生まれることが出来るでしょうかと問いかえしています。主イエス様は、聖霊によってそれが可能になると応じて居られます。

3章の御言葉で気がつくことは、ニコデモが主イエス様のことをラビと呼びかけたことです。つまり自分もまたユダヤ教の教師であるが、しかし自分はあなたのことを先生、教師と思っていますと初めに明らかにしたことです。そして、このときニコデモは、主イエス様を夜になってから訪問してきました。それは自分と同じユダヤの議員達が主イエス様について警戒していたことを知っていたので、明らかに人目をはばかってしたことでした。

 このように、周りの人々には知らせないで、こっそりと主イエス様のもとに来る人を日本では隠れキリシタンと呼ぶことがあります。教会の歴史の中でもニコデモ主義という言葉が生まれました。主イエス様に対して好意を持っていても、はっきりと信仰を告白しない人、どちらにもとれるようなあいまいな態度を取る人のことです。

 けれども、ニコデモは確かに主イエス様のところにやって来ました。そして、今朝の7章でも明らかに主イエス様を弁護しています。わたしはニコデモという人に好意を持ちます。ある意味で信仰の勇者と言ってよいとさえ思っています。

 サンヘドリンの中でニコデモはこう言いました。「「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

 祭司長たちや多くのファリサイ派の人々が、主イエスは群衆を惑わしている、もう一度下役たちを送ると決めようとしたときに、ニコデモは、律法に書かれているように、まず本人から事情を聞いて、それから結論を出さなければならないと反論したのです。群衆は律法を知らないからイエスに従うという意見に対して、あなたがたがよりどころにしている律法そのものが、本人から事情を聞くことを求めているではないかと反論したのです。確かに、ニコデモの言うとおり、出エジプト記やレビ記に派繰り返し裁判を公平公正に行うことが定められ、申命記の17章19章には二人以上の確かな証人を立てることが定められています。

このニコデモの発言は、明らかに主イエス様を弁護するものです。これを聞いた祭司長たちやファリサイ派の人々は言いました。「あなたもガリラヤ出身なのか」つまり、おまえもあの主イエスの仲間なのかというのです。そして「よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と言いました。ニコデモよ、あなたこそ聖書をもっと勉強しなければならないとたしなめたのです。

 しかし、旧約聖書をよく読んでみると、ヨナという有名な預言者が12部族のゼブルンの地であるガト・ヘフェル出身ということが書いてあり、その土地は主イエス様の時代のガリラヤですから、彼ら自身が勉強不足です。

 いずれにせよ、ここではニコデモは、前に夜こっそりと主イエス様を訪ねてきたときよりも、さらに危険を冒していると言うことが出来ます。

3、

 わたしたちキリストの教会に所属しているものは全員が、主イエス様の弟子であります。弟子は、師匠、あるいは先生の言葉に従います。わたしたちは、主イエス様が聖書の御言葉を通して、わたしたちに教えて下さるとおりに、思い、行い、語りたいと願っています。そしてその教えだけでなく、主イエス様の父なる神に対する従順の姿勢からも学ぶことができます。

 主イエス様は、一生涯を通して、ご自身の神への信仰を曲げることも薄めることもなさいませんでした。そして最後に十字架にお掛りになりました。父なる神様が与えてくださった救いの使命、私たちの罪の赦しを成し遂げる、そのために命を捨てて下さいました。その主イエス様は、このように言われました。「わたしについて来たいものは自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」。このヨハネによる福音書以外のマタイ16章、マルコ8章、ルカ14章の三つの福音書に残されているみ言葉であり、主イエス様に従う道を示しています。これは12弟子に言われました言葉ですけれども、もちろん主イエス様の弟子であろうとする私たちへの御言葉でもあります。

 これらの言葉から、わたしたちは主イエス様を信じるということは、命がけですることだと教えられるのです。ところが、ここでニコデモの果たした役割について考えてみたいと思います。ニコデモの場合はどうでしょうか。彼は、いつも自分の立場や地位を守っています。「自分を捨てる」ということをしているようには見えないのです。12弟子のように、目に見える仕方で、すべてをすてて主イエスに従っていると言う訳ではありません。しかし、考えてみますと、このとき、ニコデモが議会の有力な議員であったからこそ、主イエス様を弁護することが出来たのではないでしょうか。彼が、議員の地位も財産も捨てて12弟子のように、主イエス様に従っていたなら、そういうことはできませんでした。

主イエス様をあくまで捕らえようとした会議の結論は、ここで見る限りは、はっきりとは出ませんでした。そのためにニコデモの発言が影響したことは間違いありません。会議の時、ニコデモはただ黙っていてもよかったのです。しかし、そのようなことはしませんでした。彼は、今、自分の出来ることをしました。

 ニコデモの名前は、このヨハネによる福音書には三つの場面で登場します。一回目は、先ほど触れました3章、主イエス様を夜に訪ねて行く場面です。二度目は、今朝の御言葉である7章、ユダヤ教の会議での活躍です。そして最後は、19章です。主イエス様が十字架にかけられて死なれたあとの場面です。大部分の男性の弟子たちが逃げ出してしまい、誰も主イエス様の葬儀をするものがいないと言う場面で、ニコデモは、アリマタヤのヨセフという隠れ弟子と一緒に主イエス様を墓に葬ったのです。ニコデモは、このとき没薬と沈香を混ぜたものを百リトラ、つまり32.6キログラム持参したと19章39節に書かれています。そして主イエス様のなきがらに香料を添えて亜麻布に包んだのです。金曜日の夕方の、たった二人の寂しい葬儀でした。しかし、このお墓の中で、主イエス様のよみがえり、復活という奇蹟が置きました。そのことが明らかになるのは、日曜日の早朝、マグダラのマリアという女弟子が、お墓を訪ねた時です。

 このとき、ニコデモはもはや自分が主イエス様の関係者であることを隠していません。それこそ、下役のものたちが犯罪人の遺体をいつも事務的に葬るままに任せておいてもよかったのです。しかし彼は、大胆に勇気を持って行動しました。主イエス様を愛していたからにほかならないと思います。

 自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うということは、決して、華々しい武勇伝のような信仰美談に生きることではないのではないのでしょうか。ニコデモは、決してあのペトロや、あるいはパウロのようにすることはありませんでした。けれども立派に役割を果たしました。私たちもそうすべきです。それぞれが与えられている場所、働きの中で主に仕えること、自分に今出来ることをすることです。それがまさしく信仰の証しであり、主イエス様を愛すると言うことであります。誰にでも今、出来ることがあります。主イエス様のために。

祈ります。

わたしたちの父であり、救い主である主イエス・キリストの父なる神様、私たちの父である神様、御名を讃美します。あなたは、わたしたち一人一人にその命、存在自体をかけて、主イエス様を信じ、主イエス様に従うようにと教えてくださいました。どうか、大切な、ここぞというべき場面、状況の中で、語るべきことを大胆に語ることができるよう、力を与えてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。