2022年10月30日「恵みによる救い~宗教改革記念日」

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聖書の言葉

ローマの信徒への手紙 3章21節~26節

メッセージ

2022年10月30日(日)熊本伝道所朝拝説教

ローマの信徒への手紙 3章21~26節「恵みによる救い」宗教改革記念日

1、

父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が、豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

いまから505年前の1517年10月31日に、ローマカトリック教会の修道士であり、また神学教師でありましたマルチン・ルターが、ヴィッテンベルク城教会の城壁に95箇条の提題を張り出しました。これがきっかけとなって、宗教改革の嵐がヨーロッパ中に吹き荒れることになりました。ルター自身は、新しい教会を作るつもりは全くありませんでした、しかし、やがてローマ教会から破門されてしまいましたので、やむを得ず、プロテスタント教会で働きを続けることになりました。多くのプロテスタント教会では、このことを記念して、毎年10月の最終日曜日を宗教改革記念日として礼拝を捧げています。今朝、わたしたちもこのことを覚えて礼拝を捧げたいと思います。選びました聖書のみ言葉は、ルターが特に愛しましたローマの信徒への手紙3章であります。21節から26節までをお読みしました。

ローマの信徒への手紙には、いくつかの山場と言いますか、手紙の中で重要な役割を持っている個所、いわばクライマックスのような箇所がいくつもあります。先ほどお読みした3章の後半部分、21節から31節は、まさにそのようなみ言葉の一つです。ルターは、この御言葉に出会って信仰による義について目が開かれたと言います。ここには、そもそもイエス・キリストの福音というものは何なのか、それを私たちがきちんと理解する、福音が福音であるために心に刻み込み込まなければならない中核となるみ言葉が記されています。

お手持ちの新共同訳聖書の今朝のページをご覧になってください。21節の前に比較的太い字で書かれている小見出しがあります。「信仰による義」と書かれています。最初の21節に「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」とありますし、26節には「イエスを信じる者を義となさる」と書かれています。さらに28節には「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によると考えるからです」と書かれています。また30節にも「信仰によって義としてくださる」ともあります。小見出しを付けた編集者は、この個所は「信仰による義」を語っていると考えまして、そのような見出しを付けたのだと思います。それは決して間違ってはいません。

「信仰による義」、教理の言葉では「信仰義認」と呼ばれます。「信仰義認」。それは、「行いではなく信仰によって」、端的に言えば、私たちがただ信じることによって「義とされる」ということであります。「義」は、正義の義です。正しいことです。ここでは、この世の法律や一般的な道徳に適うという意味で「正しいこと」ではありません。あくまでも神様との関係について言われています。聖書がいう「義」は、「神様の御心に適っている」という意味です。しかし、これまで一貫してパウロが書いてきたことは、そのような「義」は、私たちの中では失われてしまっているということです。

3章10節には、こう書かれていました。「正しい者は一人もいない。一人もいない」。

たとえばほんの一瞬のあいだ私たちが、自分の心や行い、存在そのものが、限りなく善であり愛に満ちている、神様の義に適っているように思えることがあったとしても、その裏にあるものまでは人にも見えません。もしかすると自分でも見えないのです。自分でも見えない罪がどんな時も残り続けるのです。

長いキリスト教会の歴史の中で、中世のカトリック教会には、修道院における修行や聖人思想などが入り込んで、人は努力すれば完全に義に生きることが出来る、そのようにして行いによって義を得ることが出来ると思うようになりました。「信仰義認」と言う言葉は、それを本来の姿に改革しようとしたプロテスタントの旗印になりました。マルチン・ルターは、このローマの信徒への手紙こそ、福音の中の福音と呼んだと言われます。

今朝のみ言葉の中で、「信仰による」と何回も繰り返されています。それは当時の人々、とりわけユダヤ教が、行いによる義と言うことをいつも追及していたからであります。ユダヤ教の中でも厳格なファリサイ派に属していたパウロは、行いによる救いを求め続け、イエス・キリストを神と認めず、教会を迫害しました。そのパウロが、恵みを受け、復活のイエス・キリストに出会ったのでした。

行いによって救われることは、ユダヤ教だけではなく、この世の多くの宗教、大多数の宗教者たちが追い求めているものではないでしょうか。そのために苦しい修行をしたり、山にこもったり、教祖と呼ばれている人たちの教えを学んだりするわけです。煩悩を打ち払い、心を清めて、良い行いだけをする人間になる、それに近づくことが救いの道になります。

わたしは、牧師をしていまして、戸惑いを覚えるのは、キリスト教会も同じようにみられていることが多いということです。日曜日に礼拝をする、水曜日には祈り会をする、あるいは早天祈祷会を捧げる、それはみな修行のように見られているのです。しかし、真実は、逆であります。神様の恵みによって信仰を頂き、救いを受けたものが神を賛美し、共に喜び、神の言葉によって礼拝し、祈りをささげるのです。

2,

 パウロは、この3章までに、異邦人の罪、ユダヤ人の罪、そしてすべての人間の罪を明らかにしてきました。そして1章18節の言葉によれば、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義」に対する神の怒りを語りました。

実は、ローマの信徒への手紙を最初から読んで行く、特に1章18節から、この3章の20節までを読み通すためには大変な忍耐が必要です。罪、罪、罪!と連呼されているからです。読むのが嫌になるのです。私たちは、心の奥まで探られ、すべてをさらされ、神の前に告発されるのです。

神を神とせず崇めない罪、人を妬み、殺意を抱き、高慢になり、人を見下す罪です。人を裁く罪、自らはできていないことを人に教える罪が告発されるのです。「すべての人の口はふさがれ、神の裁きに服するほかはない」。こう明言され、わたしたちは隠されていた心の闇さえも暴かれました。私たちは、正しい神、義なる神の前では怒りを受けるしかないのです。

 しかし、パウロは21節でこう叫びます。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。

暗闇の中で、ゆく当てもなく立ち往生するばかりであった私たちに、光への大転換が起こるのです。「ところが今や、神の義が示されました。」

律法に適うことによって得る義ではなく、まったく別の「神の義」が現れたというのです。「示されました」と訳されている言葉は、「公にされる」「明らかになる」「現れる」という言葉です。誰もが見ることが出来るようになるという意味があります。以前の口語訳では「現れました」と訳していました。律法を守ることによっていただく神の義とは全く別の神の義が現れたというのです。これこそが「良き知らせ」「福音」です。神の義、それはイエス・キリストなのです。

「律法と預言者によって立証されて」と言われています。「律法と預言者」と言いますのは、旧約聖書の別の呼び名です。パウロは、イエス・キリストによる救い、新しい神の義は、これまでのイスラエルの歴史と無関係に突然現れたのではなく、旧約聖書に前もって証しされていたものだったというのです。

 それは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信じるものすべてに、何の区別も差別もなく与えられる神の義です。神がイエス・キリストによって私たちを義としてくださるので、わたしたちは裁かれるべき存在ではなく、神に受け入れられるものとなります。救いに入れられるのです。

24節にある「キリスト・イエスによる贖いの業」とは何でしょうか。25節には、「その血」、つまりイエス・キリストの血によって罪が償われたと書かれています。血は命を表します。贖いの業、それはまさにイエス・キリストが十字架上で命を捧げて下さったということです。

25節の「罪を償う供え物」と言う言葉は、普通のギリシャ語では、確かに「ギリシャ・ローマの神々への供え物」のことです。けれども、聖書では別の意味を持っています。旧約聖書のヘブライ語「カッポレート」です。これはエルサレム神殿に安置されている契約の箱の蓋のことです。エルサレム神殿の中には、細長い聖所があり、その奥に垂れ幕で仕切られた至聖所がありました。至聖所の中には、十戒の二枚の石の板が収められた契約の箱があり、そこに一年に一度大祭司が入ってゆき、イスラエルの罪の赦しのための儀式を致しました。契約の箱には純金の蓋がかぶせられており、その上には神様の御臨在を示すケルビムという翼をもった二つのみ使いの像が置かれていました。この純金の蓋がカッポレートと呼ばれます。そこは、神様の御臨在の場所であり、レビ記16章によれば、大祭司は、年に一度、このカッポレートに山羊の血を七回振りかけるのです。山羊の命が、イスラエルの民の罪の赦しのための犠牲として捧げられるのです。イエス・キリストの十字架は、人の罪が赦され、贖われるための、神様ご自身が、償いの座、カッポレートに振りかけられた犠牲の命でありました。

このギリシャ語は、新約聖書の中では2回だけ使われます。この個所以外は、ヘブライ人への手紙9章5節です。こう書かれています。「また箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました」。今朝のみ言葉の25節で「罪を償う供え物」と訳された同じ言葉が、ここでは「償いの座」と訳されています。ヘブライ人への手紙は、旧約の神殿の聖所は「地上の聖所」であるのに対し、イエス・キリストの十字架は、人ではなく神によって造られた「天の聖所」の永遠の贖い、罪の赦しであったと語っています。

旧約時代の犠牲、それは過去一年間に民が犯した罪の赦しの効果を持ち、年が過ぎれば、大祭司は再び至聖所に入って贖いの儀式を行う必要がありました。しかし、イエス・キリストの命は、完全な犠牲であり、ただ一度だけ捧げられることによって、すべての信じる人のすべての罪の赦しの力を持ちます。イエス・キリストの十字架による罪の赦しは、人間の側のどんな功績にもかかわりがありません。ただ恵みによるのです。24節には「神の恵みにより無償で」と書かれています。何かを支払う必要はないのです。ただ受ける、信じて受けるのです。

4,

一昨年、日本聖書協会による新しい聖書翻訳「聖書協会共同訳」が発刊されました。実は、この新しい翻訳では、これまで翻訳に対して多くの変更点がありますが、特に、この信仰による義、を語っているところに大きな改訂が加えられました。新しい翻訳では、21節と22節は次のように訳されています。「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義はイエスキリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです。」

これまで「イエス・キリストを信じることにより」と訳され、「信じる」と言う人間の側の行為によって神の義が私たちに与えられる、そう理解したのですが、新しい訳では、そうではなくなりました。イエス・キリストの真実、言い換えると、イエス・キリストご自身のそのままのお姿、神の前に一貫して真実であられた、そのイエス・キリストによって、神様はご自身の義、正しさを現わされたと理解しているのです。実は、新しい訳の方がまさしく文法的には直訳なのです。これまでの聖書翻訳では、「イエス・キリストの真実」「イエス・キリストの信仰」と言う言葉を、「イエスキリストを信じる信仰」と一貫して訳してきました。それが全く文法的に不可能であったわけではありません。しかし特殊な訳し方をしてきたことは間違いありません。新改訳聖書は、別訳として「イエス・キリストの真実によって」と注を付けています。

わたくしは、この新しい訳の方が良いのではないかと思っています。もちろん「行いではなく信仰による」と私たちは理解していますが、これまでの訳ですと「信じる」という人間の側の行為に焦点が当たってしまうきらいがありました。そうなると、信仰が強いとか弱いとか思うときに、それによって救いそのものが左右されてしまうような誤解が生じます。祈りであるとか、捧げものであるとか、奉仕であるとか、信仰に基づく私たちの行いが、救いに影響を与えるかのように思ってしまうのです。そうなってしまうと、パウロが強く拒否した「行いによる救い」と変わらなくなってしまうのではないかと恐れます。もしも私たちの側の信仰の強弱、大小によって救いが左右されると思ってしまうならば、それは、自分自身の力による救いと変わりがなくなります。

わたしたちは、救いが完全に神の恵みによることを明確にさせるために、「信仰義認」と言う言葉さえも変えた方がよいとさえ思っています。私たちの救いは、私たちの側の信仰に基礎付けられるのではなく、ただただイエス・キリストから出ます。神から出ます。そういう意味では「信仰義認」よりも「キリスト義認」なのです。

そうでなければ、わたしたちはやがて自らの信仰の強さや完全さを誇るようになるでしょう。そのような誇りは、他の人よりも自分を高く評価することによって安心をもたらす誇りとなります。それは同じ信仰者同士で互いに比べあって、見下したり、裁いたりすることにつながってしまうのです。

パウロは、3章27節以下で「人の誇り」について語ります。「人の誇り」は、取り除かれたのです。行いによって自分の義を立てること、それは神の真実な義を拒むことです。それは神によって取り除かれたのです。イエス・キリストをただ信じることによって私たちは義と認められます。それによって神様との暖かい、親と子の関係にも似た関係を回復するのです。

救いを受けた私たちが、感謝の心で神様にお仕えしてゆくことは当然です。信仰者の神奉仕は、信仰の強さ弱さ、行いの立派さを他の人と比較して安心したり、不安を感じたりするようなものでは決してありません。小さなことでも大きなことでも、何の区別なく、神様は私たちの信仰に基づく心からの奉仕を喜んで受けてくださいます。

イエス・キリストの恵みは、わたしたちをして人と比較することから自由にさせ、人や自分を裁くことから自由にさせます。私たちが義とされるのは、ただキリストによるからです。

これまで忍耐して下さり、その罪のゆえに人を滅ぼしつくすことがなかった神は、今や、私たちの救いのためにイエス・キリストを立てて下さいました。イエス・キリストによって、かつてのエルサレム神殿の契約の箱を覆っていた純金の蓋、そこでなされた動物犠牲の血の儀式に比べて、はるかに優れた恵みを私たちに与えて下さいました。神の義は、神を信じ、イエス・キリストを信じるすべてのものに分け隔てなく与えられます。この神の救い、神の義に生きようではありませんか。祈りを捧げます。

天の父なる神様、あなたイエス・キリストをわたしたちに与えてくださいました。このかたの愛、犠牲、命によって、わたしたちは罪を赦され、義ではないにもかかわらず義とされました。心から感謝を致します。主イエス様に従い、神様が望まれる歩みが、すべてにおいてできるよう、聖霊によって導いてください。教会もまた、あなたに喜ばれる歩みが出来ますよう導いてください。

主の名によって祈ります。アーメン。