2022年10月09日「復活の主、イエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 6章41節~59節

メッセージ

2022年10月9日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書6章41節~59節「復活の主、イエス」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

ヨハネによる福音書の第6章の初めのところで、わたしたちが読みましたのは、主イエス様が、ガリラヤ湖のほとりにある山の中腹で、男だけで5000人と言う、途方もない人数の人々を養ってくださった物語でした。たった五つのパンと二匹の魚という、目の前にある大群衆に比べれば全く足りない、その貧しい捧げものを主イエス様は喜んで受け取って下さり、それを豊かにお用いになって、集まっていたすべての人が満腹する素晴らしい食卓にしてくださいました。

 ところが、この五千人の給食の物語は、決してそれだけで終わるものではありませんでした。主イエス様の奇跡を目の当たりにした人々は、主イエス様を新しいイスラエルの王にしようとして連れ出そうと致しました。ここから、「この世のパン」と「天からのパン」についての新しい物語が始まるのです。主イエス様は、この世に物質的な満足を与えるような、この世の王となることを明確に拒絶されまして、彼らの前から姿を消してしまわれました。そして弟子たちと共に、ひそかに対岸のカファルナウムに舟に乗って逃れたのです。けれども、群衆もまた、沢山の舟に乗って追いかけてきて、そこで主イエス様との対話が始まるのであります。

 わたくしは、先週の説教の中で、ヨハネによる福音書が記している7つのエゴー・エイミーについてお話しました。エゴーはギリシャ語で、「わたし」、エイミーは「何々である」、エゴー・エイミーは、主イエス様が、わたしは何々であると自己紹介される言葉です。ヨハネによる福音書は、この「主イエス様は一体誰なのか」「イエスは、誰ですか」という問いに答えるように、7つのエゴー・エイミーを次々と記してゆきます。そしてこの6章の「わたしは命のパンである」という自己紹介は、7つのエゴー・エイミーの最初のものでありました。

 さて、先週のみ言葉を思いかえしてみたいと思います。主イエス様は、5千人の給食の恵みを味わった人々に対して、わたしは永遠の命に至るパン、まことの命、神の命のパンを与える者であると宣言なさいました。つまり、「わたしは、この世のパン」を与えるだけのものではないと言われました。さらに、驚くべきことですけれども、主イエス様ご自身が、そのパンであると宣言なさいました。今朝のみ言葉はその主イエス様と人々との対話の続きであります。59節まで読みますと興味深いことが分かります。対話は、はじめはカファルナウムの海辺でなされていたようですが、終わりの方になりますと場所が変わっているのです。対話を続けるうちに人数も大きく減ってきたのでしょうか。主イエス様は、カファルナウムのユダヤ教の会堂、シナゴーグに入って、その会堂の中で人々に教えるようになります。

41節のみ言葉をもう一度、お読みいたします。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことで、つぶやき始めた。」

 ヨハネによる福音書では、ユダヤ人と言う言葉は、主イエス様に敵対するユダヤ教の主流派、ファリサイ派や祭司長、律法学者のことを表すことが多いのですが、ここは違っております。この人々は、パンを食べて満腹した人々です。ガリラヤ湖の周りに住むユダヤ人です。自分たちを満たしてくれた主イエス様を慕い、主イエス様を追いかけてきた人々です。

「ユダヤ人たちはつぶやきはじめた」とあります。新改訳聖書では、「小声で文句を言い始めた」と訳されています。彼らは、ぶつぶつ言い始めた、驚き怪しみ始めた、そして明らかに否定的な反応をし始めたのです。昨日は、五つのパンと二匹の魚によって満足していたのにもかかわらず、今度は、不平不満を言い始めたのです。それは、主イエス様に抱いていた期待の裏返しでもありました。その理由は、主イエス様が「わたしは天から降って来たパンである」と言われたことにありました。

「天から降って来る」、それだけでも驚くようなことですけれども、主イエス様は、わたしは「天から降って来たパン」だと言われたのです。

 人々は皆、ガリラヤ湖の周囲の村の人々です。主イエス様が生まれた大工ヨセフの家を知っている人も多かったのです。そこに住んでいた少年イエス、若者になったイエスのことも知っていました。それで、驚き怪しみ始めたのであります。

主イエス様は、カナの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡をされた後、神殿のある都、エルサレムに行きます。そこで宮清めや多くのしるしを行われたあと、サマリヤ経由で再びガリラヤへ帰られた時のことが4章の後半に記されています。その時、主イエス様は「預言者は自分の故郷では敬われない」と言われました。まさにそのことがここでは起きているのです。

 群衆は、はじめは、「つぶやく」、つまり、あなたの言うことは理解できない、信じられないと文句を言っているのですが、次の段階になりますと、今度は、二つに分かれて激しく議論をするようになります。

6章52節です。「それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めた。」

「激しく議論し始めた」と訳されている言葉は、戦う、争う、論争するという意味の言葉です。別の個所では、「分裂する」とも訳されています。主イエス様の言われることを受け入れて、もっと話を聞きたいという人々と、そんな必要はない、この人は全く理解不可能な人だという人々とが激しく争い始めたというのです。

期待が裏切られ、つぶやき始めた人々に対して、主イエス様は、彼らの心を穏やかにし、誤解を解くような言葉を語ることはしないのです。それどころか、火に油を注ぐようなことをさらに言われるのです。最初の言葉は、こうです。「つぶやき合うのはやめなさい」。そして、次に主イエス様が展開されるのは、シュルツというドイツの聖書注解者が「ヨハネ福音書の予定論」と呼ぶ言葉でした。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」。

わたしの言葉は、分かる人だけが分かる、わたしのもとに来る人は、天の父なる神が引き寄せてくださる人だけであるというのです。ここで使われている「引き寄せる」という言葉は、興味深い言葉です。新約聖書全体の中で8回しか使われていない言葉ですが、そのうちの5回がヨハネによる福音書です。単純に引っ張るというのではなくて、何か抵抗があるものを引っ張ってくるというときに使われています。ヨハネによる福音書の5回の内、2回は今朝の個所を含めて父なる神様が人々を主イエス様のもとに引き寄せるという使い方、別の2回は、弟子たちが船の上で、沢山の獲物の入った網を引き寄せるとき、もう一回は、福音書の終わりに近いところですが、主イエス様が捕らえられる場面で、使徒ペトロが剣を抜く、と言うときに使われています。使徒言行録16章19節では、占いをする女奴隷が癒されたので金儲けできなくなった男たちが、パウロとシラスの二人を町の広場へ無理やり「引きずりだす」という意味で使われます。つまり、そのままでは到底動かない、来ることができない人や物を特別な力によって引き寄せるのです。

そのようにして神様が働いてくださらなければ、誰も主イエス様のもとに来ることはできないのです。わたしたちが主イエス様のもとに来たのは、実は、天の父なる恵みによって神が引き寄せてくださったからであります。これこそが、わたしたちの救いに関わる予定論の実際の姿なのです

3,

 主イエス様とユダヤ人たちの対話は22節から続いていて、今朝の箇所の59節で終わります。長い対話です。次の60節からは主イエス様と弟子たちの対話へと移って行きます。その人々との長い対話の中で、主イエス様は「はっきり言っておく」と4回言われます。今朝の41節からの対話の後半部では、47節と53節に二回使われています。もとの言葉は、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言います」です。

47節「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」。そして語られたのが、昔、イスラエルが40年間にわたって荒れ野をさまよったときに天から与えられたマナという特別な食べ物のことでした。このマナもまた天から、神様から与えられましたが、それは肉体の必要を満たすためのパンでありました。しかし、主イエス様は、肉体だけでなく、その人の霊も肉もすべてを本来の姿に立ち帰らせてくださる命のパンであるというのです。主イエス様を信じることは、主イエスさまと言うパンを食べることです。そしてその人は、既に、神様に祝福された本来の命、永遠の命を頂いているのです。

51節には、さらに驚くべき言葉が語られます。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」

この「わたしの肉」という言葉が、この後の、53節「人の子の肉を食べ、その血を飲む」という、どぎついような言葉へとつながって行きます。「わたしと言うパンを食べる」というならば、誰も驚かないと思います。しかし、「そのパンとは、わたしの肉のことだ」という言葉を聞くと、誰でもドキッといたします。

さらに、主イエス様は、それは、食べた人が永遠の命を得るパンであるだけでなく、「世を生かすパン」であると言います。世とは、地上世界全体のことであります。そしてヨハネによる福音書では、主イエス様に敵対するこの世でもあります。主イエス様が独り子として遣わされた場所であります。その世を生かす、命を与えるパンなのです。

主イエス様は、信じる人を個人的に救ってくださるお方であるだけでなく、このわたしたちが住んでいるこの世界全体を救いへと導かれるお方でもあるというのです。今は、神様に敵対し、神様の御心にかなわないこの世界も、やがて主イエス様が救ってくださいます。目が開かれる思いがいたします。

さて、最後の「はっきり言っておく」が、53節に置かれています。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」

「人の子の肉を食べる」、聞くだけでもドキッとするのですが、「人の子の血を飲む」と聞けば、さらに、あまりにもどぎつい、生なましいと心が揺さぶられます。特に、当時のユダヤ人たちは、旧約聖書の教えによって、血を食べること自体を堅く禁じられていましたので、卒倒するような驚きを感じたと思います。

ヨハネによる福音書には、マタイやマルコ、あるいはルカによる福音書が記録しているような聖餐式制定の言葉がないことを、以前にお話しいたしました。確かにヨハネによる福音書の場合には、最後の晩餐の場面で聖餐式のことが全く触れられていません。けれども、ヨハネによる福音書が記され、また、読まれていた当時の教会が、聖餐式をしていなかったということは考えられません。教会は、誕生以来パン裂きを行って来たからです。当然、ヨハネによる福音書もまた、主イエス様が制定された聖餐式を前提として記され、読まれています。聖書記者ヨハネは、五千人養いの奇跡の後、主イエス様が、カファルナウムの会堂で、人々に教えられたことをここで改めて記して、聖餐式の深い意味を明らかにしているのです。

聖餐式のパンとぶどう酒に関して、現在に至るまで、キリスト教会の中には、考え方の違いがあります。カトリック教会と東方教会、正教会では、司祭の特別な祈祷によってパンとぶどう酒は、主イエス様の体と血とに実態として変わると教えます。聖なる変化、聖変化、あるいは体に化けると書いて化体説と言います。残ったパンは、教会内の特別な場所にたくわえて置かれ、次の週に用いられます。あるいは司祭が携帯して、病院や施設、時に戦場でのミサに用いられます。

ルター派の教会では、実態としての変化はないのですが、天に昇って行かれた主イエス様の体が、霊の体のかたちでパンの中に、パンと共に存在すると教えます。カルヴァンの流れをくむ改革派教会では、実態としてパンはあくまでパンであり、ぶどう酒はぶどう酒です。けれども、聖霊の特別な恵みによって、聖餐式においては主イエス様ご自身が、パンとぶどう酒に霊的に臨在してくださると考えます。

もう一つ、これは現代ではあまり多くはないと思いますが、ルターの時代にルターの共在説と鋭く対立したスイスのツヴィングリの考え方があります。それは象徴説、或いは記念説と言われます。信仰者は、パンとぶどう酒を頂くことによって、心の中で主エス様の十字架の恵みを思い起こすというものです。聖餐がもっている恵みの神的な力を否定するという極めて合理的、近代的な考えと言えるでしょう。

しかし、56節と57節で、主イエス様はこう言っておられます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる」

ここに現わされているのは、聖餐の持っている神秘的な恵みであります。わたし自身が主イエス様の中にいて、同時に主イエス様が私のうちにいてくださるというのです。さらに、その主イエス様は天の父と一つでありますから、わたしたちは主イエス様を通して、天の父なる神様ともしっかりと結ばれている、一つであるのです。パンを食べること、杯を飲むことは、十字架上で死なれた主イエス様との神秘的な結合なのです。聖餐式の恵みの中心はこのことであります。

 この6章は、ヨハネによる福音書全体の中で大きな山場、あるいは転換点であると以前、申し上げました。次回にご一緒にお聞きする、次の60節から71節では、そのことはいっそう明らかになります。多くの人々が主イエス様から離れ去って行くことになります。そして最終的には、主イエス様はユダヤ人たちから命を狙われるようになります。そして、最後の71節に予告されるのが、イスカリオテのユダが悪魔のように主イエス様を裏切り、主イエス様を敵に売り渡すことです。この6章において、すでに十字架のことが予告されていることになります。

3章のニコデモとの対話の中で、主イエス様は、自分は、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を受けるために、竿の先に挙げられた青銅の蛇のように、十字架にお架かりになると告げられました。

 主イエス様の肉、そして血を食べ飲むことは、十字架の上で主イエス様が肉を裂かれ血を流された、その犠牲、その恵みと一つになることです。そして、主イエス様が、死んで葬られた後に甦られたように、信じる者もまた復活することがここではっきりと宣言されています。

 今朝の聖書個所の直前の40節、そして、54節を改めてお読みします。

「わたしの父の御心は、子を見て信じるものが皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させる。」、54節「わたしの肉を食べ、わたしのちを飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

 十字架の恵みにより、わたしたちの罪が覆われて、赦しを頂くだけでは、まだ救いは半分です。信じる者は、罪の裁きから逃れるだけではなく、主イエス様の神の命を頂き、永遠の命に与かり、終わりの日の復活にまで至るのです。復活は、単に死から生き返るということだけではありません。死に打ち勝ち、勝利し、主イエス様の栄光に与ることであります。主イエス様の肉と血とに与ること、それは私たちの命そのものなのです。お祈りを致します。

神さま、あなたがお遣わし下さった主イエス・キリストを信じ、その命に与って、この週も、この月もまた歩めしめてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。