2022年09月18日「父の心」

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聖書の言葉

ルカによる福音書 1章17節

メッセージ

2022年9月18日熊本教会特別伝道礼拝         ルカ1:17

              父の心

 おはようございます。本日、この教会に来られた方を歓迎します。この時が皆さんにとって有意義な時となりますようにお祈りいたします。

 今日は、「お父さん」「父親」の話をしようと思います。ここにいる皆さんの中にはお父さんではない方もおられます。しかし、お父さんがいない人はいないでしょう。人によってはお父さんの記憶が全くないほどの方もおられるかもしれませんが、たとえそうであっても「お父さんがいなかった」という方はおられないと思います。今もそのお父さんと一緒に暮らしている方もいらっしゃるでしょう。

 今しばらく皆さんのお父さんの顔を思い浮かびましょう。どんな思いでしょうか。懐かしい方も、思い出したくない方も、あるいは思いだしたくても思い出せない方もいらっしゃるかもしれません。でも、自分のお父さんであることは間違いありません。

 わたし個人的なことを話しますと、すでに35年ほど前に親元を離れました。まだ今年で55歳ですけれども、親と一緒に暮らした年月より、親と離れて暮らした年月の方が長いです。父親は7年前の春肝臓癌で亡くなりました。母親も4年前の6月に亡くなりました。二人とも同じ施設で約7年間過ごしました。二人の臨終の時を見守ることが出来ませんでした。わたくしはそのような親をほったらかして、異国の地で暮らしている親不孝の長男です。

 多くの方がそうであると思いますが、自分の記憶の中に子供の頃の父親の存在は非常に薄いです。父とは、ほとんどまじめに話したことがありません。「お父さんは凄い。お父さんのようになりたい」何って一度も思ったことがありませんでした。母からは多くの愛情を感じましたが、父からはほとんど愛情を感じませんでした。むしろ、「お父さんいなければよっかった」と思ったことは結構ありました。でも、正直、父は生涯をかけて3人の子供のために朝から晩まで働いてくれました。その犠牲があまり目立ったないだけです。

 わたしが父の愛を初めて感じたのは兵役で軍隊にいる時でした。軍隊に入ってしばらくした後、父が初めて面会に来てくれました。軍隊に入った息子が心配で心配でたまらなくなり、遠いところまで面会に来てくれたのです。

 正門(せいもん)の検問所隣に面会室がありました。そこから広い運動場があってその向こうに兵士たちが暮らす宿舎がありました。親の面会であることを知らされ、奇麗な外出用の軍服に着替えて面会室に向いました。面会室までは広い運動場を通らなければなりません。父は面会室の窓から運動場向こうから歩いて来る一人の兵士の歩き方を見て、「あれは間違いなく我が息子だ」と思って、面会室の外に出て迎えてくれました。初めて父の愛情を感じた時であります。

 そのような親不孝の息子が、今は二人の子供の父親になっています。まだ結婚する前には「男の子が生まれたら、友達のような親になろう。一緒にキャッチボウルをし、一緒にバッティングセンターにも行こう」と思いました。しかし生まれてきた息子は残念ながら一人で遊ぶことが大好きな子です。わたしと語り合おうともあまりしません。その代わり時々わたしの言葉を真似するだけです。息子は重度の発達障害を持っています。

 自分の話を少しいたしましたが、皆さんの思いの中で父親に対する思い、あるいは母親に対する思い、そして我が子に対する様々な思いが様々な形で思い浮かぶのではないかなと思います。

 聖書の中にも様々な父親の姿が描かれています。初めて来られた方も名前は聞いていらっしゃると思いますが旧約聖書の中に「アブラハム」という人物がいます。彼はユダヤ人たちにとっては「信仰の父」と呼ばれていましたが、そのように呼ばれるようになった理由がありました。

 彼には年老いて奇跡的に与えられた一人息子がいました。名前は「イサク」と言います。このイサクがある程度大きくなっていたある日、神様がアブラハムの前に現れて「あなたの息子、あなたの愛する独り息子をわたしのためにいけにえとしてささげなさい」と命じられました。

 神への信仰が篤かったアブラハムですので、この神の言葉に背くわけには行けません。と言っても奇跡的に与えられた息子を自分の手で殺すことが出来るはずがありません。アブラハムはどれだけ苦しみ、どれだけ悩んだでしょうか。しかし、アブラハムは翌日の朝、息子イサクを連れて、神様から命じられた山に向って旅をしました。三日をかけて山の近くまで行ったアブラハムは、使い人を残し、イサクにささげものに用いる薪を背負わせて、二人で山を登りました。アブラハムの両手には火と刃物がありました。

 その時、息子イサクが父親に聞きます。「お父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くすささげ物はどこにありますか」この言葉を聞いたアブラハムの心はどうだったでしょうか。胸が割かれるような苦しみがあったのではないかと思います。そのような苦しみをこらえながら彼は答えました。「わたしの子よ、焼き尽くすささげ物は神様が備えてくださる」

 アブラハムにとってイサクは「自分の命をかけても守りたい」かけがえのない存在でした。しかし、その息子を与えてくださったのも神様であることを彼は知っていました。「出来ることであるならば自分が代わりとなりたい」と思ったでしょう。しかし、神様が求めておられるのは自分ではなく、息子です。だから、与えてくださった方に逆らうことができません。

 この世には様々な悲しさがありますが我が子を自分より先に死なせる悲しみと言うのは言葉に言いつくしません。韓国では「もっとも親不孝というのは親より先に子が死ぬことだ」と言われています。つまり、それは親に大きな悲しみを与えることだからです。皆さんの中でもそのような悲しみを経験された方がもしかしておられるかもしれません。でも、実は我が家ではたとえそのような大きな悲しみであっても、私たち夫婦は「息子より1日でも長生きしたい」という思いがあります。

 障害児が一人で生きることの出来ないこの社会であるならば、息子を最後まで面倒を見、天国に送ってから死にたい、それがわたしたち夫婦の願いであり、また障害児を持っている多くの親の心ではないかと思います。

 息子イサクを連れて命じられた場所に着くと、アブラハムは薪で祭壇を築き、息子を縛り上げて祭壇の上に載せ、刃物で息子を屠ろうとしました。しかし、その時天からの声が聞こえました。「アブラハム、アブラハム、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 そうです。これは神様のアブラハムに対する信仰の試みでありました。この出来事があったので、ユダヤ人はいまだにアブラハムを信仰の父と呼んでいるのです。

 アブラハムの時代から約1000年後、イスラエルはダビデ王朝時代になります。「ダビデ」という名前も皆さんどこかでお聞きになったと思います。イスラエルの王の中でも最も尊敬されている王がダビデ王であります。彼は王でありながら神への信仰心が篤い王として聖書の中で記されています。このダビデ王に、「アブサロム」という息子がいました。彼は3男でありますが、王位に強く関心を持っていて、とうとう父ダビデに逆らって反乱を起こしたのです。

韓国の時代劇を見ると、権力を握るための王系と貴族たちの争いが良く出ます。権力のために兄弟が殺し合う、あるいは子が父を、父が子を殺すような様子は、王制を持っている国では、歴史の中でよく見られることでした。イスラエルにおいても例外ではありませんでした。

息子アブサロムの反乱は中々強いもので、王が宮廷を奪われるほどでありました。しかし、結局はダビデの軍隊に負けてしまい、アブサロムも戦死してしまいます。やがて、この知らせがダビデ王に伝えられました。その時のダビデの様子を聖書は次のように伝えています。

「 ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」(サムエル記下19:1)

権力を握るために父親にまで刃向いた息子であります。その息子に命を奪われそうだったことのある父親が、「その息子が死んだ」との知らせを聞くと、「自分が代わりに死ねばよかった」と言いながら大泣きをしたのです。そしてその泣き声は、勝利を収めて帰って来る将軍や兵士たちが恥ずかしくなるほどであったと聖書は記しています。

 ダビデ王にとってアブサロムは敵ではありませんでした。彼が自分を殺し、自分の王位を狙っていたのは間違いありませんが、しかし、その人が自分の愛する息子であることは変わらなかったのです。わたしたちはそこでもう一つの父の心を見ることが出来ます。

 子は親が破廉恥な親であるならば、親を憎み、親を捨ててしまうことが良くあります。しかし、親はどんなに放蕩息子であってもその子を手放すことはしません。勿論、物理的には離れることはあるでしょうが、その心の中では子に対する思いを忘れることはないのではないかと思います。

今日の聖書個所は新約ルカによる福音書1章17節の言葉であります。もう一度お読みいたします。

「17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 

この言葉は、イエス・キリストがこの世に生まれる前にその道備えとしてイエスより6カ月前に生まれるヨハネの誕生物語の中にある言葉です。この言葉は、当時、社会的な雰囲気を物語っています。それは、父の心が子に向けられなかった社会でした。実はこの言葉は旧約の最後の書物であるマラキ書3章24節と関係があります。そこには次のような言葉が記されています。

 「彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」

 旧約聖書の時代と新約聖書の時代の間には約400年のブランクがあります。この400年の期間を人々は「暗黒期(あんこくき)」であると言っています。このような暗黒期を物語っている一つの言葉が、まさに先ほど読みましたように「父の心が子に、子の心が父に向けられてなかった」時代でありました。父親は子を顧みず、子は父の存在を感じないそういうような時代でした。まさに、今の時代がそうではないかと思います。

 父はお金を稼ぐ機械のようになりました。家庭の中で父親の居場所を見つけることが難しくなりました。父と子が一緒に食卓を囲んで食事をすることがいかに稀なことになってしまったでしょうか。なぜ、このような時代になってしまったでしょうか。

 自分が父親になって段々感じることがあります。父と子の関係が薄くなっているのは、父親が子から離れていたのではなく、むしろ子が父親に離れて行ったのではないかということです。

 自分が子供の頃は「父さんはどうして口数が少ないんだろう。もっと温かくて優しい父親でほしいな」と思ったことがありました。「父親は全く自分に関心をよせず、お酒ばかり飲んでいる。」結局、息子なのに将来何をすればよいのか、人生相談も一度もしたことがない。そういう存在でした。

 しかし、今考えてみると自分から父親に離れていたのではないか。父親が近づけないような、扱い難い子供となって、段々父親から離れていたのではないかと思うのです。決して父親は子から離れようとしなかったのに、むしろ子が父に離れていて近づくことが出来なくなるまで行ってしまったのではないかと思います。

 この「父の心」という時「父」とは、家庭の中での父親を意味することでもありますが、実はもっと言えば「神様」のことを意味する言葉でもあります。神様である「父の心が子から離れ、子の心が父に離れる」なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは、人間の中に罪が入り込んだからです。神様は人間を御自分の姿に似せて造られました。そのような人間は神様と交わることの出来る、全く罪のない人間だったのです。

 しかし、その人間が神の言葉に背き、やってはいけないことをしてしまいました。人間の中に神に背く、罪が入り込むと罪を嫌う神様はこれ以上人間と交わることが出来なくなってしまったのです。それ以来、人間はどんどん神様から遠くに遠くに離れてしまったのです。子が父親から離れて行くように、人も神様から離れて行き、そしてその心の中には罪に赴く性質によって、様々な悪が生じたのです。

 最高の傑作としてご自分の姿に似せて造られた人間が、神を離れて罪の泥沼の中でさまよう姿を神様はどのような気持ちでご覧になったのでしょうか。父親が放蕩息子を見ているような心かもしれません。「何とか我が息子をあの罪の泥沼から救いだしたい。何とかしないといけない。」神様はそのような心で人間を見、この人間を救う方法を考えました。それが、ご自分が自ら人となってこの世に来られ、人間の代わりにその罪を償うことです。

 神様が人となる、それがまさにイエス・キリストの誕生なのです。そして、ご自分を死に渡されることによって息子である人間を救ってくださったのであります。まさに、子の心を父に向けさせるための、父の心でありました。

 皆さん「カシコギ」という小説を読まれたことがありますか。二十年ほど前に韓国でベストセラーになり、映画化し、また日本でも2011年に反町さん主演の「グットライフ」という題名でドラマになった物語であります。カシコギというのは「とげうお」という魚の韓国語です。「とげうお」この魚のオスは、メスが産み捨てた稚魚を必死に育て、子が成長していくと自らは死んでいくという不思議な魚だそうです。

 この小説は白血病を患っている子供と父親の物語です。子供が幼い頃、母親は家出をしました。父親は不況で仕事を失う中で必死に息子の闘病を支えます。その中、ドナーが現れて息子は手術を受ければ治る可能性が出てきました。そしてとうとう父親は自分の臓器を高く売って息子の手術費用を作ろうとします。しかし皮肉にもそのための検査で自分が末期の肝臓がんであることが分かります。余命6カ月。

 さて、手術を終えて目を覚ました息子は、片方の目に眼帯をしている父親を見ました。「パパは目が痛むの?」と聞きます。父親は比較的健康な自分の目を売って、息子の手術費用を作ったのでした。父親はその後息子を母親の所に行かせます。まるで、「お父さんは君のこと大嫌いになった」というような振りをして、

しかしそれは自分の死を準備するためでした。最後は医者に「自分が死にかけていることを息子にも、妻にも知らせないように」と言い残して、父親は死んでいきます。

 多くの人を泣かせたこの小説ですが、しかし、それは小説ではなくわたしたち一人一人のために自ら人となられ、十字架の死を成し遂げてくださった神様を思い起こさせます。

両手を広げて十字架に架けられたイエス様は、まるでわたしたちにわたしの胸に来なさいと両手を広げる父親の姿であります。

 今の我が息子も言葉で語り合うことは出ませんが、確実にわたしが何を求めているのかを知っていることがあります。わたしが彼に向って両手を広げると、22歳の大きな息子は何のためらいや恥ずかしさもなく、わたしの胸に飛び込んできます。そこに父の愛がある、そこにわたしを愛する父の心があることを感じているからです。

 神様は今両手を広げて皆さんを呼んでいます。「わたしの所に来なさい。あなたを休ませてあげよう。大変だったね。辛かったね。でももう安心しなさい。父さんがいる。君を最後まで守る。君がどこに行っても君の傍で君を守る。だから、父さんの所にきなさい。」これは永遠の父である神様の心であります。