2022年07月10日「夜の訪問者ニコデモ」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 3章1節~15節

メッセージ

2022年7月10日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書3章1節~15節「夜の訪問者」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 さて、今朝与えられています御言葉は、ニコデモという人が主イエス様のところに訪ねてきて、二人で語り合った、その報告の記事であります。この報告は3章の1節から21節まで続いていますけれども、わたしたちは、この御言葉を二回に分けて聞いてゆきたいと願っています。今日は、その第一回目です。

 ニコデモに一つのあだ名がつけられています。それは「夜の訪問者」というものです。2節に、「夜にやってきた」とかかれているのでそう呼ばれます。またヨハネによる福音書自体もそのようなレッテルを張っていると思われるところがあります。

 ニコデモという人は、この3章を含めて三度にわたって繰り返し登場ます。一方、ヨハネによる福音書以外の他の福音書には一切登場しません。ヨハネによる福音書だけが、このニコデモの事を伝えています。3章の次には、7章に登場します。そして19章にの登場します。3章ですが、ユダヤ人たちが主イエスさまを逮捕したかったのですが、民衆を恐れてそれがなかなか出来ませんでした。そこでサンヘドリン、ユダヤの立法評議会は、主イエス様を欠席裁判で有罪にしてしまおうと致しました。そのときに、この立法評議会の一員であったニコデモが立ちあがって、こう訴えたのです。7章51節です。

「「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

今朝の3章では、最後まで主イエス様への態度を明らかにしなかったニコデモですけれども、ここでは勇敢にも主イエス様を弁護しました。

 19章では、すでに主イエス様は十字架刑に処せられて、亡くなられています。この時、弟子たちは皆、逃げ出し、姿を隠していて、誰も主イエス様の葬りをすることができなかったのであります。主イエス様を十字架から降ろし大切に埋葬した人は、二人のファリサイ派の議員でした。初めに行動したのはアリマタヤのヨセフと言う人です。アリマタヤのヨセフはほかの福音書にも名前が出ます。しかし、ヨハネは、少し遅れてやってきたニコデモのことを記録しています。彼はたくさんの香料を持ってきました。主イエス様のなきがらは二人の隠れ弟子によって墓に葬られました。ヨハネによる福音書19章38節39節にはこう書かれています。

「38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」

アリマタヤのヨセフは、ここではイエスの弟子であると紹介されていますので、ニコデモもまた主イエス様の弟子として扱われていると言ってよいと思います。その主イエス様の弟子ニコデモについて、ヨハネによる福音書は19章39節で「ある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と書いています。夜に来たということが強調されているのです。ですから、ニコデモは「夜の訪問者」と呼ばれているのです。

2、

 今朝のみ言葉の1節には、ニコデモについて簡単な紹介が記されています。彼は、ファリサイ派に属する人で、ユダヤ人の議員です。ファリサイ派は、当時のユダヤ教を形作っていた有力な集団の一つです。十戒をはじめとする旧約聖書の教え、戒め、律法を真面目に守り、またそれをよく研究していた集団でした。ファリサイというヘブライ語は、分かれている、区別されている、分離しているというような意味です。彼らが、ユダヤ教の中でも誰もが明確に区別できるほどに、特別に、律法に対し、神さまに対し熱心であるという意味が込められていました。聖書の中に律法学者という言葉がたびたび出てきます。この律法学者はファリサイ派の中の、特に、律法の研究をよくしている人たちのことを言います。ファリサイ派は、ユダヤ教の中で最もまじめに、また厳格に教えを守ってゆこうとする人々でした。

 また彼はユダヤ人の議員であったと書かれています。ここは指導者と訳すことも出来ます。ここではユダヤの政治、行政、司法を司っていたサンヘドリン、立法評議会の議員であるということです。71名の議員がいたとされていますが、ユダヤの社会の中で地位の高い人であり、実際に力を持つ人でありました。このことと、ニコデモが夜に主イエス様を訪ねてきたことには関係があると言わなければなりません。

 このころ主イエス様は、まだ無名の教師でありました。けれども、その教えに接したことのある人、そしてその中でもいろいろなことを深く考える人から見ますと、その教えには、当時のエルサレム神殿とユダヤ教会を根本的にひっくりかえしてしまうような危険なところがあるとみられていたようです。また、一方では、主イエス様は、多くのしるしを行って、ユダヤの民衆の一部から、この人はメシア、神の遣わす救い主ではないかと信じられ始めていたのです。

 そのようについての様々な情報が、石が池に落ちてその波紋がゆっくりと広がってゆくように、ユダヤのあちらこちらの街に広がっていったその先にファリサイ派でありユダヤ人の指導者であったニコデモがいたのであります。

 このときニコデモは、主イエス様を陥れるとか、そのための情報をつかまなければならないとか、そういう不純では動機でやって来たのではありません。そうではなく、主イエス様に向かって、「ラビ」「先生」と呼びかけている通り、一人のユダヤ教の巡回教師、それも今までにない優れた教師として、尊敬をもって主イエス様に会いたい、直接会って、教えを聞きたいと思ったのです。しかしそれは危険なことでした。ほかのユダヤ人から、ニコデモは主イエスの弟子になろうとしているのではないかと非難される可能性がありました。それだけでは、主イエス様と会うことは、彼自身のこれまで歩んできた人生が変えられてしまう可能性があるという意味で危険なことでした。これまで築いてきたものを捨てなければならない危険です。さらに、ほかの大多数の人々とは違った人間になるという危険もあります。この現代世界においても、それは変わらないのだと思います。わたしたちが主イエス様に出会う、この方の弟子となることも、同じように危険なことです。

ニコデモは、自分が今、主イエス様を訪ねることは危険なことであると知っていた人でした。しかし、それでもやってきたのです。ニコデモは「夜の訪問者」でありました。主イエス様との出会いによって、この後、時間をかけて、光の中へと導かれて行くのです。

3、

 ニコデモはこう言います。2節です。

「「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 これは質問ではありません。いわばニコデモの信仰告白と言ってよい言葉です。けれども、この信仰は、決して深いものではありません。つまり、2章の終わりに、エルサレムの過越し祭りの期間に多くの人がしるしを見て、主イエス様を信じた、しかし、主イエス様は、彼らを信用しなかったと書かれているような、単に、しるしを見て信じるという、通り一遍の信仰と言えないことはありません。ニコデモは、主イエス様に「あなたには神が共におられる」と言います。それはそれで重大なことですけれども、それ以上には進みません。主イエス様が、このあとニコデモに語りかけられます。そのときに「イエスは、答えて言った」とかかれていることに注意したいと思います。ニコデモは、ここで主イエス様に何かを質問したに違いないのです。それに対して主イエス様がお答えになられたのです。

 問答は、三回に及びます。主イエス様が三度にわたって答えておられることは、こうこうしなければ「神の国を見ることは出来ない」、あるいは「神の国に入ることは出来ない」、そして最後に「永遠の命を得る」ということです。

 これらのことは、主イエス様にとっては皆、同じことがらを言っていることだと考えなければなりません。

 「神の国」と訳されている言葉は、「神のご支配」と言う言葉です。神のご支配を見たい、そこに入りたい、そのためにはどうすればよいのか、これがニコデモの問いであったと思います。そこには、今は神のご支配は見えない、わたしたちはそこに入れていないという現実があったのです。イスラエルは、独立を失い、異教徒であるローマ帝国の支配下にあります。そのローマと妥協し、裏で取引して自分たちの利益を図ろうとする人々がいる、エルサレムの神殿の中枢部にもそう言う人々がいる、この現実の中でしかし、なおも希望を失わないで神のご支配を実現したいと願っているのです。

 わたしたちにとって、神のご支配の問題はどういう意味をもつのでしょうか。ある人たちは、自分の心の中の罪の問題を考えるかもしれません。自分の心の動きを見ると、神のご支配がそこに満ちているとは思えない。そうではなく、自分の中に、神に逆らう思いや、神ではなく他のもの頼ろうとする思いがある、汚れた思いがある、そのような現実に心を馳せるかもしれません。ある人は、自分を取り巻く世界のことを考えるかもしれません。この世界は、神様がお嫌いになるようなことが溢れているように見えるのです。それは、罪のある人間の心が造り出している世界でもあります。この世界が造り変えられて、神さまの御心通りの世界になってほしいと思うのです。

 当時の信仰深い人々が、求めている神の国、神のご支配は、彼らには「あなた方は選びの民、神の民である」と言う神の約束があり、また長い、長い旧約信仰の歴史の中から生まれてきているものです。従って、今のわたしたちが心に願っている、神の国、神のご支配とは違いがあるかもしれません。

けれども、現実の今の世界は天国のような世界ではないということは同じであると思います。主イエス様がお答えになった「神の国を見る」と言うこと、「神の国に入る」と言うこと、そして「永遠の命を得る」と言うことは、基本的に同じことを言っております。永遠の命とは、命の長さのことではなく、命のあり方、命の性質を言っているからです。神の国を見て、神の国に入って生きる命、これが永遠の命です。

主イエス様の御言葉は、「はっきり言っておく」という前置きのもとに語られます。元のギリシャ語では、アーメン、アーメン、わたしは言います、こういう言葉です。アーメンという言葉は、ヘブライ語で、そのとおりです。本当です。確かなことですという意味です。新改訳聖書は「まことにまことにあなたに告げます」と訳しています。「まことに」「真実に」と訳すのが良いと思いますが、これが二回繰り返されています。

そして主イエス様はおっしゃるのです。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」

4、

これに対して、ニコデモは直ちに反応します。「年を取ったものが、もう一度、母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか」

 一度この世に生まれてきた人が、現実のこととして、生まれなおすということはもちろん不可能です。ニコデモもそんなことを言っているのではないのです。ここでは、ニコデモが、わざわざ、「年を取ったものが」と言っていることが大切です。心が新しくされる、生まれ変わるということは、若かったら、それは出来るかもしれない。しかし、イエス様、わたしたちのように年を取り、地位も名誉も出来、人生の半ばを過ぎたようなものには無理です。ニコデモはこう言いたかったのです。たしかに、今まで積み上げてきた自分の人生、そこから形造られてきたものの考え方、これを全部ないものとして、ひっくり返して、新しくなるということは困難です。しかし、主イエス様は、それが出来るとおっしゃいます。

主イエス様は、「新しく生まれる」ということを言いなおして「水と霊とによって生まれる」と言われました。水と霊、これは当時、主イエス様が弟子たちによって授けておられた洗礼を表わします。今日の洗礼は、主イエス・キリストの名による洗礼です。そこでは聖霊が鮮やかに働きます。主イエス様は、洗礼の水そのものの力ではなく、洗礼と共に働く聖霊の力に焦点を当てています。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊であると言われます。洗礼そのものに意味があるのではなく、そこで霊を受けることが重要なのです。しかし、誰も、この霊を見たり感じたりすることは出来ません。分かることは、霊の働きによって起こされた結果だけです。平安、感謝、恵み、喜び、誠実、柔和、節制が御霊の実と言われます。その中心にあることは、神さまの恵みを信じ、主イエス様を信じるという心の動きです。主イエス様を下さった神様にかけて生きようと決心する心、これが聖霊の働きなのです。

「風は思いのままに吹く」と言われています。風あるいは息というギリシャ語と霊というギリシャ語は、実はプネウマという同じ言葉なのです。神の息、神の風、神の霊は同じ言葉です。聖霊は自由にお働きになります。自分自身や他の人がこれを思うように操ることは出来ないのです。全ては神様の恵みであります。わたしたちは、こころを白いキャンバスのようにして、幼子のように、その恵みをただ受ければよいのです。霊から生まれたものは皆そのことを知っているのです。

 14節をお読みします。「そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである」

イスラエルの人々が昔、モーセに率いられて、荒れ野を旅しました。奴隷の家であったエジプトを脱出して40年間荒れ野をさまよったのです。その旅の途中で、人々が罪を犯してモーセに逆らった時、神様は、炎の蛇と呼ばれる猛毒の蛇を送って民を罰しました。これは旧約聖書民数記21章にある物語です。多くの死者が出ました。そこで人々は初めて悔い改めて、モーセに向かっていいました。わたしたちのために主に祈ってほしい。その時、モーセは主に命じられた通り、青銅の蛇を作って旗竿の先に掲げたと言うのです。蛇にかまれた人々が、その蛇を見上げた時、蛇にかまれた人々は皆、全員命を得て助かったと言うのです。

 主イエス様は、このときの青銅の蛇のように、自分も上げられると言われました。あげられるという言葉は、第一に十字架の上に上げられて死ぬことを意味します。そして第二に、主イエス様が、およみがえりになった後、天に昇られることです。そのことによって信じるものは皆、命を得る、永遠の命を得ると約束して下さいました。

 わたしたちが、教会にはこの世のどこにもないようなものがある。わたしたちの心を新しくする何かがあると、思っているならば、それはすでに神様の霊、聖霊を受けていると言ってよいのです。この事を認め、受け入れ、後は神様にお委ねする、そうすれば、わたしたちはもう神の国に入っています。

 ニコデモは、やがて、夜ではなく、白昼堂々と主イエス様を擁護して恥じない議員になります。また、弟子たちが皆逃げだしたときに、多くの人の目を恐れずには墓に香油と香料をもって墓に駆け付けました。それは、いずれも、そのとき、その人にしか出来ない主イエス様への奉仕ではないでしょうか。ニコデモは、12弟子のように直接主イエス様の弟子になって主イエス様と一緒に旅をした人、そういう弟子ではありません。最初の頃は隠れ弟子でした。けれども神様は、彼にしかできない奉仕をするように導いてくださいました。ニコデモは、与えられた場所で、その人にしかできない仕方で主イエス様に仕えた人です。

ニコデモは救われたのかと問う必要はありません。彼は間違いなく新しくされ、命を得、神の国に生きた人でありました。わたしたちにもまた、それぞれにふさわしい歩みが要されているのだと思います。わたしたちもまた、聖霊によって、また水によって新しくされ、神の国に入り、そこに留まり続けようではありませんか。祈ります。

祈り

天の父なる神様、はるか昔、人目を忍んで主イエス様に会いに来た一人の人の物語を思います。主イエス様は、ニコデモを受け入れ、水と霊によって新しく生まれるようにと招いてくださいました。わたしたち一人ひとりも主イエス様から違ったお取り扱い受けますけれども、その救いの恵みは一つであることを思い起こさせてください。主イエスさ様の御名によって祈ります。アーメン。