2022年06月19日「主イエスの宮清め」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 2章13節~22節

メッセージ

2022年6月19日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書2章13節~22節「主イエスの宮清め」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

今朝与えられております御言葉は、ヨハネによる福音書2章13節から22節です。この新共同訳聖書には、「神殿から商人を追い出す。」と小見出しがつけられていますけれども、古くから、「宮清め」と呼ばれてきたみ言葉であります。英語の聖書にも小見出しのついたものがありますが、例えばNIVニュー・インターナショナル・ヴァージョンには、「Jesus Clears the Temple 」と書かれています。宮、templeは当時のユダヤ教の総本山でありますエルサレム神殿のことであります。「Crear」という英語の単語には、「とてもクリアーだ」というように、「はっきりしている」、「透明である」「きれいである」という形容詞の意味がありますが、他に「邪魔ものを取り除く」、あるいは、「事柄をはっきりさせる」という意味で動詞としても使われます。「宮清め」という日本語の「清め」という言葉には、単に掃除をするということではなく、もっと霊的な意味が込められていますと思います。

しかし、このヨハネによる福音書についていますと、主イエス様がなさったこと、そこで叫ばれたことは、もう「宮清め」「Clears the Temple」を通り越していることが分かります。19節に注目して頂きたいと思います。主イエス様は『宮を壊してみよ』『宮を壊せ』と言っています。さらに、「三日で立て直して見せる」と呼んでいます。これは21節の福音書記者ヨハネの説明によれば、ご自身の死とよみがえり、復活のことを言われたのであります。

前回のカナの婚礼、水をぶどう酒に変えるという奇跡は、旧約聖書の律法が主イエス様によって完成されて福音となることを表していました。今朝の御言葉が示していることは、今度はエルサレム神殿、つまり神様のご臨在の場所が主イエス様の復活の体に変わってしまうということです。

わたくしは2000年から2014年まで14年間、京都府八幡市というところにある男山教会で奉仕を致しました。そこは国宝にもなっている有名な神社、石清水八幡宮のおひざ元でした。教会から車で15分くらい走って頂上まで昇ることが出来る山の上に、その神社がありました。大きな石の鳥井をくぐると国宝である赤く塗った本殿が広い境内の向こうに見えます。境内にはお守りや絵馬、いろいろな縁起物を売る建物がありました。初詣の季節になりますとたくさんの人がやってきます。また臨時の舞台のようなものが作られ、巫女さんが踊りを舞います。参道には、屋台が立ち並びます。

主イエス様の時代、人々が過越し祭りにエルサレム神殿にやってくるのは、律法が定めるいろいろな犠牲の動物を捧げるためでありました。またそこで神様を礼拝して献金を捧げるためです。ユダヤ人たちは地中海各地に離散して暮らしていましたので、遠くから動物を引いて来ることが出来ません。それぞれお金を用意し、神殿でふさわしい動物を買って捧げるのです。律法には、捧げるべき動物の年齢とか、傷やしみがないとか厳しい条件がありましたので、ここで買う動物は、それらの条件を満たしていた保証付きのものでしたから安心でした。また、それぞれの国で使っている通貨の種類も違います。神殿に捧げる献金は、シェケルという専用の貨幣に決められていましたので、そこには両替商も沢山店を出していたのです。

当時のユダヤ教はユダヤ人たちの固有の宗教でありますが、一般のユダヤ人たちにとっては、過ぎ越しの祭りは、多くの日本人が初詣をするのと同様に、一種の年中行事のような感覚があったかもしれません。

主イエス様がなさったことは、たとえば、そういうところに突然やってきて、乱暴狼藉を働いて売り場をめちゃめちゃに破壊したようなことです。周りの人は、あれよあれよという間にことがなされて、驚くばかりであったと思います。

15節から16節に、主イエス様の有様が、まるで映画の一場面を見ているように描かれます。

「イエスは、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」

 主イエス様が縄の鞭を振り回す音や、羊や牛が驚いて泣き出す声、また地中海のいろいろな国の貨幣と神殿内でだけ通用するシェケルという特別な貨幣がまき散らされる、じゃらじゃらという音が聞こえてきそうです。

2,

「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」。主イエス様は、恐らく一回だけではない、何度も何度もこう叫ばれたのだと思います。

 ここで主イエス様は、エルサレム神殿について「わたしの父の家」と呼んでいます。これは当時の人々にとっては驚くべき言葉でありました。天地の創り主である神様を「わたしの父」と呼んだからです。たとえば石清水八幡宮の祭礼に幾人かの弟子を引き連れた人が突然乗り込んで来て、「わたしの父の家を商売の家とするな」と怒鳴って乱暴狼藉を働いたようなことです。

エルサレム神殿は、元来はシナイ山のふもとに作られた移動式の幕屋から生まれました。旧約聖書には、その幕屋の中に契約の箱が置かれていたこと、そこに神様ご自身がご自身のみ言葉と輝く雲において臨在されたこと、すなわち、神ご自身がそこにおられたことが記されています。移動式の幕屋は、立派な神殿になりましたが、神がご臨在下さる場所であることに変わりはありません。そこは主イエス様にとっては父の家でありました。「わたしの父の家」、この言葉は、ご自身が間違いなく神の子であるということを表現しています。神殿にいた神官たち、祭司たち、あるいは参拝者たちはこれを聞いてどう思ったことでしょうか。

 過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトから脱出するとき、神がモーセを通して、子羊を殺して、その血を家の入口に塗っておくように命じられたことを記念する祭りです。毎年定められた日に子羊を殺して捧げ、皆でそれを食べて、神様の恵みを思い出すのです

ヨハネによる福音書では主イエス様は三回過越し祭りのときにエルサレムにおいでになります。今朝の2章、そして6章、と11章です。それぞれ別々の年に行われた祭りですので、このことから主イエス様は公に伝道を始められてから少なくとも三回の過越し祭りを経験されたことが分かります。主イエス様のお働きは、すなわち足掛け3年に及ぶお働きであったことが分かります。

それだけではなくて、この福音書は、過越し祭りと主イエス様の救いのお働きの間に深い関係を見出しています。人々を救う、また罪を赦す犠牲の子羊、過ぎ越しの子羊の完成された形が主イエス様の十字架の犠牲だと明言するのです。この二つを強く結びつけているのであります。

今朝の御言葉は、主イエス様が登場する三回の過ぎ越し祭りの最初の出来事です。そして11章の三度目の過越し祭りにおいて主イエス様は捕らえられ、裁判を受け、十字架に架けられました。洗礼者ヨハネは、この前の1章のところで主イエス様を指差して神の子羊と呼んでいます。主イエス様は神の子羊です。エルサレム神殿でこれまで連綿として子羊が捧げられてきた、それが過越し祭りです。これをもう終わりにするための最終的な犠牲、完全な子羊として、主イエス様は十字架にお掛かりになったと言わねばなりません。過越しのまことの子羊として主イエス様は、ご自分の命を捧げられたのであります。

3、

このとき、主イエス様の激しい行動に抵抗したり、押しとどめたりする者はいなかったのでしょうか。当然いたと思います。けれども、主イエス様の決然とした行動に対して彼らは、手向かうことが出来なかったのです。主イエス様の行動は、自分が何か別の商売をしたいという目的のものではなく、まさしく、このような金銭目的の商売を宮から追い出してしまわれると言う預言者的な行動でありました。

祭りに来ていた人々は、出身の国は違っていても、みなユダヤ人であり、旧約聖書を暗記するほどよんでいたのですから、その主イエス様の姿を見て一つの預言書の言葉を思い出した可能性があります。その一つは旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章の御言葉です。1節から3節をお読みします。こういう言葉です。

「:1 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。2 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。3 彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。」

この人は、いったい誰なのだろうか、騒ぎを遠巻きにして眺めながら、人々は、こう思い、もしかすると旧約聖書の預言者たちの再来ではなかろうか、あるいは来るべきメシヤなのだろうかと心騒がせたのではないでしょうか。

 17節には弟子たちの心の思いが記されます。「17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

これは旧約聖書詩編69節10節の御言葉です。これはダビデの詩とされています。神様が神殿を愛し、これを心にかけておられる。その思いをダビデも同様に抱いて実際の行動に移すので、人々から不審に思われ、ダビデ自身が食い尽くされる、人々から迫害され、あざけりを受けるという詩であります。

 18節に、このような主イエス様の行動を見て、ついに姿を現したエルサレム神殿の権威あるものたちの言葉が記されています。祭司であったのか、律法学者であったのか、とにかくエルサレム神殿において責任を持つユダヤ人の言葉です。彼らは主イエス様に言いました。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」

もし、「あなたが本当の預言者、メシアであるならば、あなたの行動を認めよう」とも取れる言葉です。彼らもまた旧約聖書のメシア、あるいはメシアを証しする来たるべき預言者についての旧約の御言葉を思い出していたのに違いありません。

ここで彼らが求めるしるしとは、どんなひとにも分かるメシヤのしるしです。癒しや悪霊追い出しや、自然現象を意のままにするというような奇蹟的な業を求めています。あなたは神の権威をもつ預言者なのか、あるいはメシヤなのか、それならば、さあ、いましるしを見せなさいと主イエス様に迫ってきたのです。

 それに対して、主イエス様はすぐには応じられません。そして主イエス様は、あくまで「しるしを見せよ」と迫る人々に驚くべきことを言われます。それが19節の後半のも言葉です。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

文語訳聖書は、こう訳します。「汝ら、この宮をこぼて。我、三日の内にこれを起さん」。「こぼて」とは。こぼつ。すなわち壊す、破るという動詞の命令形です。破壊せよという意味です。元のギリシャ語もそのとおりの言葉です。主イエス様は、この神殿はもういらない、破壊せよと命じられたのです。

4,

 主イエス様が、神殿の境内で商売をしている人々を非難し、彼らを追い出された宮清めの業は、実は、単なる宮清めではなかったのです。追い出された人たちは、神殿の境内ではなく、その外で商売をすればよいのでしょうか。そうすれば神殿の清さは守られてゆくのでしょうか。わたしたちは、主イエス様が、両替人の金を撒き散らされたこと、その台を倒してしまわれたこと、また羊や牛たちを全て逃がしてしまわれたことに注目しなければなりません。

 主イエス様は、商売人が神殿の境内にいるのか、外にいるのかということを問題にしているのではなくて、そのようなものを必要とする神礼拝のあり方、根本的な構造を問うておられます。それは今日の私たちの教会のあり方に対する大切な問いかけです。

 第一に、神殿が壊されねばならないというのはどういう意味でしょうか。それはわたしたちの宗教心、信仰のあり方と関係しています。見るからに豪華な宮があり、あるいは素晴らしい大伽藍をもつ教会堂がある、献金の額がいくらで、何人もの牧師がいるということは、本当のところ、それ自身が、わたしたちの救いを確かにするものではありません。教会の本質は、建物の大きさとか、集まっている人数とか、財政の力ではない。それらがわたしたちを救うのではありません。そうではなくて、わたしたちの信仰が問われます。わたしたちの献身が、わたしたちの罪の悔い改め、わたしたちの愛が、問われているのです。わたしたちを救うのは、建物や教会の働きが立派であることではなく、あらゆる良いものの源である主イエス様の福音です。もっと言うならば、主イエス様ご自身がわたしたちを救うのです。

本来の教会のあり方に関する第二のことは、主イエス様が「壊された神殿をわたしは三日で建てよう」と言われたことに表わされています。

ユダヤ人たちは、この神殿はたてるのに46年かかったと反論しました。昔のユダ王国の滅亡の時にエルサレム神殿は完全に破壊されましたけれども、そのあとエズラとネヘミヤによって第二神殿が再建されました。この第二神殿もローマ帝国によって紀元前37年に一部が破壊されます。そして46年かけて完成したと言われます。ですから、この宮を建てるのに46年もかかったと言うのは、正確な数字です。このような長い年月を経て建てられている神殿を壊せ、そして、わたしはたった三日でそれを建てるとは何と愚かなことを言うのかと反論したのです。

 しかし、ここで主イエス様が新しくお建てになる神殿は、全く違う神殿、神の宮です。「三日で」と言う言葉は、主イエス様の復活のことだったと、あとになって弟子たちは悟り、この時のやり取りを思い出したと書かれています。

19節20節で、主イエス様が用いておられる神殿と言う言葉は、14節の神殿の境内というところの神殿と言う言葉と違っています。ここは、むしろ聖所と訳せる言葉です。神殿の中の神様の臨在の場所を示します。ヘブライ人の手紙9章11節以下には、この聖所と言う言葉が主イエス様の十字架と復活と関係づけて語られています。お読みします。

「11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 ここで示されるのは、人の手によって作る神殿とそこでなされる動物犠牲の完全な廃止です。主イエス様ご自身が、完全な子羊となり、その血をもってただ一度聖所に入られた。これこそ十字架によるわたしたちの罪の赦しです。

主イエス様が、その十字架と復活によって、本当の聖所、わたしたちと神様とが出会う場所を作って下さいました。主イエス様はおよみがえりになり、今も生きておられます。主イエスさまが、わたしたちの信仰の対象となって下さることが、わたしたちの礼拝の中心的なことがらです。

 主イエス様の宮清めは、はるか昔のエルサレム神殿だけのことではないと思います。わたしたちの信仰あり方が、絶えず問われています。わたしたちが求めるべき本当の神の宮、教会、わたしたちが目指し、建て上げるべきものは何なのかが問われていると思います。それは主イエス様の体としての教会です。まさに今ここに、生きておられる主イエス様ご自身がおられる、そのような教会を建て上げて行こうではありませんか。祈りをささげます。

祈り

主イエス・キリストの父なる神様、御名を崇めます。主イエス様の宮清めの御言葉をありがとうございます。わたしたちの心を清めて下さい。あなたの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命の福音を受け入れ、まことの神礼拝に生きる民が、主イエス・キリストの教会として、この地に建てられてゆきますようお願いたします。世の終わりまであなた様のご命令に従い、世にあって福音に生きる教会となりますよう、また世に対して、この福音を伝え続ける教会となりますよう導いて下さい。主の御名によって祈りますアーメン。