2022年06月05日「聖霊の降臨」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

使徒言行録 2章1節~24節

メッセージ

2022年6月5日(日)熊本伝道所朝拝説教

使徒言行録 2章1~24節「聖霊の降臨」

1、

お集まりの方々の上に主イエス・キリストの恵みがありますように。主の名によって祈ります。アーメン。

ただいまお読みした聖書の2章1節のはじめに「五旬祭の日が来て」とありますが、この五旬祭と訳されているギリシャ語がペンテコステであります。50日目という意味です。この日は、古くからユダヤ教の五旬祭、別名収穫祭の祭りが行われていました。どうして50日目という名前なのかといいますと、ユダヤ教の最大の祭りである「過ぎ越しの祭り」から数えて50日目に当たるということから、そう呼ばれています。一方、キリスト教会ではこの日をペンテコステ、五十日目と呼びますけれども、収穫の祭ではなく聖霊降臨日、聖霊が降り臨んだ日として記念しています。

教会は、このペンテコステの日をクリスマスやイースターと並ぶ大切な日として残し、祝い続けています。その理由は明確です。キリスト教会の誕生日であるからです。そして、そのことと聖霊の降臨、教会に聖霊が与えられたということとは、深くつながっていることを覚えるためであります。

2、

2章1節に「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」とあります。そこからペンテコステの日に起こったことが語られてゆきます。この日の出来事が順に書き連ねられてゆきまして、41節で、終わっております。

41節

「41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」

ここまでが、この日一日の出来事であります。

「一同が一つになって集まっていると」という言葉から始まって、「人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」この言葉で、この日一日に起きたことが終わっております。

 聖霊は、ペトロだけでなく使徒たち、弟子たち一同の上に降りました。聖霊を受ける恵みは決して特定の人、特別の人に限定されていません。誰にでも、聖霊なる神様は自由に恵みを下さいます。ペトロが、一同を代表してメッセージを語りました。そして300人ほどが洗礼を受けて、この日に仲間に加えられました。

ここで私たちが気がつくことは、ここでなされていることが、始めから終わりまで弟子たちの働きであり、言い代えるなら教会が中心となっていることです。そしてそれは聖霊の働きによるものでした。つまり聖霊が教会を生み出し、その教会が伝道し始めたということです。そして教会は常に聖霊に導かれてゆきます。

 ここでペトロが語った説教は重要なものであります。いわば、教会創立時の記念伝道説教だからです。私たちがいつも立ち返るべき原点、そのメッセージが、ここにあるのです。わたしたちもまた、このことを自分のこととして聞き、また世に対しても語り続けます。

 ペトロの説教をもう一度、聞きましょう。

聖霊を受けた教会が宣べ伝えるメッセージは、二つのことです。第一は「イエス・キリストこそ旧約聖書の預言した救い主である」ということ、「イエスは救い主である、メシアである。短い言葉で言うならイエスはキリストであるということです。第二は、「旧約聖書が預言していた十字架による罪の赦しと新しい命が、今、与えられた」ということなのですね。主イエス様の救いの御業です。この二つのことを通して、イエスキリストを信じて救われるという、まことにはっきりした救いの道が開かれたのであります。教会は、聖霊を受けて、このことを証ししました。

2、

実は、このペンテコステの日に先立って、主イエス様の約束あるいは命令がありました。

主イエス様の約束は、二つあります。第一は十字架の前の晩にイエス様が弟子たちに約束なさったことです。天に昇って行かれた主イエス様と入れ替わるようにして「別の助け主、弁護者として聖霊を送る」ということであります。そしてもう一つは、主イエス様が天に上ってゆかれる直前の約束です。「あなた方は地の果てまで私の証人となる」。

初めのほうの「聖霊を送る」ということは間違いなくイエス様だけに責任のある約束ですが、あとのほうは、私たちにかかわることです。「あなたがたは聖霊によって力を受けて私の証人となる」という言葉、これは、いわば約束のような、命令のようなどちらとも取れる言葉です。正確に言うなら預言かもしれませんが、しかしこれは約束であり、同時に命令であるということができるのではないか、そのように思います。

主イエス様は、最後の晩餐の夜にだけではなく、復活の後でも、つまり天に昇ってゆかれる前にも、第一の聖霊を送る 約束について忘れないようにともう一度確認してくださいました。今開いているページの前のページの上の段です。使徒言行録1章4節5節をお読みします。

「1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

この「前にわたしから聞いた約束」というのは、ヨハネによる福音書の14章15節からのイエス様の聖霊を送るという約束です。

今は開きませんが、ヨハネによる福音書14章15節から、延々と16章の終わりまで、途中、ぶどうの木のたとえ話などが入り込んできますが、ずうっと聖霊についてイエス様が教えてくださるのです。

ここでイエス様は聖霊の神は、弁護者、真理の霊であるといわれます。その霊はイエス様が共にいてくださることを表すものであり、信じるもののうちに永遠に住むとも言われています。14章15節から20節をお読みします。

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 世の終わり再臨の時には、イエス様は、もう一度誰にでも見える仕方で世においでになります。それがイエス様の再臨の日です。けれども、信じるものには、今のときでも、この世がまだ見ていないイエス様のお姿が、わたしたちの心の目で見えるようにしてくださる、それが聖霊の神様の働きなのだというのです。なぜなら、イエス様は、死んでいる方ではなく、生きている方、力ある方であるからです。

18節、「あなたがたをみなしごにはしておかない。」何という暖かい恵みに満ちた言葉でしょうか。「天国で」というのではないのです。この世で、たとえ世の人々がそのことを受け入れないとしても、あなた方には、真理の霊を授けてイエス様が今共にいることが分かるようにしてくださるというのです。つまりイエス様を信じるということは、あたかも生きながらにして天国にいるようにしてくださるということであります。

 そのあとの所、少し飛ばしましてヨハネによる福音書14章26節から28節をお読みします。

「14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

 ここでは、イエス様がどれほどの期間になるかは分かりませんが、地上を離れて天に行かれのですが、そうであっても、その間は、この聖霊なる神様がわたしたちと共にいてくださって、イエス様のことを決して忘れないようにしてくださるということが約束されています。いまわたくしは「忘れない」といいましたが、ヨハネ福音書には「思い起こさせてくださる」と書かれています。この「思い起こさせる」という言葉は、単に忘れないとか、思い出すという意味ではないのです。実際に事柄が起きるという意味があります。聖霊によって私たちの心が満たされるときには、そこに主イエス様が実際にいてくださるということなのです。罪の赦しと永遠の命が、わたしたちの罪にもかかわらず、イエスキリストによって与えられる、そのことが繰り返し、繰り返し思い起こされる、活ける救い主との出会いが起こるということです。

「私の平和」、すなわちキリストの平和を与えるとあります。平和を与えるというこの平和は、社会的、あるいは政治的なことではなく、十字架による神との平和であります。たとえ戦争が起きようと捕虜になろうと決して失われない真実の平和であります。

 弟子たちは、このイエス様の約束を信じて、イエス様の言うとおりにエルサレムから一歩も動かずに、いつもの2階座敷にとどまって祈りを続けていました。そして、イエス様の昇天から10日が経ったとき、それはまた過ぎ越しの祭りから50日目の日、ペンテコステの日であったのですけれども、主イエス様と父なる神様から送られた聖霊の神様が信じるものたちの只中においでくださいました。その様子が、使徒言行録2章の箇所であります。

3、

さて聖霊の降臨という出来事は、何の前触れもなく起こりました。そして本来わたしたちが見ることも聞くこともできない存在である聖霊の神様が例外的に見える姿でおいでになったのです。この日の出来事がどれほど特別のことであったかがわかります。2章2節に「突然」という言葉があります。予想外のことが起きたのであります。弟子たちの誰かが、呼び寄せたのでもなく、この日だと預言したのでもなく、それはただ神様の側の約束と恵みによって起こされたのであります。彼らは家の中にいるのですが、その家の外から天地の異変が生じました。激しい風のような音が天から聞こえたと記されています。その音は天から聞こえましたが、同時に、彼らのいた家の中いっぱいに響き渡りました。ここでの音は普通の音ではありません。どよめくような音であります。実はこの音は、シナイ山でイスラエルの民も聞いた音です。神様のお働きがあらわされる、そのときに特有の音です。

 もうひとつの異常現象は、炎のように分かれた舌、舌の形をしたもの、あるいは舌そのものが現われて一人一人の上にとどまったことであります。火や炎というものは神のご臨在のしるしでしたが、舌というのは非常に特殊であります。それは、このときに降った聖霊なる神様の働きが「語る」ということと深く結びついていることを示しているのです。従って、この聖霊降臨のしるしとして舌のようなものが一人一人に分かれて現れたことは、あのイエス様の昇天前の預言、約束、同時に命令である、「あなた方は地の果てまでイエス・キリストの証人になる」という御言葉がいよいよ実現する、そのしるしであると考えられるのです。

 聖霊が私たちのうちに与えられて、神様の愛と慈しみが分かり、主イエス・キリストのはかり知れない恵みがはっきりと分かるとき、わたしたちは、このことを喜び、感謝し、証をするように導かれるのです。

使徒言行録の2章4節をお読みします。

「2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

使徒たち、弟子たちは、キリストの復活の証人であり、復活の主の昇天を見送った人々でした。その彼らが、約束の聖霊が与えられや否や主イエス様の救いについて語りだしたというのです。しかも、わたしたちは、彼らが、霊が語らせるままに、一斉にほかの国々の言葉で語りだしたことに注目しなければなりません。

 この日は、五旬祭というイスラエルの祭りの日であります。国家の分裂と滅亡の結果、広く地中海世界に散らされて住んでいたユダヤ人たちが、巡礼をしてエルサレムにやってきております。また、ユダヤ人以外の異邦人の改宗者もこの都エルサレムへとやってきていました。そのあちらこちらの言葉で、弟子たちは語りだしました。彼らが語った言葉は決して異言のようなわけの分からない言葉ではありません。それは11節にありますように、神の偉大な業の証でありました。

彼らは、自分勝手に自分の言葉を語ったのではなく、霊の導かれるままに語ったということも大切なことではないでしょうか。しかもそれは自分の知らないほかの国の言葉であるということですから、まさしく、神の語られる言葉を除くことも加えることも曲げることもせずに語ったということができます。

使徒ペトロが引用していますが、旧約聖書の預言書にヨエル書という書物があります。そのヨエル書の預言に、終わりの日には神の霊がすべての人に注がれて、彼らは預言を始めるという言葉があります。

 ペトロは、このペンテコステの日にこそ、その預言が実現した、と告げ知らせます。イエス様は、昇天のときに見送る人々の一人一人に対して「あなた方は地の果てまでわたしの証人となる」と御言葉をくださいました。地が果てるとは、別の読み方をすると、「この地上世界が終わるときまで」ともとることができます。つまり、まだ世界の終わりが来ていない以上、今このときもこのイエス様の御言葉は実現され続けているということです。

 聖霊によって教会が生まれ、その働きを続けてゆく、世の終わりまで、主イエス様がもうこれまでという時まで、教会が働き続けることができるのであります。

 教会が、人間的なものに左右されることなく、聖霊によって与えられた恵みに忠実に歩んでゆくことができるように、絶えず祈ろうではありませんか。

6、祈り

 主イエス・キリストの父なる神、あなたの永遠のご計画によって地上に聖霊が降り、わたしたちが救われる道を戴き感謝をいたします。今も働く全世界の教会を、わたしたちの教会を守り導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。