2022年04月17日「主イエスの復活」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 20章19節~23節

メッセージ

2022年4月17日(日)熊本伝道所 イースター礼拝説教

ヨハネによる福音書20章19節~23節「主イエスの復活」

REV.NEZU SHOICHI

1、

 主イエス・キリストのめぐみと平和が豊かにありますように。主の御名によって祈ります。

 今朝わたしたちは主イエス様の復活、お蘇りを記念するイースターの日を迎えています。ヨハネによる福音書20章の復活のみ言葉に聴きたいと思います。

20章の1節は、このように始まっています。「週の初めの日、朝早く」。朝のみ言葉であります19節の最初の言葉は「その日、すなわち週の初めの日の夕方」という、この20章1節とあたかも対をなすような言葉であります。朝早く、と夕方、時間は違いますけれども、「週の初めの日」と言う言葉が繰り返されています。週の初めの日といいますのは、今で言いますと日曜日と言うことになります。

 ユダヤ教の安息日は週の7日目、土曜日です。これが、つまり週の終わりの日です。週の初めの日は日曜日であります。

ユダヤ人たちは、土曜日の安息日ごとにシナゴーグと言うユダヤ教の会堂に集まって礼拝を捧げました。主イエス様も安息日を重んじ、ガリラヤで伝道しているときには安息日の礼拝の説教をされた様子が聖書に記されています。弟子たちもまた、同じように安息日には会堂に集い、またエルサレム滞在中は神殿での礼拝をおこなっていたようです。

 しかし、主イエス様の十字架刑が執行された金曜日、その翌日の土曜日、安息日には、弟子たちは、ほかのユダヤ人たちの前に姿を現すことはなかったのです。できなかったというべきでしょう。

おそらく、エルサレム郊外の彼らがいつも宿をとっていた家に潜んでいたのだと思います。しかし、彼らが恐れと不安に震えていた、まさにその安息日が終わった翌日、日曜日の朝ですけれども、主イエス様は復活のお姿を弟子たち一同の前に現わしてくださったのです。

 今朝のみ言葉に先立って記されているのは、この日曜日の朝、しかも早朝に、主イエス様がマグダラのマリヤに出会ってくださった物語です。

 マリヤは最初、墓がからであることを発見して弟子たちのところに走ってゆき、弟子たちのリーダー格のペトロとヨハネもこれを確認しました。ペトロとヨハネが墓から帰った後、マリヤは墓で泣いていました。そのときに、主イエス様がマリヤの後ろに来てくださったのです。そして、「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と問いかけ、さらに「マリヤ」と、マリヤ自身の名を呼んでくださるという決定的な出会いがそこで起きたのでした。

主イエス様が主イエス様にしがみつこうとするマリヤにお命じになったことがあります。それは、男の弟子たちに、ご自身の復活と、ご自身がこれから天の父なる神のもとにお帰りになるということを伝えるようにということでした。「マリヤはその通りにした」と19節に書かれています。今朝のみ言葉は、まさしくその続きにあたります。

復活の主イエス様が、弟子たちが一堂に会している時に現れてくださった時のありさまは、どういうわけかマタイによる福音書とマルコによる福音書には記されていませんで、ルカによる福音書24章と、ヨハネによる福音書20章、今朝のところにだけ記されています。

からの墓の前で、女性の弟子たちと復活の主イエス様が会ってくださったことはマルコ以外の三つの福音書すべてに記録されていますが、エマオという郊外の村に向かう途上にクレオパともう一人の弟子と復活の主イエス様が会ってくださった次第は、ルカによる福音書だけに記されます。また、この最初の日曜日の次の日曜日に、もう一度でしたが集まっていた時、再び、これは、最初の日にいなかったトマスのためですが、現れてくださったことはヨハネによる福音書だけに記されます。このように復活の主イエス様についてのみ言葉は、福音書全体に散在するように残されておりますが、これはやはり、主イエス様の復活という大事件に関する証言の生々しさを物語っているように思えます。

2,

 「週の初めの日」、つまり安息日の翌日ということが記録されています。旧約聖書の十戒は、安息日を聖とすることを求めます。その安息日は週の終わりの日、7日目です。私たちは、毎週、この十戒を唱えていますが、キリスト教会が聖なる日として大切にしていますのは、土曜日ではなく日曜日、つまり週の初めの日であります。

これは主イエスの復活から私たちの新しい命が始まることを表します。ユダヤ教的な律法と儀式に縛られた安息日ではない、復活の主イエス様にお会いする日、主の日として日曜日を過ごします。この日一日は、他の日とは明確に違う日として、あくまでも主イエス様を中心にしてキリスト教会の安息日として守ります。このことは実に、主イエス様の復活直後からの弟子たちの物語に基礎を置いているのです。

私たちの本当の安息は主イエス様の救いなしにはありえません。主イエス様の日曜日の復活、弟子たちとの出会い、最初の礼拝、これに基づいて、教会は週の初めの日、日曜日を大切にしています。日曜日に復活された主イエス様は弟子たちに何をなさったのでしょうか。

 マグダラのマリヤから主イエス様が蘇られたことを知らされた男の弟子たちは、依然としてユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっていました。「家の戸に鍵をかけていた」とあります。おそらく、内側からカンヌキをかけ、簡単には抜けないように鎖で幾重にも巻いていたことでしょう。

 マタイによる福音書16章で、主イエス様が弟子たちの代表としてペトロに天国の鍵を授ける場面があります。この天国の鍵は、繋ぐことによってふさがれ、解くことによって開くものとされています。つまり、これは鎖を繋ぐ、あるいは解くことによって出入り口が開いたり閉じたりするわけです。弟子たちのこもっている部屋の戸は、かんぬきがかけられ、かんぬきは鎖につながれていて誰も入ることが出来ません。同時に、このままでは誰も出ることが出来ないのであり、つまり彼らは外の世界とは隔絶された自分たちだけの世界にこもっていました。

 ついこの間、金曜日の明け方、自分たちの目の前で、主イエス様は捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて行かれ、ローマ総督ポンテオ・ピラトによって十字架にかけられて死んでしまったのです。そして弟子たちは、この時すぐに逃げ出して自分の身を守りました。自分たちもまたお尋ね者だ、捕らえられるのではないか、彼らはユダヤ人を恐れていました。主イエス様がよみがえられた、姿を現されたということをマリヤから聞いた弟子たちは、もしかすると主イエス様から叱られる、あるいは神の呪いを受けるとさえ思ったかもしれません。

 このヨハネによる福音書の執筆時期は、現在の聖書学では四つの福音書の中では最も遅い、一世紀の後半、それも終わりごろではないかといわれます。キリスト教会は、4世紀にローマ帝国の公認宗教となるまで約300年間、非合法とされていました。初代の教会はエルサレムから東へ東へと伝道を勧めますが、最初期には、ユダヤ教の側からの反対に会い、また信じる人が増えてゆくにつれて次第に迫害は強くなってゆきました。もしかすると、そのような迫害の中でこの福音書が書かれた可能性もあります。さらに教会がヨーロッパ全土に広がって行くにつれてローマ帝国の迫害も強まりました。時代によって迫害の強い弱いがありましたが、大きな迫害にあって地下に潜らざる得ないときもありました。

 彼らが、まさにユダヤ人やローマ帝国の迫害を逃れて、墓場や洞窟で礼拝したり、部屋の戸に鍵をかけて潜んでいたりしたとき、このヨハネによる福音書20章19節を読んだこともあったと思います。ああ、ここに自分たちの姿があると思ったかもしれません。日本の教会もまた、フランシス・コザビエルの宣教以来、迫害と隣り合わせの歴史を持っています。時代は下って、いまや日本は、自由と民主主義の時代ですが、いまだに、日本の教会は弱く小さいままです。

 教会が小さくて、家庭的であるということは良い面もあります。しかし反面、家庭というものが簡単にはメンバーが変わらないように、家庭的な教会は、いつも同じ顔触れで安心だけれども、外部に対しては閉じてしまっているということがあるものです。仲間内で満足する教会。伝道への熱心や意欲が薄くなっている教会というものがあるのです。教会の戸に、鍵はもちろん鍵がかかっていないのですが、教会員の心には鍵がかかっているということもあり得るのです。

 しかし、そのカギの中に閉じこもる弟子たちの前に復活の主イエス様が入ってこられました。鍵がかかり、戸が閉まっているのにどのようにして入ってこられたのでしょうか。聖書は、単純に「そこにイエスが来て」としか書いていません。主イエス様の神様のご性質によってとしか、言うことが出来ません。扉も壁も通り抜ける何か亡霊のような姿を思い浮かべてはならないと思います。そうではなく、それは本当の身体なのです。主イエス様の手には釘の跡があり、脇腹には刺し貫かれた槍の傷跡がありました。それを弟子たちに確かに見せて下さいました。間違いなく私だ、別の人ではない。復活の主イエス様は、わたしたちや弟子たちが実際の目で見て触れることが出来る肉体をおもちになり、同時に、そのみ体は、神のご性質をも持っておられるということです。

初代教会の神学的な指導者であるパウロは、コリントの信徒への手紙1の15章で、わたしたち自身の復活について教えています。その復活の体は地上での体とははっきりと違うと言います。天の体、あるいは霊の体と呼び、朽ちることのない命、死に勝利したからだ、天に属する体とも呼びます。そしてそれは「神秘」、つまりすべてが明らかでない、まだ秘められたところを持つのだと言っています。主イエス様の復活の体もまた神秘に属するものでありましょう。

 主イエス様は、外の世界と弟子たちを隔てていた戸も壁も打ち破り、つながれていた鎖の鍵を全く無力な物としてくださいました。死にさえ勝利する復活の力がここにあります。

そして、弟子たちのいる部屋の真ん中に立ち言われました。「あなたがたに平和があるように」

新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、主イエス様ご自身が語られた言葉は旧約聖書と同じヘブライ語、あるいはアラム語です。平和と訳されてるギリシャ語のエイレーネと言う言葉ですが、これは旧約聖書ではシャロームです。シャロームの意味は、欠けたところない完全、平和、平安、和解、赦し、繁栄、幸福、といった意味があります。恐れを打ち破る恵み、平安、祝福、これらのすべてがあなた方にあるように。主イエス様は弟子たちを祝福して、神の救い、神の恵みがあるようにと言われたのです。

3、

 祝福を受けた弟子たちには、使命が与えられます。主イエス様が父なる神から救いの使命を託されて地上に遣わされたように、弟子たちもまた福音の使命を託されるのです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしはあなた方を遣わす」

ここで遣わすと訳されている最初の遣わすは、アポステロー、使徒というギリシャ語アポストロスの動詞形です。二つ目の遣わすは、ペムポーですが、意味は似ています。何よりも、主イエス様が遣わされた、アポステロ―、そのように、弟子たちも遣わされる、使徒となるのです。彼らは、この鍵のかかった部屋から出て、広く世に送られる、外に遣わされるのです。それは、自分たちの力でこの働きをするのではありません。主イエスは、彼らに息を吹きかけて聖霊を受けよと言われました。この息を吹きかけるという言葉は、旧約聖書創世記2章で神様が人を土のチリでおつくりになり、その鼻に命の息を吹き入れられたときと同じ言葉です。土のチリで作られた人は、そのとき、こうして生きるものとなったと書かれています。

 弟子たちは、再び神の息を吹き入れられ、新しい命を生きるものとなって世に遣わされてゆくのです。

 主イエス様から遣わされたものには、主イエス様の権威が託されます。「誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ赦されないまま残る」

 教会は罪の赦しを宣べ伝え、そして、主イエス様ご自身から託された神の権威をもって罪の赦しの洗礼を授けます。そして、あなたの罪は主イエスの恵みによって赦されたと宣言します。

 人々を縛り付け、自由を奪う罪の鎖を解くこと、それが福音の宣教です。神のシャローム、主イエス様の平和と恵みを告げ知らせることです。私たちの罪の赦しのために、十字架にかかって確かに死んで下さり、確かに蘇られたかた、復活の主が、わたしたちに命の息を吹きかけてくださいました。聖霊をおくること、そしてこれを受けること、これは主イエス様の恵みの御業です。

 使徒言行録の2章のペンテコステのとき、主の霊は弟子たちと教会に降臨しました。しかし、それに先立って、イスカリオテのユダと、ここに来ていなかったトマス以外の10人の弟子には、聖霊が授けらています。このヨハネによる福音書20章22節をヨハネによる福音書のペンテコステと呼ぶことがあります。パウロは、コリント信徒への手紙1、12章で、霊の働き、霊の賜物はいろいろのものがあっても、しかし、同じ一つの霊、聖霊の働きであると言っています。主イエスの様が地上に来られること、つまり御子イエス・キリストの降誕と十字架、復活、そして昇天、再臨は、ただ一回限りの、例えていえば線ではなく点としての出来事ですが、聖霊の降臨はペンテコステから始まって、今も連続的継続的に、また繰り返しなされます。

 人々を恐れて、部屋にも心にも鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの霊的な状態は、どん底、もはや最低の状態でした。しかし、そこに主イエス様が来てくださり、聖霊を受けよと言ってくださいました。そして命の息を一人一人に吹き入れてくださいました。聖霊が枯れてしまったような状態から聖霊充満の状態へと移してくださいました。

聖霊は、いつも主イエス様から、そして天の父なる神から教会に注がれています。様々な賜物を与え、御霊の実を実らせ、神様を知らない閉ざされた心の扉をこじ開けてくださいます。神を信じ、主イエス様を信じる信仰を与え授け、強めて下さるのです。今も主イエス様は、わたしたちに言われます。「聖霊を受けよ」

私たちは、主のいのちの息をいただいて、力強く、広い世界へと心を開いて、歩んで行くことが出来ます。

祈りを致します。

 天の父なる神様、御名を崇めます。イースターの朝、主イエス様は死に打ち勝たれた生きた体をもって、お蘇りになったお姿を弟子たちの前に、わたしたちの代表の前に現わしてくださったことを感謝いたします。

 今日は、午後から墓前礼拝をささげますが、死に打ち勝つ主イエス様が、既に召された者たちと共にいて下さり、また、わたしたちと共にいてくださることを思い起こすことが出来ますよう導いてください。この日から始まる一週の歩みをおゆだねいたします。感謝して主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。