いよいよ、キリストの受難が本格的になっていきます。
今日の場面はさまざまな映画にもなっていますけれども、特にキリストの受難に焦点を当てた映画に、メル・ギブソン監督の『パッション』があります。
この映画はキリストの最後の12時間に焦点を当てているんですね。
十字架の描写が残酷であるという非難もある映画なんですけれども、私には心に残って離れない映画ですね。
力のある映画だといっていいんだと思います。
この映画を見て、いてもたってもいられなくなって、自首してきた殺人犯がいるんだそうです。
また、イスカリオテのユダを演じた俳優は、無神論者だったそうですが、キリスト教徒になったそうです。
イエスを殴る役だったローマ帝国の兵隊役の俳優は、イスラム教徒だったそうですが、キリスト教に改宗したそうです。
ただ、そういう映画ですと、攻撃も受けますね。
イエス役の主演の俳優が1度、助監督が2度、撮影中に雷に打たれたんだそうです。
雷ってそんなしょっちゅう地面まで落ちてくるんですかね。
ただ、雷に打たれた人たちは、後に残るようなダメージはなかったんだそうですね。
雷ってそういうものなんでしょうか……。
主演の俳優は撮影期間中、十字架が自分に向かって倒れてきて肩を脱臼したり、十字架にかけられる前に鞭で打たれるわけですが、本当に鞭で打つとダメージがひどいですから、CGで合成するはずが、2回、本当に鞭で打たれてしまった。
鞭と言っても、短い木の棒の先に、何本も皮の紐が出ていて、その紐にはとがった石やとがった骨やとがった金属が付いているんですね。
まさに凶器です。
一回打つだけで血まみれになります。
不思議に思うんですけど、主演男優をこの鞭で打った人はおかしいと思わなかったんでしょうか。
まあとにかく、神の力と悪魔の力がせめぎあっているような映画であり、今日の場面でもあるということなんですね。
今日の場面、イエスは揺るぎなく立っていて、けれども、人間の側に弱さ、罪深さがある。
その中でせめぎあいがある。
ユダヤ人たちはイエスを十字架に付けることを求めています。
ローマ帝国から派遣された、ユダヤの総督であるピラトは、イエスを釈放したい。
ここで、ピラトはイエスを鞭で打ちました。
鞭で打たれて血まみれになったイエスを皆の前に引き出して、もうこれくらいにしておこう、ということで釈放しようとピラトは考えたんですね。
そして、これもおそらくピラトの命令なのでしょうが、兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせました。
冠はもちろん、王冠ということですね。
そして、紫の服というのは、王様でなければ着られないくらい、とても高価なものでした。
紫色というのは、海にいる貝を粉々に砕いて、そこから色を取り出すのですが、一つの貝からほんの少ししか色を取り出せないそうです。
500グラムの羊の毛を紫色に染めるのに、いくらくらいかかると思いますか。
1,000万円くらいかかったんだそうです。
ということは、この紫の服というのは、ピラト自身のものでしょう。
他の人はそんな高価なものを持つことはできないと思います。
ピラトは、自分の高価な服を、血まみれのイエスに着せたんです。
ピラトは、イエスを釈放するために犠牲を払っているんですね。
ただ、イエスに被せられた茨で編んだ冠というのは楽なものではなかったと思います。
日本の茨のとげはせいぜい5ミリですけれども、この地方の茨のとげは釘のような感じなんですね。
それを頭にかぶせられる、そして、お前みたいなのが王であるわけはないだろう、と平手打ちされる。
兵士たちは何も知らないでふざけている。
でも、ピラトは真剣ですね。
ピラトはイエスを人々の前に連れ出しました。
そして、言うんですね。
「見よ、この男だ」。
原文では「男」ではなく「人間」と書かれています。
一般にこのピラトのセリフは「この人を見よ」と訳されることが多いのですが、そちらの方が正しい翻訳になっています。
「この人を見よ」。
そう呼び掛ける。
こんな男が王であるはずはないだろう。
こんな男が死刑に当たるような重大な政治犯であるはずはない。
しかし、人々は聞き入れてくれません。
「十字架につけろ」と叫ぶんですね。
そこで、ピラトは、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言いました。
十字架というのはローマ帝国の死刑の方法ですね。
ユダヤでは石打ちの刑です。
あなたたちが十字架に付けろというのはおかしな話ですが、もう勝手にしろということです。
ピラトとしては、罪を見いだせないのだから、自分の手は汚したくありません。
それに対してユダヤ人たちは答えました。
「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。
「律法」と書かれていますが、原文では単に「法律」という言葉です。
ただ、神の子と自称したら死刑だ、というのは宗教問題ですね。
ローマ帝国は宗教問題には立ち入りません。
それぞれの民族の自由に任せます。
だったらなおさら、勝手にしろという話です。
しかしここで不思議なことに、ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れたというんですね。
ピラトは、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに聞きました。
「お前はどこから来たのか」。
これはつまり、ピラトは、ユダヤ人が言った「神の子」という言葉を真に受けているということです。
「お前は本当に神の子なのか」と聞いているんですね。
実は、ローマには、神が人間の姿で現れて人間を裁くという民間信仰がありました。
そのような話を本気で受け止めない人もいましたが、真面目に受け止める人もいて、ピラトは、真面目に受け止める人だったんですね。
その上、目の前にいるイエスという人が、どれだけ脅されても鞭打たれてもひるまないので、もしかしてこの人は、と思ったということでしょう。
それにしても、「お前はどこから来たのか」、この質問は決定的に重大な質問です。
しかし、イエスは答えようとされなかったんですね。
それは、この前の場面、18章33節で、ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と聞いた時と同じ理由によることでしょう。
18章34節で、イエスはピラトにこう答えました。
「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。
イエスとは何者か。
私たちはそれを、自分で答えなくてはならないんです。
自分で考えて、自分で、どう判断するか。
あなたはイエスを何者だと言うのか。
私たちが問うのではないんです。
私たちが問われていることなんですね。
しかし、ピラトはそれに気づきません。
怒っているのか、焦っているのか、こう言います。
「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
イエスは答えられました。
「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
ピラトにはユダヤの総督としての大きな権限が与えられています。
しかしそれは、ローマの皇帝から与えられた権限です。
皇帝は神ではありません。
ここでイエスはご自分が何者なのかを言ったことになりますが、イエスは神の子ですから、神からの権限でない限りは何の権限もないんですね。
にもかかわらず、ピラトは、イエスを釈放するか十字架に付けるかを決めなくてはなりません。
いずれにしてもそれは、神を神として扱わないことであり、罪になります。
そして、そうだとすると、イエスをピラトに引き渡した罪は、当然、ピラトよりももっと重いことになります。
イエスはそう言っているんですね。
ピラトはここで、イエスの言葉を真面目に受け止めたということでしょう。
ピラトは、イエスを釈放しようと努めました。
しかし、イエスは神の子です。
十字架に付けることも、釈放することも、人間の権限ですることです。
ここでピラトは、あなたは神の子です、あなたはわたしの王です、と言うのが正解だったんです。
けれども、人間同士の力関係に縛られて、ピラトは自由になることができません。
ユダヤ人たちは叫びます。
「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
仕方なく、ピラトは裁判を始めます。
「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と書かれています。
それはまさに、過越の小羊が屠られる時刻です。
エジプトで奴隷だったイスラエルの人々が、小羊の血を自分の家の扉の周りに塗った。
小羊の血が塗ってある家には、神の怒りが過ぎ越した。
小羊の血が塗られていないエジプト人の家には、神の怒りが入っていった。
それによって、奴隷にされていたイスラエルの人々が出ていくことをエジプトのファラオが認めた。
そのことを記念して、この日この時、小羊を屠るんですね。
まさにその時、神の小羊であるイエス・キリストが屠られるための裁判が始まったんです。
ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。
これが王であるはずはないだろうということを今一度言うわけです。
もしここで、ユダヤ人たちが、「そいつは王ではない」と言ってくれたら、釈放できたかもしれません。
しかし、彼らは叫びました。
「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」
ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。
これが決定的な言葉になりました。
もしここでそれでもなおピラトがイエスを釈放しようとしたとしたら、ピラトは皇帝の支配を否定して、イエスが王だと認めたことになってしまいます。
そこで、ピラトは、イエスを十字架につける判決を下しました。
ただ、祭司長たちの言った、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という言葉はどうでしょうか。
旧約聖書には繰り返し、神が自分たちの王だ、と出てきます。
だからこそ、異邦人が自分たちを支配することに激しく抵抗してきたのです。
それなのに、神を礼拝する場所である神殿でトップに立っている人が、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言うんですね。
これは、神を否定し、自分も否定したということになります。
裁判はあっけなく終わりました。
ピラトは紫の服を与えて、イエスを鞭打ってまで釈放しようとしましたが、無駄に終わりました。
もっと言いますと、十字架に付ける者には他の刑罰は与えてはならないというルールがありましたから、ピラトがイエスを鞭で打ったことは罪になります。
このピラトという人は、なんとか自分の力で頑張ろうとして、結局、罪を犯しただけだったんです。
人間の弱さと罪がこの場面にあふれています。
しかしそれは、私たち自身の姿でもあります。
私たちも、神を否定し、神でないものに従ってしまうことがあります。
私たちも、間違っていると知りつつ、止められないことがあります。
私たちも、努力しても無駄に終わった、むしろ、何もしない方が良かったということがあります。
その中でも、イエスが、ご自分が何者であるのかを示してくださっているはずなのに、この世の人間関係、力関係に縛られて、それどころでなくなってしまうことがあります。
そのような、人間の罪や弱さを、イエスはすべて背負ってくださっています。
だからこそ、十字架と復活のイエスを仰ぐ者に、救いの道が開かれるのです。
「この人を見よ」という言葉を心に留めたいと思います。
「見よ、あなたたちの王だ」という言葉を心に留めたいと思います。
それは、ピラトが、苦し紛れに言った言葉ですが、私たちはこの言葉を、真正面から受け止めたいと思います。
ニーチェというドイツの哲学者は、この言葉、『この人を見よ』というタイトルで自伝を書きました。
自伝を書いたんです。
自分はただの人間ではない、自分は超人だ、人を超える人だ、この私を見ろ、という本です。
しかし、今日の場面を見ればよく分かります。
人は、たとえその場で一番の権力を持っていたとしても、超人にはなれません。
ニーチェ自身、その本を書き終えたすぐ後、精神病院に入院して、そこから出ることなく、生涯を終えました。
人を超える人だと言えるのはイエスだけです。
そのイエスを、私たちの王として、見上げたいと思います。
そこに救いがあり、そこにしか救いはありません。
その私たちに、語りかけられています。
「この人を見よ」。
「見よ、あなたたちの王だ」。
イエスこそ、私たちを守り、救う王です。