2025年06月23日「その人は犯罪人の一人に数えられた」

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その人は犯罪人の一人に数えられた

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章35節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

35それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、36イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。37言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」38そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章35節~38節

原稿のアイコンメッセージ

最近、パソコンの調子が悪くなりまして、そのあとずっと、ダビデさんが修理してくれた、以前使っていたパソコンを使っています。
使いだしてすぐに気づいたことには、キーの位置が今までのパソコンと少し違うので、しょっちゅう間違ったキーを押してしまうんですね。
要するに、今までのパソコンのキーの配置が私の体にしみこんでしまっているんですね。
それで、しょっちゅう打ち間違いをしてしまうんですね。
そこでふっと考えるのですが、パソコン対応の自分になっているのはいいとして、それと同じくらい、自分はイエス様に対応しているだろうか。
そんなことを考えました。
キーボードを見ないでパソコンの入力ができることをブラインドタッチと言いますけれども、それくらいイエス様に対応できるようになるのにはどれくらいの時間がかかるのかなあと思ったりしています。
そう考えますと、イエス様の弟子たちはどうだったんでしょうか。
どれくらいイエス様に一致していたんでしょうか。
今日の話も、弟子たちとイエス様の話です。
ただ、この話を皆さんはどのようにお聞きになられますでしょうか。
イエス様が、つるぎを持っていきなさいと言っています。
つるぎが必要なのでしょうか。
イエス様は今まで、つるぎで何かをなしとげたことはありません。
けれども今、確かに、イエス様は弟子たちに対して、つるぎを取りなさいと言っているんですね。
これから、確かに大変なことが起こってきます。
もうこのページの下の段で、イエス様は裏切られて、そして、逮捕されてしまいます。
そして、最後には十字架につけられることになります。
大変なことです。
大変なことがこれから起こります。
しかし、どうしてつるぎが必要なのでしょうか。
今日、弟子たちはイエス様に対して、つるぎが二振りありますと答えていますけれども、そのつるぎは結局役に立ったでしょうか。
役に立たなかったんです。
聖書のこのページの下の段で、ユダがイエス様を裏切ります。
ユダが大勢の人をイエス様のところに案内してきたんですね。
その大勢の人はみんな、イエス様の敵です。
この人たちは人々の指導者であったわけですが、人々がみんなイエス様の方に行ってしまって、自分たちのところに来なくなったので、何とかしてイエス様をやっつけてやりたいと思っていた人たちです。
この時、弟子の一人がつるぎを振り下ろして、大祭司の手下の右の耳を切り落としました。
ヨハネによる福音書を読みますと、この時つるぎを振り下ろしたのはペトロだったと書かれています。
自分こそが一番弟子だと考えていた、ペトロですね。
この人は、つるぎを振るったんです。
しかし、そこでイエス様はどうなさったか。
「やめなさい。もうそれでよい」と言って、「その耳に触れていやされた」んですね。
つるぎは役に立ったとは言えないんですね。
それより何より、つるぎを持っていきなさいと言ったイエス様が、「やめなさい。もうそれでよい」と言っているんです。
何がいいんでしょうか。
弟子たちがつるぎを二振り見せた時にも、「それでよい」とイエス様は言いました。
何がいいんでしょうか。
つるぎは役に立たないんです。
というより、イエス様の仕事を増やしただけです。
ペトロがつるぎを振り下ろしたから、イエス様は切り落とされた耳をいやさなければならなくなった。
余計な仕事が増えただけです。
そもそも、イエス様はご自分が逮捕されて十字架につけられることになることを、もうずいぶん前から分かっておられて、受け入れておられました。
それなのにどうしてつるぎを弟子たちに持たせようとなさったのでしょうか。
いえ、そもそも、と言うなら、弟子たちは12人いたんです。
どうしてつるぎが二振りだけでいいんですか。
持って行かせるなら、一人一本持って行ったほうがいいんじゃないでしょうか。
それなのにイエス様は、「それでよい」と言われたんですね。
いえ、もっと言うなら、今日イエス様が言っておられますけれども、これはこの福音書の9章の最初のところと10章の最初のところの出来事ですが、財布も袋もはき物も持たなかったとしても、何も不足することはないんですね。
何にも持たなくたって、手ぶらで出かけて行っても、不足することはないんです。
イエス様に従って、イエス様が言われたとおりにするなら、何も足りないものはないんです。
必要なものは、その時その時与えられるんです。
神様が与えてくださるんです。
イエス様はそのことを約束してくださって、送り出してくださるんですね。
そして今、イエス様はわざわざその時のことを思い起こさせているじゃないですか。
それなのに、つるぎを取りなさいと言うんですね。
ここのところのイエス様の言葉はちょっと分かりにくい翻訳になっていますが、ここでイエス様が言っていることは、財布を取りなさい、袋も持ちなさい、財布も袋も持っていない者は服を売りなさい、そうして、とにかくつるぎを買いなさい、ということなんですね。
つるぎを持たなくてはならないと確かに言っておられるんですね。
どうしてイエス様がこんなことを言うんでしょうか。
これは、弟子たちが今どういう気持ちでいるのか、ということがヒントになるのではないかと思います。
今日の場面の直前の場面で、ペトロは弟子としての覚悟を示していました。
ペトロは大変な覚悟をしていましたね。
私はどこまでもイエス様に従います。
牢屋に入れられても死んでもかまいません。
そういう覚悟を宣言していました。
その覚悟がどうなったのかと言いますと、イエス様が逮捕された後、ペトロはイエス様の裁判が行われている場所に行くんですけれども、その場所で、周りにいた人たちから、あなたはイエスの弟子じゃないかと言われて、いや私はあんな人のことは知らないと答えてしまうんですね。
ただ、大事なことは、イエス様は最初から覚悟なんていうものを求めておられないんですね。
私たちは、どんなことをするのでも覚悟をもって取り組むことが大事だと考えることがありますし、覚悟して決心して生きている人を見ると立派な人だなあと思ってしまいますけれども、イエス様はそんなことを思ってはおられないんです。
もしイエス様が、覚悟が大事だと思うんだったら、ペトロが覚悟を示したときに、いやいや、あなたの覚悟はまだまだ足りないよ、とか言うんじゃないですか。
イエス様はそんなことは言わないんです。
代わりに何と言ったのかというと、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」と言ったんですね。
大事なのはここですね。
イエス様が祈ってくださっている。
弟子のために祈ってくださっている。
弟子たちは、私たちは、イエス様の祈りに守られている。
イエス様の祈りに支えられている。
だから弟子たちは倒れることがない。
覚悟を見せるのが弟子じゃないんです。
イエス様に祈られるのが弟子なんです。
イエス様の祈りに支えられているのがイエス様の弟子なんです。
それなのにペトロは覚悟を示したんですね。
覚悟というのは、自分の意志で、自分の力で頑張りとおしますということです。
そうじゃないんです。
イエス様が祈って支えてくださっているんです。
それなのに、自分の意志で、自分の力でというなら、これはもう、イエス様の祈りをふみにじっていることになります。
それはもう、イエス様とまったく関係のない道を行くことなんですね。
だからイエス様は言うんです。
つるぎを取りなさい。
あなたがたは、私とは別の道を行こうとしている。
私と別の道を行くなら、つるぎが必要になるだろう。
つるぎを抜いて、人の命を奪おうとするようになっていくだろう。
だから、つるぎを取りなさい。
今のあなたがたにはつるぎがふさわしいのだ。
イエス様はそういうおつもりなんですね。
それは、決してイエス様が望んでおられたことではありません。
今のあなたがたにはそれがふさわしい。
そうお考えになられて、だったらつるぎを取りなさい、ということなんですね。
ただ、それはイエス様の弟子としてふさわしいことではありませんから、つるぎは二振りで十分だ、ということなんですね。
要するに、イエス様は弟子たちのことをよくわかっておられるのに、弟子たちはイエス様のことを何にもわかっていないんですね。
弟子たちはイエス様の祈りを無視して、イエス様と無関係の道を行こうとしている。
イエス様に従うなら、何も不足はないのに、必要なものはその時その時必ず与えられて、守られて、支えられるのに、そのことを体験していたはずの弟子たちが、自分の意志で、自分の力で、イエス様と別の道を進んでいこうとしている。
けれども、そのような弟子たちをイエス様はそれでも見捨てないで、受け入れておられる。
胸がつまります。
今日の37節で、イエス様はこんな弟子たちに対して、ご自分のことを話しておられます。
「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。
そうです。
これからイエス様は逮捕されて、十字架につけられます。
犯罪人として死刑にされます。
ここで、そういうふうに書かれている、と言われていますけれども、これは、聖書に書かれている、ということです。
このことが書かれているのは旧約聖書のイザヤ書です。
イザヤ書は、イエス様の時代よりも700年も前に書かれました。
700年も前から、神様がつかわしてくださる救い主はこういう方なんだよ、ということが言われていたんですね。
旧約聖書のイザヤ書53章の最後、1150ページの下の段に今日イエス様が言った言葉があります。
イザヤ書53章の12節の真ん中あたりに、今日イエス様が言った言葉があります。
「彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ」。
今日のイエス様の言葉と翻訳が少し違っていますが、イエス様はこのイザヤ書53章の言葉がご自分のことであると言ったんですね。
この言葉を、今日の弟子たちとの話の流れの中で聞きますと、イエス様を犯罪人として捕まえに来る人がいるから、それに備えてつるぎを取りなさい、と言っているように聞こえます。
弟子たちはそういうふうに聞いたことでしょう。
だからペトロは、イエス様が逮捕されそうになると、つるぎを振り回したんです。
けれども、イエス様はそういうことが言いたかったわけではありません。
イエス様は弟子たちに合わせて、イザヤ書53章から、こういう言葉を語っておられますけれども、イザヤ書53章に書かれているのはそんなことではないんですね。
今お読みした53章12節の、その後のところを読みますと、こういうことが書かれています。
「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。
つるぎを振るうなんてことじゃないんです。
自分を投げうって、神に背く人々の過ちを背負って、神に背く人々を神様にとりなしてくださる。
イエス様が本当に弟子たちに気付いてほしかったのはこのことなんですね。
53章の3節、4節にはこういう言葉があります。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み」。
そのようにして、ご自分で引き受けてくださる方なんですね。
私たちを引き受けてくださる方なんです。
それがイエス様のくださる救いなんです。
こういう方だからこそ、覚悟を決めて、イエス様と無関係の道に行こうとしている弟子たちのことをも祈ってくださり、守ってくださるんですね。
つるぎを振り回して暴れるような弟子のために、祈ってくださるんですね。
弟子のことを、私たちのことを、背負ってくださる方だから。
だから私たちは信じていいんですね。
イエス様は今も、私たちのために祈ってくださっています。
だから私たちには、財布も袋もはき物も、何も持たなくても、不足することはありません。
覚悟もつるぎも、必要ありません。
むしろ私たちが、これは必要だろう大事だろうと思っていたものに頼らなくなる時、イエス様は私たちを大いに恵みで満たしてくださる。
と言いますか、その時に、イエス様が私たちを恵みで満たしてくださっていることに気付く。
そしてその時、大事だと思っていたものが、必要のないものであったことに気付く。
それがイエス様の道ですね。
私たちは今、その道に立っています。
スティーブ・ジョブズは、膵臓癌にかかって、56歳で多額の財産を持って亡くなりました。
彼の最期の言葉は次のとおりです。
「私はビジネスの成功の頂点に達しました。
他の人々から見れば、私の人生は成功の象徴です。
しかし私は、仕事以外ではほとんど喜びを感じていません。
仕事がもたらす富にも、私は慣れてしまいました。
私は今、病気のベッドに横たわりながら人生を振り返ると、自慢していた称賛や富は、死が目前に迫ってくると取るに足らなくなり、意味を失っていることに気付きます。
他人に運転を任せることも、お金を稼がせることもできますが、誰かに病気を代わりに抱えてもらうことはできません」。
死が目前に迫ってくると、財産を失います。
物質的なものは本当のところ、私たちを確かにしてくれるものではありません。
お金持ちほど、着飾ったりはしないものなのだそうですね。
お金持ちは知っているんです。
10万円の財布も1,000円の財布も、中に入っているお金を増やすことはありません。
100万円の時計も1万円の時計も、同じ時間を示します。
1000万円の車を運転しようと100万円の車を運転しようと、道や距離は同じであり、同じ目的地に到着します。
大きな家に住んでいようと、小さな家に住んでいようと、一人でいるなら孤独は同じです。
ファーストクラスで飛んでもエコノミークラスで飛んでも、飛行機が墜落すれば同じです。
聖書には、信仰に関する箇所が500カ所あり、財産に関する箇所が2,000カ所もあると言われています。
私たちはそれだけ、財産というものに心を配っているからでしょう。
だから、聖書は、財産のことで頭をいっぱいにするなと口を酸っぱくして言うんですね。
まして、イエス様は、弟子たちには、何も不足させなかったんです。
弟子たちはこの時、弟子としての道を外れて、遠回りすることになりました。
けれども、イエスは、そのような弟子たちを、元の道に連れ戻してくださいました。
覚悟を決めて、でもその道で失敗して、絶望して、そこにもう一度イエス様が来てくださって、元の道に戻されたんですね。
弟子たちはつらい思いをするためだけに、遠回りしたようなものです。
弟子たちの失敗に学ばせていただいて、わたしたちはまっすぐに行きましょう。
イエス様が後ろから支えてくださいます。
支えてくださっています。

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