2025年06月16日「キリストの苦しみにあずかる」

問い合わせ

日本キリスト改革派 北中山教会のホームページへ戻る

キリストの苦しみにあずかる

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章12節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

12愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。14あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。15あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。17今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。18「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。19だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章12節~19節

原稿のアイコンメッセージ

この手紙が書かれた時代には、キリスト者は迫害という大変な試練にあっていました。
信仰を堂々と言い表すことができず、人目を避けて信仰を守らなければなりませんでした。
迫害が最も強かった時代には、キリスト者は生きたまま猛獣に食べられて死刑にされました。
道を照らす街灯のたいまつの代わりに柱に縛り付けられて燃やされたこともあると言います。
今日の聖書の言葉はそのような試練に直面しているキリスト者にあてて書かれたものです。
どういうことが言われているでしょうか。
まず、最初に、試練にあった時、それを何か思いがけないことであるように思ってはならないと言われています。
確かに私たちは、何か試練があると、一体どうして自分がこんな目にあうのかと考えてしまうことがあります。

どんな人でも信じている信仰があります。
無神論者でも信じている信仰です。
それは、公正世界の信念という名で呼ばれています。
これは社会心理学の用語なのですが、人類の歴史と共にある信念だといってよいでしょう。
「公正」というのは公に正しいと書きます。
この世界は公正である。
だから、人間の行いに対しては、公正な結果が返ってくるという考え方、というか思い込みです。
そのような思い込みを、人は生きています。
具体的に言いますと、何か自分に悪いことがあったとして、だとしたら、自分が何か悪いことをしたんだろうか、いや、そんな悪いことをした覚えはない、と考えてしまうようなこと。
多くの人に、そのようなことを考えたことがあるでしょう。
公正世界の信念に立っているからこそ、そのように考えます。
無神論者でも、公正世界の信念は持っています。
そうでないと、納得できないことが出てくるからです。
悪い人に良いことがあり、良い人に悪いことがあるということに、人間は耐えられないからです。

しかし、ここでこの手紙を書いているペトロは、それとは違うことを言います。
試練とは、思いがけないことではありません。
考えてみますと、どんな人でも、試練にあわずに生きている人はいません。
試練がないということがあるなら、その方が不思議なのです。
試練が起こるのは不思議なことではありません。
ただ、ペトロは、そういう一般的なことを言っているのではありません。
ペトロは試練にあったらキリストの苦しみに目を向けるようにと教えているんですね。
試練とは、実はキリストの苦しみにあずかることであると言っているのです。
キリストは苦しみました。
十字架の苦しみがありました。
ムチ打たれて、血を流して、自分がそこにつけられる十字架を背負って歩かされ、十字架につけられて殺されました。
それは、想像もできないほどの苦しみです。
しかし、キリストの苦しみはそれだけではありませんでした。
キリストが十字架につけられたのは、弟子の一人が裏切ったからです。
自分の弟子に裏切られる。
敵にではなく、一緒に生活してきた家族のような弟子に裏切られる。
その苦しみはもしかすると単に十字架につけられる苦しみよりも大きな苦しみだったかもしれません。
他の弟子たちも、キリストが逮捕されると全員キリストを見捨てて逃げ出してしまいましたから、裏切ったのと同じことです。
その時のキリストの気持ちはどうだったでしょうか。

そもそも、弟子たちはキリストのことを理解していませんでした。
キリストが何年間も毎日一緒に生活しながら弟子たちを教え続けたのに、弟子たちはキリストの教えを理解していなかったんです。
誰にも理解されず、家族のように愛した弟子に見捨てられ、裏切られ、殺される。
ペトロは、そのキリストの苦しみに目を向けるようにと教えています。
試練は、意味のないものではないのです。
ペトロは、試練とはキリストの苦しみにあずかることであると言っているのです。
ですから、試練にあったら喜びなさいと言うんです。
そうしていたら、キリストの栄光が現れる時、キリストが再び地上に来られる時、喜びに満ちあふれるようになると言うんです。

キリストが地上に来られる時というのは、世の終わりに神の国が地上に実現する時のことですね。
つまり、キリストの苦しみにあずかる者こそ神の国にふさわしいと言っているんです。
そして、それに続けて、キリストの名のために非難されるなら幸いだとまで言います。
どうしてかと言うと、「神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるから」だと言うのです。
キリストの苦しみにあずかる者は、キリストの似姿です。
キリストの生涯は結局のところすべて苦しみであったとも言えます。
しかし、そのキリストの苦しみにあずかる者こそ、神と共にあるのです。

だからこそ、15節で、悪いことをするなと言われていますね。
苦しみにあうと、自分が悪に傾いてしまうことがあります。
ここに書かれているような、人殺しや泥棒まではしないかもしれませんが、悪者というこの言葉は「魔術師」を指す言葉で、要するに、キリスト者でなくなってしまうということですね。
クリスチャンと言えないんじゃないかということになってしまわないとも限りません。
「他人に干渉する者」ということも書かれていますけれども、これは、「他人」という言葉と「監督」という言葉をミックスした言葉でして、他人のプライベートな事柄に口出しをする人を指す言葉です。
苦しみにあったからと言って、そんなふうになることはあるかなあと思ってしまいますが、苦しみにあって、その結果自分がおかしくなってしまって、おかしなことをしだすようになってしまわないとも限りません。
むしろ、ここのところの人殺し、泥棒、悪者、他人に干渉する者というのは、そういうことを言っているんでしょうね。
苦しみによって自分が壊れてしまって、間違ったことをするようになってしまわないようにとペトロは言うんです。
そういう者として、「苦しみを受けることがないようにしなさい」とペトロは言います。
そういう者は「苦しみを受ける」ことになるんですね。
神の裁きを受けることになるんです。
だからこそ、キリスト者であり続けなさいということなんです。

キリスト者としての苦しみということが16節に言われていますが、キリスト者だからこその苦しみというのは避けられないものです。
神に従わない人は神に従おうとする人のことを理解しませんから、キリスト者として生きていくにあたって、苦しみは必ず起こってきます。
考えてみると私たちは世の人とほとんどの面で同じであると言えるかもしれませんが、一番大事なところが違うのです。
私たちは外から見れば、世の人と違うところはほとんどありません。
仮に私たちの一週間をずっと撮影し続けて、それを、世の人と比較してみたとしたらどうでしょうか。
祈っている時間と教会に来ている時間は明確に世の人と違うということが言えると思います。
しかし、それ以外の時間はいくら目で見ても、違いは分からないのではないでしょうか。
けれども、一番大事なところが違うんです。
神に目を向けているのか、自分に目を向けているのか。
何に目を向けているのかという一番大事なところが決定的に違うんです。

ここでペトロはキリスト者たちを励まします。
「キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。
キリスト者という言葉は、もともとは、キリスト者を見下して、嫌がって悪者扱いして呼んだ言葉です。
キリスト者と呼ばれること自体が苦しみであったのです。
この「キリスト者」という言葉は原文のギリシャ語では「クリスティアノス」という言葉で、キリストに属するもの、という意味になります。
そして、これが英語になると「クリスチャン」という言葉になります。
しかし、これは考えてみると不思議なことですね。
クリスチャンは、見下されて、嫌がられて、悪者扱いされて呼ばれてきたその名前を自ら名乗っているんですね。
これは、クリスチャンが苦しみによって倒れてしまうことがなかったという証拠ではないでしょうか。
クリスチャンは苦しみを受けても壊れてしまうことがなかった。
むしろ、苦しみを乗り越えたところで、自ら、「クリスチャン」と名乗るようになった。

ここからペトロは神の裁きを見つめさせます。
それは、脱落してほしくないからです。
何としてでも踏みとどまってほしいんです。
だからこそ、最後のところで、「善い行いをし続け」なさいと励ますんですね。
これは、何か具体的によいことをするようにということではなく、苦しみによって自分が壊れてしまって、するべきでないことをするようになってしまわないようにということです。

そしてそれは、その次に書かれている、「真実であられる創造主に自分の魂をゆだね」るということなんですね。
踏みとどまって、神に自分をゆだねて、乗り越えさせていただきなさいということなんですね。
苦しみはあります。
しかし、その苦しみも神の御心であると、この19節に書かれています。
どうしてでしょうか。
最初の12節に「火のような試練」という言葉がありました。
この言葉は原文では、「火による試練」という言葉です。
火による試練というのは、金属を精錬するために火にかけることを指しています。
つまり、クリスチャンが神に目を向けているために苦しむこと、それは、クリスチャンを高めるための試練であるということなんです。
神は私たちを高めるために私たちに試練を与えるんです。
キリストの似姿になるように、キリストの苦しみを与えるんです。
だから、ペトロは苦しみの中にある人たちに、最初のところでこう呼びかけていますね。
「愛する人たち」。
この言葉は、「愛されている人たち」という言葉です。
あなたがたは神に愛されている。
だから、乗り越えられるはずなんだ。
そうなりました。
だから、自らクリスチャンと名乗るようになったんです。
それは、この時のこの人たちだけのことではありません。
同じように名乗る私たちの上にも、神の霊はとどまっています。
神は、私たちをも、まったく同じように愛してくださっています。
ですので、同じように申し上げます。
愛する人たち、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

関連する説教を探す関連する説教を探す