イエスは捕らえられました。
そして、アンナスという人のところに連れて行かれました。
大祭司ではありません。
大祭司のしゅうとです。
アンナスの娘の夫がカイアファという大祭司です。
どうして大祭司のところに連れて行かずに、大祭司のしゅうとのところに連れて行くのかと思いますが、このアンナス自身、大祭司だったことがありました。
そして、この人は、自分が大祭司を降りてから、自分の息子たちを次々に大祭司にしたんですね。
そして今は、義理の息子が大祭司になっているわけです。
大変な権力者だったということです。
この頃、神殿の境内は「アンナスの息子たちのバザール」と言われていました。
神殿の境内なのに、バザールなんですね。
市場なんです。
それも、「アンナスの息子たちのバザール」。
そのように言われてしまうのも分からなくもありません。
神殿の境内には、動物を売る人たちがいました。
動物を買って、それを神にささげるんですね。
ところがこの動物、別に神殿の境内で買わなくても、自分で捕まえて持ち込んでもいいし、どこかで買ったものを持ち込んでもいいことになっていました。
ただし、神にささげるものですから、どこからどのようにして持って来ようとも、傷があってはいけないんです。
そして、自分で持ち込んだ動物は、神にささげる前にチェックを受けると、必ず、傷があるからこれでは駄目だ、神殿の境内で買ったものをささげなさい、ということになったそうです。
そして、神殿の境内で買うと、他所で買う場合に比べて、値段が20倍でした。
「アンナスの息子たちのバザール」ということです。
ただ、大祭司はカイアファなんですが、カイアファのバザールではないんですね。
カイアファはアンナスの息子たちの一人に過ぎません。
今日の24節に、「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」と書かれていますけれども、カイアファはアンナスの次なんです。
アンナスは現職の大祭司以上の権力を持っているんです。
ですので、このように、公式な裁判の前に、非公式に取り調べることもできるのです。
ただ、カイアファも重要人物です。
それも、聖書において、重要人物です。
今日の14節に、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」と言われていますが、このことが語られたのは11章45節からのところでした。
イエスのもとに多くの人が集まっていることを警戒した権力者たちが最高法院と呼ばれる国会を召集して議論するのですが、このままでは人々が反乱を起こして、それにつけこんでローマ帝国が攻めてきて、国が滅ぼされてしまう、と心配している議員たちに対して、カイアファが言ったんですね。
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」。
この日から、権力者たちはイエスを殺すことを考えるようになりました。
しかし、そのところを読むと、そのカイアファの言葉は、神がカイアファを用いて神の言葉を語ったことだったとされています。
カイアファ自身はもちろんそんなつもりはありませんが、イエスの死はイエスを救い主と信じる多くの人々のための身代わりの死です。
その意味で、カイアファの言葉は、彼の意図したこととは違うところで正しいんですね。
カイアファは間違えていますが、用いられたんです。
そして、イエスが十字架に向かっていく道のりというのはすべてその点で同じですね。
神は人の罪をも用いるんですね。
人に罪があっても、神は人の思いを捻じ曲げてまで、正しいことをさせようとはなさらない。
人の罪をも用いて、神の業を実現してくださるんですね。
さて、イエスはアンナスに取り調べを受けます。
19節ですが、「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」とあります。
もう大祭司ではないのに、「大祭司」と呼ばれているんですね。
そして、質問したことが、「弟子のことや教えについて」なんですね。
アンナスはイエスを殺すつもりですから、これは単に気になったで聞いてみたということではないでしょうね。
おそらく、「弟子のこと」というのは弟子の数のことでしょう。
もし、弟子の数が予想以上に多いということになれば、イエスを殺したとしても、後から対策を考えなければならないかもしれません。
「教えについて」というのは、もちろん、アンナスがイエスの教えを受けたいわけではないですね。
何かまずいことを言わせて、殺す口実にしようという考えでしょう。
ただ、イエスは、質問には答えませんでした。
「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」。
これは、その通りなんですね。
そもそも、裁判というのは二人以上の証人の証言がなければなりませんでした。
そして、自分自身についての証言は無効だったんですね。
ですから、イエスを罪に定めてやろうというのに、こんなことをしていること自体がおかしいんです。
ただここで、イエスは大祭司に対して諭すように話をしましたから、下役の一人が黙っていられなくなりました。
イエスを平手で打ったんですね。
それでも、イエスは揺るぎませんでした。
「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。
堂々と立っているんですね。
そのようなやり取りが行われていたのがアンナスの屋敷だったわけですが、その中庭にペトロが入りました。
それが15節からのところですね。
今日の箇所では、イエスの場面とペトロの場面がまるで映画のようにくるくる入れ替わります。
イエスの態度とペトロの態度の違いが際立つんですね。
そして、ここには、「もう一人の弟子」が登場しています。
この弟子は、この福音書を書いたヨハネのことではないかと考えられています。
そうなると、ヨハネが大祭司の知り合いだったということになります。
ヨハネはエルサレムから遠く離れたガリラヤの漁師ですから、どうして大祭司の知り合いなのかという話になってしまいますが、ヨハネの父親が大祭司に塩漬けにした魚を納入していて、エルサレムにはヨハネの家が経営していた魚屋の支店があったという言い伝えがあります。
何より、ペトロは自分こそがイエスの一番弟子だと思っていたわけですが、このヨハネによる福音書は、イエスに一番愛されていたのはヨハネだ、と主張するわけですね。
この福音書には「イエスの愛しておられた弟子」という言い方が何度も出てきますけれども、それは、ヨハネのことなんですね。
逆に、ペトロのことは、今日のところでもそうですが、時々は「シモン・ペトロ」と言われるんですね。
「シモン」というのはもともとの名前です。
意味は「小石」です。
「ペトロ」というのはイエスがつけてくださった名前ですね。
意味は「岩」です。
あなたの名前は「小石」だけれども、あなたの信仰は「岩」だ、とイエスに言っていただいたんですね。
これは大変名誉なことですので、他の福音書では、ペトロのことはペトロとしか言われません。
ですけれども、この福音書では、「シモン・ペトロ」という言い方をしばしばするんですね。
あの人はいい名前を付けてもらったけれども、本当は大したことない人だよ、ということです。
ですので、他の福音書では、それが誰のことなのか、名前が出ていない、でもとにかく、弟子がしてしまった失敗の話があるんですが、この福音書では、それはペトロだよ、と名前を出されていたりするんですね。
そういったことを考えましても、今回の場合、この「もう一人の弟子」がいたからこそ、大祭司の中庭には入れたわけですので、この「もう一人の弟子」を持ち上げていることになりますから、やはり、これはヨハネのことではないかと思います。
そして、ヨハネのことを持ち上げていて、ペトロのことを下げているところが、ここにあるんですね。
中庭に入っていこうとするときに、門番の女中がペトロに言いますね。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」。
「あなたも」と言っています。
つまり、「もう一人の弟子」がイエスの弟子であることを、この門番の女中は知っているんですね。
それで、「あなたも」そうじゃないのか、と聞いたんです。
つまり、ここでペトロは、私はイエスの弟子だ、と言ったとしても、中に入ることができたんです。
それなのに、自分から否定してしまったんですね。
イエスが逮捕されると逃げ出してしまったのは事実ですから、「私もイエスの弟子です」とは言いにくかったのかもしれません。
しかし、イエスを否定したことで、ペトロは本当に、イエスの側の人間ではなくなってしまいました。
18節ですが、中庭に入ったペトロは、寒かったので、火にあたりました。
「ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」と書かれています。
「一緒に」なんです。
この言い方は、この前の5節に出てきていました。
「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた」。
細かいことを言いますと、「ユダも彼らと一緒にいた」と言う時の「いた」という言葉は、原文では「立っていた」という言葉です。
ユダとペトロが同じように並べられていることになります。
ユダもペトロもイエスの敵の側に立ったんです。
25節で、もう一度、ペトロは、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と聞かれますが、これも「違う」と打ち消します。
最後に、大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者に言われました。
「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」。
この人自身もイエスが逮捕された場所に来ていたんですね。
けれども、ペトロはこれも否定しました。
「するとすぐ、鶏が鳴いた」。
エルサレムでは、鶏を飼うことが少なくとも公には禁じられていました。
だとすると、この鶏の鳴き声というのは、何だったのかという話になるわけなんですが、ローマの軍隊で、当番が交代する時のラッパだったという説があります。
ローマの軍隊の交代のラッパのことを、「鶏の鳴き声」と言ったんですね。
そして、このラッパは、夜の9時と夜中の12時にも鳴らされましたので、この時が、この夜の三度目の「鶏の鳴き声」になります。
鶏が三度鳴く前に、あなたは三度、私のことを否定するだろう。
イエスの言葉の通りになりました。
それに加えてここで注目したいのは、ペトロが2回言った、「違う」という言葉です。
この「違う」という言葉は、英語で言うと、「I am」という言葉の前に、「No」という言葉があるんですね。
つまり、「I am」を否定しているんです。
「わたしではない」ということなんです。
それに対して、イエスは、18章6節で、「わたしである」と言いました。
この「わたしである」は英語で言うと「I am」なんです。
そして、この言葉は、旧約聖書で、神がご自分の名前として語られた言葉なんですね。
私の名前は「I am」だ、と。
ですから、18章6節でイエスが「I am」と言うと、その場にいた人たちは、後ずさりしてひれ伏したんですね。
それに対して、ペトロは、その「I am」を否定したということなんです。
「わたしではない」ということで、それは、自分とイエスとの関係を否定する言葉ですが、自分とイエスとの関係を否定するということはどういうことか。
神を否定したということにもなります。
他の福音書では、この後、ペトロは外に出て激しく泣いたと記されていますが、この福音書ではそれは記されません。
悔いて涙を流すことができるのなら、そこから立ち直ることもできるかもしれません。
しかし、ここでは「するとすぐ、鶏が鳴いた」で話が終わっています。
ペトロは、自分を否定し、神を否定して、語る価値もない存在になってしまったということなんです。
しかし、ここが大事なところなんですが、この場面で、イエスとペトロがこのように比べられているのは、「わたしではない」と言ってはいけない、「わたしである」と言えるようになりなさい、ということではありません。
この福音書も、他の福音書と同じく、ペトロが「わたしではない」と言ってしまうことをイエスが予告しておられたことを記しています。
そして、予告した時も、後になってから会いに来てくださった時も、イエスはペトロを叱ったりすることはありませんでした。
イエスは、人間が、「わたしではない」と言ってしまう弱さを承知の上で、私たちのところにいらしてくださっていたんです。
むしろ、私たちが、「わたしである」と言えるのなら、イエスは私たちのところにいらっしゃる必要もなかったでしょう。
イエスは、私たちのことをよく知っておられたからこそ、私たちのところにいらしてくださったということなんです。
そして、「わたしではない」と言ってしまう弱さをも背負って十字架にかかり、その後に、復活してくださったんです。
それは、イエスの「わたしである」が私たちの「わたしではない」に勝利してくださったということです。
それによって私たちは、「私はイエスの弟子です」と言えるようにされたのです。
この時、ペトロは失敗しました。
鶏が鳴いて、ペトロは姿を消しました。
そして、イエスが復活するまで、ペトロの姿は描かれなくなります。
しかし、その鶏の鳴き声は、イエスが前もって予告していたことでした。
ですから、この鶏の鳴き声は、そこですべてがお終いになったという合図ではありません。
ペトロはもうこれでお終いだと思っていたことでしょう。
しかし、むしろ、ここからなんです。
ここから、この鳴き声から、「わたしではない」と言ってしまって、人間の力など何にもならないことが明らかになったこのところから、イエスは救いの働きをなさいます。
そして、後になってから会いに来てくださった時には、イエスはペトロにご自分の働きを任せてくださるんですね。
復活したイエスが、失敗して倒れたペトロを復活させてくださるんです。
私たちも、失敗することがあるかもしれません。
しかし、恐れることはありません。
「あなたの驚くべき成功と尊敬される人生の秘訣は、どこにありますか」と質問された時、リンカーン大統領はこう答えたそうです。
「それは、ほかの人たちより失敗を多く経験してきたおかげでしょう。
私は失敗するたびに失敗の中に込められている神様のみこころを学び、それを飛石として活用してきました。
サタンは、私が失敗するたびに『もうお前は終わりだ』とささやきました。
しかし神様は、私が失敗するたびに『今回の失敗を教訓とし、さらに大きなことに挑戦しなさい』と言われました。
私はサタンのささやきより、神様の声に耳を傾けたのです」。
今日の場面でペトロが心に抱いていたであろう思いも、サタンの声だと言っていいのだろうと思います。
しかし、神の声は、「お前はもう終わりだ」とは決して言いません。
むしろそこに、さらに大きな働きを与えてくださるんです。
神の声に聞きましょう。
そのことさえ知っていれば、鶏の鳴き声は、夜明けを告げる声になります。