2025年05月26日「すべての人のために」

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聖句のアイコン聖書の言葉

20また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 17章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

イエスの最後の祈りの、最後の部分です。
この部分は、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のため」の祈りです。
「彼ら」というのは弟子たちのことですね。
弟子たちの話を聞いて、イエスを信じるようになる人々。
イエスの時代の後から信じるようになる人々ということですね。
私たちもそれに含まれます。
私たちも、聖書に示されているキリストを信じたわけですが、新約聖書というのは弟子たちの証言ですね。
私たちも、弟子の言葉によってイエスを信じました。
つまり、イエスはここで、私たちのために祈ってくださっているんですね。

では、イエスは私たちのために何を祈ってくださっているでしょうか。
それが21節ですが、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」ということです。
キリストを信じるすべての人を一つにしてくださいということです。
どのように一つにするのかというと、神がイエスの内におられ、イエスが神の内にいるように、一つにしてくださいということですね。
このような話が前にも出てきましたが、神とイエスは、どちらが内でどちらが外か分からないくらいに一つなんですね。
単につながっているというくらいのことではなくて、もう混ざり合っていて、切り分けることができないくらいになっている。
信じる者たちを、そのように一つにしてください。
相手のことが自分のことで、自分のことが相手のことであるというくらいにしてください。
ただそれは、神やイエスとは別に、信じる者たちだけで一つになるということではなくて、続けて言われていますが、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」ということなんですね。
神とイエスが一つであるところに、私たちも入れられるということなんです。

そういうことですから、「すべての人を一つにしてください」というのは、私たちが、人間の思いにおいて一つになるということではありません。
また、お互いの思いを出し合って、話し合って、一致できるところを見つける、というようなこととは違うんですね。
神とイエスが一つであるところに、私たちも入れていただくことによって、一つになることができるということなんです。

では、神とイエスは何において一つなのか。
次のところに、「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」とありますが、神がイエスを遣わしたのは、人を救うためですね。
人を救うということにおいて、神とイエスは一つです。
その、神とイエスの内に私たちも入れられるということですから、私たちとしては、救われたということにおいて、一つになるわけです。

続く22節では、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言われています。
栄光という言葉が出てきましたが、この栄光を、イエスは信じる者たちに与えたと言われています。
栄光というのは、人を救うという、神だけにできることで、だから、神の栄光だということです。
それを、信じる者たちに与えた。
信じる者たちを救った。
ただ、救いがゴールではないんですね。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言われています。
救われて、一つになることがゴールです。

23節でも、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と言われています。
聖書では、この後、使徒言行録以降、教会が生まれて、教会について記されていきますが、そこでは、教会が一つである、ということが非常に強調されます。
弟子たちは一つになっていた、ですとか、救われる人々が新たに加えられて、一つとされた、ということが語られます。
ただ、聖書は、一つになりなさい、とは言わないんですね。
一致のないところに一致を生み出しなさい、とは言わないんです。
一致を保ちなさい、と言うんです。
人間が作りだした一致ではないからです。
神が与えてくださったものだからです。
目に見える限りでの在り方ではなくて、霊的な一致なんですね。
この世の事柄ではないわけです。

目に見える限りで教会を見ますと、カトリック教会とプロテスタント教会があって、プロテスタントの中でも色々あって、一つにはなっていないわけです。
ただ、イエスがここで言っていることは、組織として一つかどうかということではありません。
霊的に、神とイエスにあって、一つかどうかです。
そしてそれは、この世にあっても確かめることができるんですね。
続きのところに、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」と言われていますね。
21節の後半にも、私たちが一つになるという話を受けて、「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」ということが言われていました。
世が知るようになる、信じるようになる。
私たちが霊的に、神とイエスにあって一つであることは、証できることなんですね。
目に見えることではないんですが、世にあっても、証できる。
この世の人にも分かってもらえる。

これは私は思い出すことがあるんですね。
私は3年前まで東京の教会におりましたが、東部中会(関東地方の教会の寄り合い)の学生会の総会が開かれた時、私もオブザーバーとしてその場所にいたんですね。
その学生たちの会議の進め方ですね。
普段はそれぞれの教会の礼拝に出席していますから、普段は会うことがない人たちですけれども、一つ一つの事柄を、ちゃんと話し合って、配慮しながら決めていくんですね。
形だけではないんです。
心があるんです。
何十人も、普段あっていない人たちが集まっての会議ですと、何となく形だけになってしまっても仕方ありませんが、そうはならない。
また、無理がないんですね。
自分の意見を通そうとしている人がいない。
意見は自由に言うんですが、説得しようとか、理解させようということではなく、議場にはかるという感覚、皆に考えてもらおうという感覚で意見を出すんですね。
そしてそれを、皆で受け止める。
その場には、未信者の学生さんもいたんですが、その方は、会議の最後に紹介されて、発言を求められた時、「今日の会議に出席して、宗教に対する考え方が変わった。近所の教会にこれから通おうと思う」と言ったんですね。
目に見えるものではない、霊的な一致なんですが、それが、世の人に対して証しになるんですね。

片や、現在、『コンクラーベ』という映画が上映されているそうですね。
これは、教皇選挙を映画にしたものだそうで、新しい教皇もこの映画を見たそうですが、権謀術数が渦巻く大変な内容なんだそうですね。
それでは証しにならないんです。
ただ、今回の実際の教皇選挙は、ほんの数回の投票で決着がつきましたし、教皇に選ばれた人の得票数が投票の度に伸びていって、最後には圧倒的に多くの票を得て当選したということですので、映画とは違っていたようです。
これも大したものだなと思いますね。
世界中から人が集まって投票しているのに、わずか数回の投票で、大多数がその人を支持した。
この世の選挙では、同じことはできないだろうと思います。

私たちも、神とイエスと一つとされていることを、証しすることができます。
それは、私たちの力によることではありません。
神がなさってくださることです。
今までの話でもそうですし、24節で、イエスはこう言っています。
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」。
私たちが自力で、救い主のいるところに行かなくてはならないのではないんですね。
神が私たちを、イエスのいるところにおいてくださるんです。
そこで私たちは、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光」を見るんですね。
天地が造られる前から、神はイエスを愛していた。
25節、26節に続きますが、世はそんなことは知りません。
しかし、イエスから御名について、つまり、神について知らされた者たちは知っています。
その結果が、「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」ということですが、神について知ることで、イエスに対する神の愛が、私たちの内にも現れるんですね。
神はイエスを愛して、人を救う栄光を与えてくださったわけですが、それはそのまま、神が私たちを愛しているということですので、神の愛が私たちの内にあることになる。
それだけでなく、イエスも私たちの内にいる。
イエスを愛する神の愛が私たちの内にあるので、私たちの内に、イエスもいることになる。
途方もないことですが、霊的にそうなんだということですね。

そして、イエスは、26節で、「また、これからも知らせます」と言っておられます。
一度知らせて終わりではないんですね。
折りに触れて、知らせてくださる。
神の愛を思い起こさせてくださる。
イエスは、私たちの生きる現実が困難であることを知っておられるんですね。
私たちが、神の愛をいつもいつも生きて行けるほど強くはないことも知っておられるんです。
だから、折々に知らせてくださるんです。
そうしてくださって初めて、私たちは、神とイエスと、愛において一つになることができるのです。

イエスは、長い祈りをこうして締めくくられました。
私たちは、イエスに、これほどまでに祈られているんです。
そもそも、神が人のために祈ったというのは聖書だけだそうです。
人が神に祈るというのは、どこにでもある話です。
神が人のために祈るというのは聖書だけです。
それだけでもう十分に、この世には無いことなんです。
そのような、この世のものならざる愛を私たちはいただいている。
そのことも、折々に思い起こさせていただきたいと思います。

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