2025年05月19日「偽善者の不幸」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 15律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 16ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 19ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。 20祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 21神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 22天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。 23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 23章13節~24節

原稿のアイコンメッセージ

イエスが律法学者とファリサイ派の人々について話をする。
律法学者とファリサイ派の人々というのは、聖書の先生で、聖書の言葉の通りに生活するように努力していた人たち。
この人たちは、周りから、まじめな人たちだ、立派な人たちだと思われていた。
しかし、イエスはその人たちに、「あなたたち偽善者は不幸だ」と言う。
この「偽善者」という言葉は俳優という言葉。
俳優は舞台の上で演技をする。
人に見てもらうことが目的。
聖書の先生たちは、周りから尊敬されていたが、尊敬されるためにやっている、尊敬されたくてやっているということをイエスは見抜いていた。
聖書が大事だからその通りにするのではなくて、自分が尊敬されるために、聖書の言葉を大事にしている自分を周りに見せる。

それは確かに不幸なことだけれども、イエスがここで、この人たちのことを不幸だと言っている理由は少し違うらしい。
「人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。
なんと、聖書の先生の言うことを聞いていたら天国に入れない。
どうしてか。
そもそも、「天」という言葉は聖書では「神」と同じように遣われる。
そして、「国」という言葉は、聖書の言葉では、「支配」という意味にもなる。
天の国と言うのは、神の支配。
天の国に入るというのは、神の支配に入るということ。
だから私たちは、今、こうして生きている間にも、神の支配に入ることが出来る。
けれども、聖書の先生たちは、偽善者、俳優。
神の前に生きていない。
人の前に生きている。
だから、自分でも天の国に入ろうとしないし、その人たちの話を聞いている人たちも同じ考えになってしまって、天の国に入れなくなる。

それだけではなく、15節で言われている。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。
聖書の先生は一生懸命伝道して、神を信じようになった人が出てきたとしても、その人を「地獄の子」にしてしまう。
天の国に入れない、どころではない。
地獄。
人からいいように見られることを目標にするのは、この世の子ではなく、地獄の子。

16節や18節に、聖書の先生たちがどういうことを教えていたのかが書かれている。
「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」。
「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」。
「誓い」ということが言われているが、この時代には、神に願い事をする時に、願い事をかなえてくださったらこれをささげます、と誓って、願い事をすることがあった。
私の願いを聞いてくださったら、黄金をささげますよ。
私の願いを聞いてくださったら、供え物をしますよ。
つまり、具体的なささげものが何なのかをはっきりさせてからお願いをしないと、その願い事は無効だ、ということ。
神はそんなに生活に困っているのか?
聖書の先生たちがそんなことを教えていた。

大事なのは、ここでイエスが見つめているのは、「どちらが尊いか」ということ。
神殿の壁は黄金で覆われていた。
しかしこの場合、黄金が尊いのではない。
神のおられる神殿が尊いから、神殿の壁を黄金で覆った。
供え物と祭壇と、どちらが尊いか、というのも同じこと。
例えば、神への供え物にする羊。
それはもちろん価値のあるもの。
しかし、羊が神への「供え物」になるのは、それが祭壇に置かれるからで、祭壇に供え物が置かれると、神にささげられたということになる。
黄金や供え物は人の目に価値のあるもの。
ただ、本当に尊いのは、目に見えない神がおられる神殿であり、目に見えない神にささげる祭壇。
目に見えない神が、一番尊い。

そして、黄金についても、供え物についても、同じことが言われている。
神殿が黄金を清める。
祭壇が供え物を清める。
人間の目に価値のあるものでも、清められなければいけない。
清められて、初めて神のものになる。
それくらい、神は尊い。
それなのに、聖書の先生たちは勘違いしている。
目に見えるささげものが何なのかをはっきりさせてからお願いをしなさい、と教える。
目に見えない神が大事なのに、目に見えるモノのことだけに心を向けさせている。
この人たちに教わると、心はどんどん神から離れていく。

そうなると、すべてがすべて、形だけになっていく。
それが23節。
「薄荷」はミント、「いのんど」はアニス、「茴香」はクミンのこと。
これは、ささげものをするというよりこの時代の税金だが、聖書の中に、こういう小さなものでもちゃんとささげなさいという決まりがある。
もちろんそれをいい加減にしていいわけではない。
誰にも分からないから秘密にしておいて、自分の物にしてしまおうというのは良くない。
ただ、大事なのは、心。
「正義、慈悲、誠実」。
あなたは神の目に正しいか、隣人を愛し、心がまっすぐか。
聖書の先生たちはそうではなかった。
形にこだわって、心の中は気にしない。
その目的は、人に良いように思われることだった。

今日、イエスは、聖書の先生たちの何が問題なのかを長く話した。
聞いている私たちとしても、自分には当てはまらないとは言えないので、自分がつらくなるくらい。
ただ、イエスの御心はどんなだっただろうか。
今日、イエスは、「あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返した。
その「不幸だ」という言葉は、あなたがたはもうダメだ、というような言葉ではない。
「ああ」、とか「おお」とかいうような言葉。
つまりイエスは、この人たちを攻撃しているとか、見捨てたとか、そういうことではない。
憐れみで言ったこと。
そして、イエスが人を攻撃したり見捨てたりする方ではなく、このどうしようもない人間というものを、憐れみの目で見つめてくださる方だからこそ、イエスはこの後、ご自分から十字架に進んでいく。
イエスは私たちを、心から憐れんでくださっている。
私たちが、人の目によく見られたいと思って、形にこだわって、大事なところで間違ってしまうことがないようになるためには、その、イエスの憐れみの目に気づくこと。

イエスは私たちを憐れんで、私たちのために命まで捨ててくださる。
イエスは私たちが新しくされるためなら何だってしてくださる。
今日、イエスは、人の目に自分を良く見せたいと思って生きている人のことを、「地獄の子」だと言った。
私たちは皆、多かれ少なかれ、人の目に良いように見えるようにという考えを持っている。
しかし、その考えで生きるのは、イエスの目には、地獄に生きているのと同じ。
私たちはそれを地獄とまでは思わない。
しかし、イエスの目には地獄。
私たち自身はそこまで思わないが、イエスにとってはそう。
いやこれは、イエスが正しい。
神の前に生きることを考えないで、人の前に生きる。
その人には、神がいないということになる。
神がいない、それが地獄ということ。
イエスは私たちを、普通のところから、天の国という良いところに連れて行きたいわけではない。
イエスは私たちを、地獄から天国に連れて行きたい。
私たちは自分から進んで地獄に入っていくような者であるのに、イエスは、もし私たちがこの世という地獄から救われて、天国に入れるなら、自分の命も惜しくない。
もうこうなると、憐れみだけではない。
神はどうしようもなく、人を愛している。
その神の愛と憐れみの目で、私たちは見つめられている。
命がけの、愛と憐れみ。
この真剣な神の目を、しっかりと受け止めたい。
天国は、そこにある。
そこにしかない。
今、天の国に入ろう。

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