この17章はすべて、イエスの祈りです。
そして、次の18章で、イエスと弟子たちはここから出て行って、逮捕されるんですね。
この17章は、最後の祈りのような場面です。
その中で、今日のところ、6節から19節では、イエスは弟子のために祈っています。
ただ、弟子という言い方はされていませんでして、今日の最初のところでは、弟子のことが、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」という言い方がされています。
弟子になる人たちというのは、神が世から選び出して、イエスに与えた人たちなんですね。
自分の意思で弟子になったわけでは無いということです。
もちろん本人は自分の意思で弟子になったと思っているわけですが、そのような意志を与えたのが神であるということですね。
また、イエスが選んで弟子にしたということでもないということになりますね。
弟子になった人たちは皆、最初に、まず、イエスの方から声をかけて、それに応えて弟子になったわけなんですが、それは、イエスが選んだということではないんですね。
神が選んだ人に、イエスが声をかけた、ということなんです。
こういうふうに、表面的にどういうことなのかというのよりも深いところで、本当のところどうなのか、ということが言われています。
その流れで、6節の後半で、弟子たちのことが、「彼らはあなたのものでした」と言われています。
弟子たちは、神のものだったんです。
それが一番大事なことですね。
それを、神がイエスに与えたということなんですね。
弟子たちとしては当然、自分は自分のものだという感覚があったことでしょうが、自分のものではなくこの世のものでもなく、もっと深いところで、神のもの、イエスのものなんです。
それは、救われているということでもありますね。
この世のものであり、神のものでないなら、いつかは滅ぶしかありませんが、そこから救い出されたということも言っているんですね。
どのようにして救い出したのかというと、「わたしは御名を現しました」とありますね。
イエスが弟子たちに神の名を現した。
名前というのは存在そのものを指す言葉ですので、イエスが、弟子たちに、神について示したということでしょう。
それは結局のところ、話して聞かせたということでして、6節の最後に、「彼らは、御言葉を守りました」と言われています。
それは、8節の言葉で言うと、イエスが神から聞いたことを弟子たちに伝えて、弟子たちがそれを受け入れたということですね。
弟子たちは、7節の言葉で言いますと、自分たちが神のものであって、イエスに与えられたということを知ったということです。
8節の言葉で言いますと、イエスが神の元から来たことが本当に分かるようになったということですね。
確かに、弟子たちは、少し前の16章30節で、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言っていました。
けれども、この弟子たちは、このすぐ後、イエスが逮捕されると逃げ出すんですね。
本当に分かっていたとどこまで言えるでしょうか。
でも、イエスは今、「彼らは、御言葉を守りました」と言ってくださっているんですね。
神様に対してそう言ってくださっています。
どうしてそこまで肩を持ってくださるんでしょうか。
どうしても、神に、弟子たちのことを守ってもらいたいんですね。
それで、このように必死に執り成してくださっているんです。
9節から、そのお願いに入っていますが、「彼らはあなたのものだ」とまた言っています。
もう一度、そのことを確かめています。
だから助けてあげてくださいということですね。
続けて、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、と言って、神とイエスが一つであることを言います。
これも、だから助けてあげてくださいという気持ちでしょうね。
そして、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言います。
今までにもこの栄光という言葉がしばしば出てきましたが、栄光というのは十字架のことですね。
人を救うという、神にしかできない働きですから、そこに栄光があります。
ただ、イエスはここで何も、自分のことを自慢しているわけではありません。
むしろ、私が栄光を受けたのは、この弟子たちのお陰なんです、と言っているんですね。
神に対して、弟子たちをほめているんです。
素晴らしいですよと。
弟子たちを助けてもらいたいからです。
もうこの辺りから、イエスの意識は十字架の後のことで一杯になっています。
十字架はまだなんですが、「栄光を受けました」と言ったり、11節では、「わたしは、もはや世にはいません」と言っています。
それはまだ先のことなんですが、それくらい、弟子たちを残していくことが心配で仕方ないんですね。
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とイエスは言います。
「御名」というのは神のお名前ということですが、名前というのは存在そのものを意味する言葉です。
この言葉は、今日の最初の6節にも出てきていました。
イエスが弟子たちに「御名を現しました」ということですね。
この話は、6節の最後に、「彼らは、御言葉を守りました」とありまして、7節で、彼らは知りました、8節で、イエスが神から聞いた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れました、と話がつながっていくんですが、つまり、「御名を現した」というのは、神のことを話して、神を示したということでした。
そして、それが、弟子たちを守る力になるというのがここのところの話なんですね。
「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」。
ただ、一度聞いて受け入れたら、それによってずっと守られるということではないようでして、12節では、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」と言われています。
でも今は、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と言っていますので、イエスがいなくなったら、今までイエスがしてくださっていたことを、神にしていただかなくてはならないんですね。
そうでないと、弟子たちは守られないんです。
一体どうしてそうなのか、と思いますが、考えてみますと、イエスは今日、弟子たちのことを神に執り成すために、弟子たちのことを良いように言ってきましたが、この弟子たちはこれから逃げ出す弟子たちです。
神の言葉を聞いて受け入れたと言われていましたが、その時はそうだったかもしれませんが、まだまだ不十分なんです。
12節で、「わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」と言われていますが、それは、ユダ以外の弟子たちがしっかりしていたからではなくて、イエスが保護してくださっていたので、その限りで守られていたというだけのことです。
もしイエスがいなくなって、神の言葉を話して聞かせる人がいなくなったら、もうお終いなんですね。
言ってみれば、弟子たちは、言葉を聞いて、受け入れているけれども、心には根付いていないんです。
今の弟子たちの理解というのは、その程度の理解なんです。
だから、イエスがいなくなったら、今度は神が、イエスが伝えた神の言葉を弟子たちに思い起こさせてください、と願っているんですね。
弟子たちはそういう、弟子として自立できていない弟子たちです。
ただ、イエスは、その弟子たちが、何とかギリギリのところで守られればそれで良いと思っているわけではありません。
13節でこう言っています。
「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。
イエスの喜びが弟子たちの内にあふれるように。
イエスの喜びとは何でしょうか。
15章11節でも、同じようなことが言われていました。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。
そして、この15章11節の前後に語られていたのは、神がイエスを愛しておられ、イエスも神の愛に留まっているように、イエスも弟子たちを愛しておられ、弟子たちがイエスの愛に留まって、弟子たち同士、互いに愛し合いなさい、ということなんですね。
つまりこの喜びというのは、愛によって一つになる喜びなんですね。
今日の11節の最後でも、「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と言われていました。
この「わたしたち」というのは神とイエスですね。
神とイエスが愛によって一つであるように、弟子たちも愛によって一つとなることができる。
それがゴールなんですね。
そして、それによって、私たちにもイエスの喜びがあふれるんですね。
イエスの喜び。
イエスしか感じていない喜び。
神と一つになる喜び。
それを私たちも味わうことができると言われているんですね。
弟子たちは今までも大変なことを経験してきて、これからも、大変な経験をすることになります。
14節ですが、イエスが弟子たちに神の御言葉を伝えたために、世は弟子たちを憎みました。
神の御言葉を聞いて受け入れた者は、もう世に属さなくなるんですね。
それは、世の方でもそれが分かるということなんですね。
それで、憎まれる。
だから、守ってあげてくださいということですね。
この15節で、イエスは、面白い言い方をしています。
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」ということですね。
弟子たちを世から取り去ることもアリだという感じなんですね。
この世に属していない者が世から取り去られるということは、神の御許に行くということですから、アリと言えばアリなんです。
しかし、イエスの願いは、私たちがしっかりとこの世に踏みとどまることなんですね。
ですから、17節で、このように願います。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」。
「聖なる者とする」というのは、例えば神殿での儀式で、油を注ぐということをして、その人を聖なる者とする、ということがあったんですね。
しかし、ここでは、儀式によってそうするのではなく、「真理によって」聖なる者とすると言われています。
そしてその「真理によって」というのは、「御言葉によって」ということですね。
神の言葉は、人を聖なる者にするんです。
そして、どうしてそうするのかというと、18節ですが、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」ということがあるからなんですね。
これから先のことですが、イエスは最後、弟子たちを世へと派遣します。
そして、世へと派遣するということは、世とは違うところから来ていなくてはおかしいですね。
そのために、「聖なる者とする」。
この「聖」という言葉は、分離するという言葉が元になってできた言葉です。
世から分離して、神のものとする、という意味です。
この同じ言葉が、最後の19節でも使われています。
「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」とありますが、ここに出てくる「ささげる」という言葉が、「聖なる者とする」というのと同じ言葉なんですね。
イエスは「自分自身をささげます」。
これは、十字架のことですね。
それによって、弟子たちも、「真理によってささげられた者となる」。
神の御言葉の通りに、弟子たちが世から選び分かたれて、神のものとされる。世に踏みとどまっていく。
苦難はあります。
けれども、ここまでしてもらっているのなら、何も恐れることはないわけです。
実際にこの後、イエスが逮捕されると逃げ出したこの怖がりの弟子たちが、恐れなく勇敢に働いて、世界中に教会を建てていったんですね。
恐れることはないどころか、喜びにあふれていたんですね。
弟子の歩みは、このイエスの祈りに支えられているんです。
イエスがこれだけ、私たちのためにも祈ってくださっているんです。
私たちも、不十分な弟子たちです。
しかし、実際に、この祈りが、弟子たちを支え、弟子たちを確かにしました。
私たちも同じです。
イエスがこのように祈ってくださっているのだから、恐れることはありません。
実際に、今日の御言葉は、代々にわたって多くの人を確かにしてきた御言葉です。
16世紀のスコットランドの宗教改革者であったジョン・ノックスは、死の直前に、自分の妻に、聖書のこの個所を読むように願いました。
その時、ジョン・ノックスは、妻に対して、「私が初めて私の錨を降ろした個所を読んでくれ」と言ったんですね。
錨というのは、船の錨、アンカーですね。
「私が初めて私の錨を降ろした個所」。
船が錨を降ろせば、いつまでもその場所に留まることができるように、私はこの御言葉に錨を降ろして、この御言葉に留まる。
そうする時、私は何よりも確かにされる。
この御言葉に立って、ジョン・ノックスはスコットランドの宗教改革を成し遂げたんですね。
この人はもともとはカトリック教会の司祭だったんですが、ジャン・カルヴァンに学んで、スコットランドに改革派神学を導入しました。
もうそれだけで、世の人から憎まれるには十分ですね。
イングランドの女王メアリー2世はスコットランドでの改革を潰すために軍隊を使って、改革派の信徒を殺させました。
多くの血を流したことから、メアリー2世は「血の女王」と呼ばれるようになりました。
そのメアリー2世が、「私はジョン・ノックスの祈りを恐れる。全ヨーロッパの軍隊が集結したもの以上に、彼の祈りを恐れる」と言ったんですね。
ジョン・ノックスが埋葬された教会には、記念碑が立っているそうですが、そこには、「神を恐れるあまり、如何なる人をも恐れなかった者、ここに眠る」という言葉が刻まれているそうです。
その人が、今日の御言葉に、自分は錨を降ろしたんだと言っているんですね。
だから私は確かだと。
神に守られているんだと。
私たちも、この御言葉に錨を降ろしたいと思います。
主が私たちのために、ここまで祈ってくださっているんです。
そのことを、いつ、どんな時も、喜びたいと思います。