イエスが逮捕された。
ユダヤ教のトップである大祭司の家に連れて行かれる。
大祭司は、最高法院と呼ばれるイスラエルの国会のトップでもあった。
大祭司の家には、最高法院のメンバーも集まっていた。
「最高法院の全員は」と書かれているが、今の時間は夜中なので、71人のメンバー全員が集まったわけではないだろう。
しかし、その場所に居た人たちは全員、「死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」。
国会議員たちが、偽証を求めている。
嘘をついてイエスを訴えようとしている。
もちろん、こんなことはいつの時代のどこの国でもしてはいけないこと。
それでも、何とかしてイエスを殺したい。
どうしてそこまでイエスを憎んだのか。
27章の18節を見ると、ねたみのためだと書かれている。
国会議員が、イエスをねたんだ。
議員は信仰を教える立場でもあったが、イエスは自分たちより人気があった。
また、自分たちにはできない奇跡を行っているということは、彼らの耳にも入っていた。
それで、イエスをねたんでイエスを殺してしまおうとする。
こんなことはおかしいと思うかもしれない。
しかし、聖書はどう言っているか。
聖書に書かれた最初の殺人は、ねたみのためだった。
アダムとエバの子どもたちに、カインとアベルがいた。
カインは弟アベルを殺した。
どうしてか。
カインもアベルも神にささげものをしたけれども、神はアベルのささげものだけを見て、カインのささげものは見なかった。
お前のささげものは見てもらえるのに、どうして自分のささげものは見てもらえないのか。
カインがアベルをねたんで、アベルを殺してしまった。
聖書は言っている。
人間は、自分以外の人が特別だと認めたくない。
これは、アダムとエバの罪からつながってくる話だが、人間は自分中心。
アダムとエバは、神に背いた。
罪を犯した。
その時、アダムはエバのせいにした。
エバは自分を騙した蛇のせいにした。
自分中心だから、自分の罪を認めないで、人のせいにする。
今回の場合は、自分中心だから、自分以外の人が特別だと認めたくない。
そして、スイッチが入ると、自分で自分をコントロールできなくなる。
正しいことをしているつもりで、無茶苦茶なことをやりはじめる。
この裁判は最初から無茶苦茶。
どうしてこんな夜遅くに、こんなに急いで裁判をするのか。
過越祭という大きなお祭りがこれからある。
その前に、イエスを殺してしまいたい。
しかし、有罪判決が出た場合、刑罰を決めるのは3日後にするのがルールだった。
罪があると決まっても、どういう罰を与えるのかを決めるのは3日後だった。
しかし、それだとお祭りが始まってしまう。
そこで、ルールを破る。
国会議員が堂々とルールを破る。
ねたみで頭がおかしくなってしまっている。
でも、それが人間だということ。
しかし、この裁判では偽物の証人が何人も現れたけれども、証拠は得られなかった。
この時代には、二人の人が、同じことを言わなければ証拠にはならない。
何人の証人が用意されていたのかは分からないが、最後の最後になって、二人の人が同じことを言った。
「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」。
この、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」という言葉は、イエスご自身が、自分は死んでも復活するという意味で言ったことだが、実際にイエスが言ったことだったので、二人の証人が同じことを言った。
ただここで、イエスは何も答えない。
大祭司は言った。
「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言ったというのは、必ずしも、その人が「神の子、メシア」であるということにはならないと思うが、大祭司は、イエスにそのことを突き付けた。
大祭司は、この質問をした時、勝ったと思っただろう。
この質問に、イエスが、そうだと答えると、大祭司はイエスを死刑にできる。
イエスがそうではないと答えたら、たくさんの人たちがイエスから離れていくことになる。
そうなると、大祭司たちは、もう他の人たちのことを気にせず、イエスを殺すことができる。
どちらで答えても、イエスはお終い。
大祭司はこの時、「生ける神に誓って我々に答えよ」と言った。
裁判では何も答えないでもいいことになっていたが、この言葉を言われた場合には、答えなければならなかった。
そこで、イエスは言った。
「それは、あなたが言ったことです」。
これは、元々の聖書の言葉では、「あなたが言った」というだけの言葉。
「あなたが言った」、これでは、質問に答えたことにならない。
けれども、イエスは大祭司の質問に答えないつもりではない。
大祭司が言ったことは大祭司の言ったこととしておいて、この後、はっきり答えた。
「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」。
旧約聖書のダニエル書の7章13節。
世の終わりに天から雲に乗ってくる人の子のことが預言されていた。
「人の子」というのは人間という意味にもなる言葉だが、ダニエル書の方では、「人の子のような者」と書かれている。
人間のような者、だけれども、人間ではないということ。
もちろんそう、天から雲に乗ってやって来るのだから、人間ではない。
そして、ダニエル書を読むと、その方は、すべての人を支配する力と権威を神から受ける。
イエスとしては、それが私だ、ということ。
イエスはこの言葉で、大祭司の質問に答えた。
大祭司は怒って言った。
「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか」。
最後の証人が話をした後なので、もう証人はいないのだが、これで裁判を終わらせようとしている。
他の人たちも、もうこれで死刑に決まりだと思ったのだろう。
イエスに乱暴をしはじめた。
しかし、この場面ほど恐ろしい場面はない。
人が神を裁いている。
無茶苦茶な裁判で、無理やり死刑にしてしまった。
裁判の中で、まるで自分が神になったかのように、「生ける神に誓って我々に答えよ」と言った。
顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打って、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
この、「言い当ててみろ」という言葉は、「預言しろ」という言葉。
神の子を殴って、「預言しろ」。
しかし、この場面は、珍しい場面なのだろうか。
人間はこういうものではないだろうか。
ある友人が私に言った。
「神が人を造ったのに、人が罪を犯した時に、人に罰を与えるというのはどういうことか。神は自分勝手だ」。
しかし、聖書にはこう書いてある。
器を作る人が、器を作って、良くないと思ったら、捨てることもある。
誰が何を作っても、それは当たり前のこと。
それなのに、私の友人は、まるで自分が裁判官で、神を裁いているようなスタンス。
それに対して、私たちは、神を信じている。
その点で、私たちは彼とは違う。
しかし、私たちも、自分が裁判官になってしまって、神を裁いていることはないだろうか。
私たちも、神様、今、どこにおられますか、と思うことがある。
私たち自身は、こういうふうになることが神の御心に適うことだと思っている。
それで、そうならない場合、もしかすると、その逆になっているような場合には、神様、今どこにおられますか、と思う。
神だったら、こういうふうにするはずだと勝手に思っている。
本当は迷子になっているのは私たち自身。
その時私たちは、ある意味で、自分を裁判官にして、神を裁いていると言える。
結局、人間は、自分が納得できる範囲でしか、神を信じていない。
しかし、それは信仰ではない。
信仰とは、自分が裁判官になって、神に質問して、神を裁くことではない。
信仰とは、自分が罪人で、神が裁判官で、自分が神に答えるところに始まるもの。
裁かれるのは、神ではなく、私たち。
しかし、人間は罪というのは根深い。
アダムは罪を犯した時、「あなたがわたしと一緒にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」と言った。
女のせいにしているだけではない。
その女は、あなたが一緒にいるようにしてくださったものだ。
神を裁いている。
神を裁くのが人間だと、聖書が言っている。
しかし、今日、イエスはチャンスを与えてくださっている。
イエスは大祭司の質問に、ダニエル書7章13節の言葉で答えた。
ご自分が世の終わりに現れて、すべてを支配する神の子であるということ。
大祭司の質問に答えるだけなら、ダニエル書7章13節でなくても、他の個所でもいい。
また、そのことは言っても言わなくても、証人が二人いるので、死刑にされることに変わりはない。
それなのにわざわざ、ご自分が世の終わりに現れる神の子だと言った。
世の終わりは裁きの時。
イエスは、大祭司に対して、その場にいた人々に対して、私たちに対して、裁きを行う方としてのご自分を示しておられる。
今日、イエスは、私たちが裁き主であるイエスの前に立つことを求めておられる。
罪人としてイエスの前に立つことを求めておられる。
それは、自分中心なものである人間には、受け入れにくいこと。
しかし、それを受け入れないなら、私たちは、自分が裁判官になって、神を裁くしかない。
私たちには、そのどちらかしかない。
イエスはもう、私たちのための判決を用意してくださっている。
イエスはこれから死刑になる。
人の罪を背負って、代わりに罰を受けてくださる。
そのことを引き受けてくださったイエスが、私が裁き主なのだと言っている。
復讐をしてやろうというのではない。
私たちのために死ぬことを決心した方が、私たちには良い判決を出したいと願っておられる。
わたしはあなたの救い主でありたいと思っておられる。
この裁判官の前に立ちたい。
顔に唾を吐きかけられても、こぶしで殴られても、平手で打たれても、鞭で打たれても、あなたに良い判決を出すためにそれを受け入れた方が、私たちを受け入れてくださる。
これはつまり、私たちが罪人として裁き主の前に立つ時、裁き主は、私たちにとって救い主になってくださるということ。
そして、神の救いの計画は、必ず、御心の通りに実現する。
祭司長たちはもともと、イエスを捕まえるのは祭りの後にしておこうと考えていた。
しかし、このお祭り、過越祭の時にイエスが十字架にかけられるのが、神の御心。
十字架によって、罪人から、神の怒りが過ぎ越すために。
人間の計画は実現しなかった。
神の御心が実現した。
人間は皆、ルールを破っておかしなことをした。
自分では正しいと思っていただろうが、正しいことは一つもなかった。
しかし、どれだけ間違ったことをしても、神の計画を変えることはできなかった。
私たちも間違うことはある。
いや、神の目に人間は、間違うのが普通だろう。
しかし、私たちを救う神の計画に変わりはない。
安心して、罪人として、裁判官の前に立ちたい。
判決に変わりはない。