赦しの神
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 6章16節~18節
16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章16節~18節
「偽善者」とは、一般的には、本当はそうではないのに、いい人のように自分を見せる人のことである。
しかし、この「偽善者」は、原文では「俳優、演技をする人」という言葉である。
俳優は、自分がどんな人間であっても、その役になりきる。
自分がどういう人間なのかは関係ない。
自分がどういうふうに見られているのかがすべて。
そういう仕事である。
舞台に上がるというのはそういうことであるから。
ただ、それを、実際の生活でやってしまうとなると、どうだろうか。
舞台俳優が悪いのではない。
舞台の上ではなくて、実際の生活の中で、自分は良い人間だ、という役を自分で作って、その役になり切って、それを周りに人にほめてもらいたくて、自分からそれを周りにアピールするようなこと……。
頭の中にあることは、人からほめられたいということだけである。
イエス様は、その人たちは俳優みたいなものだ、俳優が舞台でやっていることを生活の中でやっている、と言っているのである。
しかし、そうなると、これは私たちにとっても困ったことではあるまいか。
私たちの中に、誰か一人でも、人からどう見られるかを気にしない人がいるだろうか。
私たちは皆、少しくらいは俳優のような面がある。
むしろ、それがまったくなかったら生きていけないだろう。
もし私たちが、心の中に思い浮かんだことをそのまましゃべってそのまま行動したとしたら、周りが迷惑するに決まっている。
周りが迷惑するから、周りに迷惑をかけないように、私たちは皆、少しくらいは演技をしているはずである。
ということは、私たちも、事実、俳優なのだ。
私たちの多くは、良いことをした時、自分からアピールはしないだろう。
でもそれは、自分からアピールしたら周りが嫌がるということを知っているからそうしないというだけで、ほめられたいという気持ちはないわけではない。
ただ、ほめられるというのはそれ自体は良いことである。
悪いことをしていたらほめられないのだから。
実際、ほめられることは私たちにとってうれしいことである。
良いことをしたらほめられる、悪いことをしたら叱られる、ということを、私たちみんな、小さい頃から教わってきた。
ほめられたらうれしいというのは自然なこと。
ただ、自分からアピールすると周りに嫌がられるので、少しくらい演技をして、それを表には出さない。
しかしそれは、自分からアピールする人とどれくらい違うと言えるだろうか。
ほめられたいという気持ちがあるということは、私たちみんなに共通する。
私たちはみんな、人からの評価の中で生きてきた。
時々はいい評価をもらった。
時々は悪い評価をもらった。
できれば、いつもいい評価をもらいたい。
そう考えている内に、俳優になってしまう。
ここまでのところでもイエス様はそういうことを言っておられた。
6章の最初からのところに、「施しをするとき」、「祈るとき」についての言葉があった。
どちらも、良いことである。
貧しい人を助ける。
神に心を向けて祈る。
でも、そういう良いこと、正しいことをするときでも、外側から見たらよいことだけれど、心の中は人からほめられたいという思いになっている場合があるというのだ。
それは、断食をするときにも起こる。
断食とは何であるか。
食事をしないことである。
ただ、別に断食でなくても、私たちは、気持ちが落ちこんでしまって食事ができないということがある。
ものすごく悲しい時などに、である。
要するに、断食は、わざと食事をしないで、悲しむことである。
言ってみれば、わざと悲しむことなのである。
何を悲しむのか。
自分には罪がある。
神に背く部分がある。
その自分を悲しむために、食事をしないことが断食なのである。
自分が神様に背いていることを悲しむために、そうするのである。
これも、良いこと、正しいことのひとつであると言える。
ところが、そういう真剣な思いも、偽善になってしまうことがあるというのである。
人間は俳優だから。
自分の罪を悲しむ場面でも、人にほめられたいと思ってしまう。
だから、断食するときに、「沈んだ顔つきをする」、「顔を見苦しくする」。
悲しんでいる、苦しんでいるふりをして、ほめてもらえるのを待っている。
神様に心を向ける時なのに、人からほめられるのが本当の目的。
良いこと、正しいことをしていることをアピールして、ほめられたいのだ。
ただここでイエス様は、断食なんてそんなことはやめてしまえ、とは言わなかった。
「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(17、18節)。
断食していることを人に気づかれないように。
人に気づかれなかったら、人からの報いは受けないで済む。
神様からの報いがいただける。
神様からの報いを求めなさい。
神様は報いてくださる。
ほめられたいという思いを捨てなさいという話ではない。
私たちは、ほめられたいという思いを捨てられない。
人からの評価の中でずっと生きてきたから。
神様にほめられるようにしなさいということである。
神様がほめてくださるようなやり方をしなさいということである。
イエス様は、良いことをしたら必ず報いがあると言っている。
ただ、人に見られて人からほめられると、もう、人から報いをいただいたことになる。
そうなると、それ以上の報いはもうない。
もう報いをもらったわけだから。
逆に、人に気づかれなかったら、報いがなかった、ということではない。
その時こそ、神様が報いてくださるのだ。
そして、それこそが大事なのである。
そして、今日の話では、人からほめられるか、神様からほめられるかは、どちらかしかないということになる。
人にほめられて、神様にもほめられるということはない。
人からほめられたら、報いはもうそれで終わり。
もうそれで報いを受けたのだから、それ以上の神様からの報いはない。
私たちは、人からほめられるか神様からほめられるか、どちらかしかない。
そうことになるということは、神様はそれくらい、私たちのことを良く見ておられるということである。
18節ではその神様のことが、「隠れたことを見ておられる父」だと言われている。
演技して、隠したつもりでも、神様には隠せない。
神様には偽善は通用しない。
神様はすべてをご覧になりながら、私たちに報いを与えようとスタンバイしている。
加えて言うと、演技をやめろとも言われていない。
イエス様が言ったことは、断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れということである。
これは、演技しろということである。
私たちは演技をやめられない。
ずっと演技してきたから。
ただ、ここで言われていることは深い。
断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れということだが、断食は、自分の罪を悲しむことである。
だとすると、断食をするとき、断食をしていないようなポーズを取れ、というのは、自分の罪を悲しみながら、悲しんでいないようなふりをしろ、ということである。
しかし、悲しむべき時に悲しんでいないふりをするのは難しいことではないのか。
施しをするとき、募金をするようなとき、こっそりやる、名前を出さずに匿名でやるというのは容易なことである。
祈るとき、部屋で一人で祈るというのも、何も難しいことではない。
しかし、悲しむ時に悲しんでいないふりをするというのは……。
「罪」という言葉は「的外れ」という言葉からきている。
偏って自分を愛するという的外れである。
それに対して神様はどんな人でも同じように愛する。
その神様から見たら、私たちの罪はどれくらいだろうか。
自分の罪を見つめるなら、私たちは悲しまないわけにはいかない。
イエス様は、できないことをしろと言っているのではない。
ほめられたいという思いを捨てなさいとは言わなかった。
演技をやめろとも言わなかった。
そもそもイエス様は、無理なことは言わない方である。
だとするとこれは、「悲しまなくていい」ということではないか。
ではどうして私たちは自分の罪を悲しまなくていいのか。
神はどんな人でも愛する。
どんな罪深い人でも愛する。
神は、罪を赦す神である。
私たちの罪は深刻なものであることだろう。
しかし、神は、自分の罪に目を向ける人を赦す方である。
だから、自分の罪を悲しみなさい、と言っておいて、しかし、悲しんでいないふりをしなさい、そうしていいし、そうすることができる、ということではないのか。
自分の罪に目を向けることは必要なことである。
それをやめろとは言われていない。
ただ、自分の罪に目を向けたら、神はあなたを赦す。
それが神からの報いだ。
キリストはそう言っているのではないか。
自分の罪に目を向けたい。
それはどのように見えるだろうか。
どのように見えたとしても、神の前に自分の罪を見つめるなら、神は人を赦す。
神は、赦しの神である。