「裁く」は原文では、「見分ける、判断する」ということ。
つまり、必ずしも、マイナスに判断することだけではない。
私たちは人を見ると、その人がどういう人なのかを判断しようとする。
口に出すことはなくても、自分のはかりで人をはかる、自分の物差しで人をはかる、ということがある。
そして、心の中で、この人のこういうところはいいな、この人のこういうところはまずいな、と思っている。
「裁く」とは、私たちがいつもしていることである。
しかし、イエス様が今言っている「裁く」というのは心の中でのことではない。
3節、4節にこうある。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」。
これがイエス様の言う「裁く」ということである。
つまり、「あなたにはこういう良くない所があるから、それが無くなるように、一緒に頑張りましょう。私もお手伝いしますよ」というようなことを相手に対して言うことである。
考えようによっては、それは親切なことかもしれない。
しかし、問題は、「自分の目に丸太がある」ということ。
「自分の目に丸太がある」のに、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言う資格はない。
私たちは、人を見ると、その人にこういう問題があるな、ということにすぐに気づく。
私たちは人のことに気づくのが得意。
逆に、自分の問題には気づきにくい。
それは事実である。
しかし、このところでのイエスの言葉を聞くと、はたしてそうなんだろうか、と思う部分がある。
いつもいつも、私の方の問題が大きくて、相手の方の問題は小さいということがあるだろうか。
ただ、イエス様が言っている話には理由がある。
1節後半に、「あなたがたも裁かれないようにするためである」とある。
そのことが、2節でもう少し詳しく書かれている。
「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。
これはどういうことか。
私たちはみんな、自分のはかりを持っていて、自分のはかりで人をはかる。
しかし、そのはかりは人によって違っている。
でもここでは、私たちは、私たち自身のはかりではかられる、と言われている。
人はそんなことはしない。
その人はその人のはかりで私たちをはかる。
ということは、これは、誰から裁かれるということなのか。
神様に裁かれるということである。
神様は、私たちが人を裁いているように、私たちを裁く。
そして、私たちが人を裁いているように私たちが裁かれたら、私たちは困ったことになる、ということも言われていることになる。
自分のはかりで量るんだったら大丈夫じゃないかと思ってしまうが、そうではない、というのだ。
私たちは、自分のことには気が付きにくい。
人のことは分かっても、自分のことは分かりにくい。
私たちが人を見た時に気づくその人の問題は、せいぜいおが屑のような小さなもの。
イエスの目からしたらそう。
しかし、神様が私たちを見た時に気づく私たちの問題は、丸太のように大きなものなのである。
あなたは気づいていないけれどもね……、とイエス様は言う。
私たちはいつも、厳しい目で人を見ているかもしれない。
ほんの小さなおが屑でも見落とさずに、まるでそれを丸太であるかのように考える。
そして、心の中では「この人は迷惑だな」と思いながら、下手に出るポーズを取って、「おが屑を取らせてください」と言う。
しかし、その私たちは、神様の目にどう見えているのか。
目に丸太がある。
つまり、何も分かっていない。
それなのに、人を裁こうとする。
まるで自分が神になったつもりで、「おが屑を取らせてください」。
罪深いものである。
丸太とは何か。
人間の罪である。
私たちは自分の罪になかなか気づけない。
自分の罪に気づかず、人の罪を見つけ出して、自分の方が相手よりもずっと上の立場のつもりで、相手に対して、「おが屑を取らせてください」と言う。
しかし、一体どうすれば私たちは自分の目からおが屑を取り除けるのか。
取り除けないのだ。
自分では分からないことなのだから。
神の目で見たら丸太があることが分かる、ということだから。
私たちは自分では気づいていない。
気づいているのは神様だけ。
だから、取り除けるのも神様だけである。
それをしてくださったのが十字架である。
神様は「あなたの目に丸太が入っているから取らせてください」などと言ったりしない。
何にも言わずに十字架にかかってくださる。
イエス様はそうしてくださった。
何も言わずに、人の罪をすべて引き受けて、自分が身代わりになって、罰を受けてくださる。
「まず自分の目から丸太を取り除け」ということが言われているが、これは、神の子が自分の罪を代わりに背負ってくださったということを見つめなさい、ということである。
「そうすれば、はっきり見えるようになる」と言われているが、これは、神の子が身代わりにならなければならないくらいに自分の罪が大きいということが私たちにも分かってくるということである。
それだけでなく、そのような大きい罪でもゆるしてくださる神様の愛の大きさが分かってくるということである。
そうなると、「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。
私たちを通して、その人にも神様の愛が届けられる。
自分が神になったつもりで「おが屑を取らせてください」というのではなく、自分がいただいている神様の愛で、その人を愛する。
そうするときに、その人のおが屑が取り除かれる。
神様が働いてくださるということである。
だから、私たちにはそうすることができる。
6節には、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」という話がなされている。
この話は、私たちが今すでに神聖なものを持っている、真珠のような値打ちのあるものを持っているから言えること。
ただ、私たちがその神様の愛を他の人にも受け取ってほしいと思っても、相手が嫌がるということはあるのだということなのだ。
むしろ、それは当然のことである。
神様から見たら、人間の目にはみんな丸太が入っている。
分からない人はいる。
「犬」とは、この時代の言葉で、異邦人のことである。
神様を知らない人のことである。
「豚」とは、この時代には汚れたもののことであった。
つまり、神様の愛を伝えても、その値打ちが分からない人というのはいる。
だから、私たちは相手を選ぶ必要はある。
ただ、愛することを止めないこと。
足で踏みにじられたり、かみつかれたら、殴ってやれ、とは言われていない。
相手を選びなさいということなのだ。
もっと大事なことがある。
イエス様ご自身、足で踏みにじられて、かみつかれて、十字架にかけられた。
それでも、イエス様は、愛することを止めなかった。
最後まで一言も文句を言わずに、愛しつづけた。
私たちに与えられているのは、そのような愛である。
だからこれは、話を一歩進めて言うと、「相手に合わせた仕方で愛しなさい」という話である。
それを考えていきたい。
とにかく、私たちには神聖なものが与えられていると言われている。
真珠が与えられていると言われている。
それは間違いない。
そして、その真珠を、私たちが誰かに与えるようにと言われている。
与えたらなくなるのかな、とは考えなくていい。
神様がもし、「この人は他の人にたくさん与える人だ」と思ったら、もっとたくさんくださるはずである。
とにかく、与えるように言われているのだから、私たちの手から真珠が無くなることはないのである。