回心とは何か
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 使徒言行録 9章1節~9節
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 9章1節~9節
今日の聖書の箇所には「サウロの回心」というタイトルが付けられていますね。
しばらく前に、今日のこの場面は「聖パウロの回心」というタイトルで、日本の伝統芸能である能で上演されたことがあるそうです。
能というのは仮面をつけての演劇ですね。
日本の伝統的な芸術で聖書の物語を演じるというのは何かとても珍しいことのように思いますが、今から450年ほど前になるでしょうか、その頃、日本のクリスチャン人口は、人口の10%ほどだったということで、当時、キリシタン能というものがあったという記録が残っていて、アダムとイブとかノアの箱舟とかイエスの誕生とかをテーマとして、能の上演があったようです。
ですので、聖書の話を能で上演しても、まったく新しいというようなことでもないわけです。
何より、「聖パウロの回心」の台本を執筆した作家の林望(はやしのぞむ)さんは上演に先立ってこう言ったそうです。
「『聖パウロの回心』は誰の身にもある普遍的な話ではないか。
『アメイジング・グレイス』も『聖パウロの回心』の近代版ではないか。
人間が生きている以上、どうしたって罪というものをまぬかれることはできない。
宗教を超越したような普遍性がこの話にはあるような気がする」。
今日の話は私たちが聞くと特別な話に思えるわけですけれども、有名な作家が普遍的な話だと言っているんですね。
そして、「アメイジング・グレイス」が「聖パウロの回心」の近代版だと言っていますが、「アメイジング・グレイス」は葬儀の時にも結婚式にも使われる賛美歌で、聞いたことのある方もたくさんおられると思います。
作詞作曲したのはジョン・ニュートンという牧師ですが、この人は元々は奴隷貿易に携わっていたんですね。
ところが、彼が22才の時、激しい嵐が船を襲いまして、船が転覆しそうになったのですが、ニュートンが必死に祈ると、船が嵐を免れたという経験をします。
その後、ニュートンは奴隷貿易をやめ、神学を学び始め、英国国教会の牧師になりました。
そのような人生を送った人は確かにいます。
探せば他にもいくらでもいるでしょう。
しかし、今日の話は、どこまで普遍的な話だと言えるでしょうか。
「サウロの回心」。
心を回す。
180度回す、ということでしょうか。
回心という言葉には、心を回すという字だけではなくて、心を改めるという字もありますし、悔いる心と書いて悔心という字もあるんですけれども、心を回す、なんですね。
それまでの自分を悔いるのではない。
それまでの自分を改めるのでもない。
心の向きを変える。
しかし、心の向きを変えるというのは簡単なことではありません。
大人になる頃には心の向きというのは基本的に固まっているはずです。
それは結局は何を目指してきたのか、ということですけれども、私たちの人生の大きな目標が変わるなんていうことは、簡単に起こることではないでしょう。
では、今日の御言葉はそれについて、何を私たちに教えてくれているでしょうか。
御言葉に聞きたいと思います。
まず、今日は、サウロという人の回心が語られているわけなんですが、この人は後になってパウロと呼ばれるようになります。
世界中に教会を建てあげていった大伝道者ですね。
このパウロはあちらの町からこちらの町へ旅をしながら教会を建てあげていきましたけれども、一つの町にずっといるわけではありませんでしたから、昔自分が建てた教会とか自分の弟子たちに後になってから手紙を送ることもありました。
新約聖書にはそのような、パウロが書いた手紙がたくさん収められています。
パウロは別に自分が聖書を書こうというつもりはなかったでしょうけれども、後になって、もうこれは神の御心をしっかりと伝えている素晴らしい文章だということになって、その手紙が聖書に収められるようになったんですね。
まあそれくらい、このパウロという人は立派な働きをした人だと言えます。
ただ、今日の箇所ではサウロという名前になっていますよね。
これがパウロのもともとの名前なんです。
けれども、4節を見ますと、イエス様はサウロではなくてサウルと呼びかけていますね。
これは一体何なんだということになりますけれども、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語でサウルという名前なんですが、そのサウルという言葉を、当時、世界で最も広い範囲でつかわれていたギリシャ語に移しますと、サウロと発音するんですね。
ですので、ここにイエス様がわざわざ「サウル」と呼びかけているのは、つまりは、この時イエス様はギリシャ語ではなくてヘブライ語で話しかけたんだということです。
ヘブライ語というのはユダヤ人にとって神の言葉なんですが、その言葉で話しかけたんですね。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。
サウロはキリストの教会を迫害していたんですね。
これは、サウロが自分自身のことを振り返って語っている箇所を見ると分かります。
開いていただかなくても構いませんが、新約聖書の258ページ、使徒言行録の22章3節で、パウロは自分のことをこんなふうに言っているんですね。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」。
キリキア州のタルソスというのは今のトルコの南東の辺りです。
この人はイスラエルで生まれたのではないんですね。
けれども、育ったのはエルサレムで、そしてそこで、ガマリエルというユダヤ教の先生から聖書を学んだんですね。
このガマリエルという人も使徒言行録の5章34節に登場してくるんですが、ユダヤ教の先生の中でもトップクラスの人で、国会議員もつとめていた人です。
そのガマリエルの弟子であったわけですから、パウロもエリートです。
そうであったからこそ、キリスト教会を迫害していたんですね。
ユダヤ教というのは、ユダヤ教のルールを守ったかどうかが全てです。
けれども、キリストはユダヤ教のルールであります律法をひたすら守ることよりも、心を神様に向けること、心を神様に向けて、神と人とを愛することを教えましたから、これはもうパウロとしては受け入れられません。
自分が一生懸命やっているのに、それをないがしろにしている。
パウロにはそうとしか思えません。
ましてパウロはその道のエリートでしたから、なおさらキリスト教会を憎んだでしょうね。
今日の2節ですが、パウロはユダヤ教のトップである大祭司に逮捕状を書いてもらって、キリスト教会をたたきつぶすためだけに、町から町へと旅をします。
一体何人くらいのクリスチャンがこの人に逮捕されたでしょうか。
この人に、回心の時が訪れます。
とんでもない出来事が起こりますね。
今日の3節4節ですが、天からの光がパウロを照らしますと、パウロは地面に倒されました。
そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえました。
7節を見ると、他の人たちにも声は聞こえたけれども、誰の姿も見えません。
ただこの不思議な出来事ですが、ここで一番注目したいのは、「なぜ、わたしを迫害するのか」というこの言葉です。
「なぜ、教会を迫害するのか」ではないんですね。
「なぜ、クリスチャンを迫害するのか」でもないんです。
「なぜ、わたしを迫害するのか」。
パウロが迫害しているのは教会であり、クリスチャン一人一人なんですが、この声は、教会は自分自身である、クリスチャンとは私自身であると言っているんですね。
パウロはこれに対して、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。
「なぜクリスチャンを迫害してはいけないのですか」と聞いたのではありません。
「なぜ教会をつぶしてはいけないのですか」と聞いたのでもありません。
「あなたはどなたですか」。
パウロはこの方に向き合ったのです。
答えが返ってきました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。
イエス様がパウロに出会ってくださったということだったんですね。
わたしとあなたという関係がここで結ばれています。
それだけではありません。
続けて、声が聞こえます。
「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。
この時、パウロは命を取られていてもおかしくはなかったのではないでしょうか。
それくらいのことをやってきた人です。
あるいは、自分がやっていたことに気づいたパウロがここで自殺してしまってもおかしくはないと思います。
けれども、そのパウロに、イエス様は役割を与えてくださるんですね。
もう立てないようなところから、立ち上がらせてくださるんです。
ただ、パウロの目は見えなくなっていました。
聖書の中で、こうしたことが起こることがまれにありますね。
たとえば、ザカリアという人は、神の言葉を受け入れず、疑った時、口がきけなくなりました。
ザカリアが祈っていたことがあって、その祈りが聞かれたという知らせを受けたのに、疑ったんですね。
そのことはルカによる福音書の最初のところに書かれていますが、そのすぐ後のところを見ると、人々がザカリアに質問するのに、身振りで尋ねたとありますので、耳も聞こえなくされたようです。
自分の言葉をしゃべれないし、人の言葉も聞くことができない。
要は、自分の言葉も人の言葉も退けて、神の言葉に心を向けるようにということでしょうね。
そのために、口がきけなくなり、耳も聞こえなくされた。
では、パウロの場合は、どうなるでしょうか。
目が見えなくなるというのはどういうことでしょうか。
かつて、イエス様は、聖書の専門家のはずなのに、自分で勝手に分かったつもりになっていて、本当のところ大事なことが分かっていない人に対して、こう言ったことがありました。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言ったことがありました。
これはパウロにもそのまま当てはまることです。
要は、自分は見えているつもりで、見えていない。
イエス様はパウロにそれを気づかせようとしたんですね。
もっと言うと、パウロがこれからなすべきことは、自分の目で見て判断するものではないということになるでしょう。
そしてパウロの目は、パウロがなすべきことを知らされた時、再び見えるようにされるのです。
その時から、パウロは何を見るようになったでしょうか。
これまでパウロは人を見ていました。
人が聖書の言葉を守っているかどうか。
パウロの目は人をチェックする厳しい目でした。
けれども、再び見えるようになってからは、今までは見えていなかった神の真実を、神の現実、神様のお働きに目を向けるようになっていくのです。
まさに回心ですね。
目が変わった。
それは心が変わったということです。
私たちも、そのような経験をしたことはなかったでしょうか。
こんな劇的な場面があったわけではないかもしれませんが、それまで見えていたはずの目を見えなくされるような経験、つまり、その時の自分が打ち倒されるという経験があって、そこから立ち上がらせられて、それまでは見ていなかったものに目を向けるようになっていった。
そんな経験があったのではないでしょうか。
それは、「アメイジング・グレイス」のジョン・ニュートンもそうですね。
奴隷貿易を止めて牧師になったということがそうですけれども、ニュートンは、自分が奴隷貿易をやめただけではなく、奴隷貿易廃止運動を推進します。
ニュートンは奴隷がひどい扱いを受けていることを正直に語り、1807年3月、イギリスはついに奴隷貿易を禁止します。
そしてその年の12月、ニュートンは82歳で地上での生涯を終えました。
また、ニュートンは晩年、失明するのですが、英文の「アメイジング・グレイス」の歌詞の中では、「盲目だった私が、今は見える」と歌っているんですね。
彼の心の目はそれまで以上にはっきりと見えるようになったということですね。
この出来事を通して、パウロは変えられました。
それまではサウロと名乗っていましたが、パウロと名乗るようになります。
サウロというのはイスラエルの昔の王様の名前です。
サウロという言葉の意味は、「神が求める者」です。
神が求めるほど、大いなる者、ということでしょうか。
それに対して、パウロというのは、ギリシャ語で「小さい者」という意味の言葉です。
キリストに出会った者が、自分の小ささに気付き、しかしその小さな者が、大きな働きをなしていく。
それがパウロに起こったことであり、ジョン・ニュートンに起こったことです。
私たちは、それほど大きな働きはできないと思うかもしれません。
しかし、パウロの働きは、同時代にあっては、教会以外の場所では誰にも知られていないような働きです。
そして、当時の教会というのは、現代の教会に比べるとはるかに小さかったわけです。
しかし、彼の書いた手紙は聖書に収められることとなり、その後、文字通り数えきれないほどの人に読まれ、今も読まれ続けています。
ニュートンの働きは大きな働きだったと言えますが、ニュートン自身はどう思っていたでしょうか。
止めるべきことを止めさせただけで、当然のことだとしか思っていなかったのではないでしょうか。
ただ、二人とも、自分が打ち倒される経験をして、そこから立ち上がらせられて、心の向きが変わった、目が開かれた。
そのような経験を自分から望む人はまずいませんが、そのような経験こそが、人をまことのものにします。
これは普遍的なことだと思います。
それには、時間がかかることもあるでしょう。
ジョン・ニュートンの場合は、22歳の時に船で遭難しかかりましたが、奴隷貿易をやめたのはその6、7年後です。
その意味で、今日のパウロに起こった瞬間的な出来事とは違います。
多くの場合、私たちの回心も、そのようなものではないでしょうか。
けれども、本質的には、それまでの自分が打ち倒され、それによって目が開かれた、という点で同じです。
打ち倒され、目が開かれると、自分の小ささに気付かされるということはあるでしょう。
ただ、私たちが小さい者だとしても、気にすることはありません。
パウロは自分から、自分は小さいものだと言ったんです。
大きい小さいは問題ではありません。
何より、私たちはキリスト自身です。
キリスト自身がそう言っておられるんです。
私たちはつまらない者ではありません。
この場所で、また、それぞれに与えられた場所で、私たちに与えられた働きがあります。
私たちにしかできない、その大切な働きをしていきましょう。
私たちのことをご自分自身だと言ってくださるキリストが、私たちに与えてくださる働きです。
ですから、キリストが必ず助けてくださいます。