今日の場面はクリスマスらしい場面と言えるでしょうね。
「メリー・クリスマス」という言葉は「うれしいクリスマス」という意味の言葉ですが、とても華やかな場面です。
天の大軍が賛美をしています。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
とても高いところにおられる神様に栄光があるように。
そして、地上にいる、御心に適う人に平和があるように。
クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の栄光を現す方であり、地上に平和をもたらしてくださる方でもあるということですね。
そのことを神ご自身が、天使たちの賛美によって宣言してくださったのです。
それがクリスマスなんですね。
けれども、ここで気になることがありますね。
平和は、「御心に適う人にあれ」と歌われているんです。
そう言われますと、私たちとしては、自分が神の御心に適っているかどうかが気になります。
でもこれ、気にしなくていいんですね。
この言葉は聖書の原文を見ますと、「神が愛してくださっている人」という意味なんです。
神様が愛してくださるのは、特別な人だけではありません。
どんな人でも神様は愛してくださいます。
私たちがどのような者であっても、どれほど罪深くても、それによって神様の愛からもれてしまうということはありません。
だから今、羊飼いたちに対して、イエス様がお生まれになられたことが伝えられているんです。
これ、考えてみれば不思議なことですよね。
救い主が生まれたということ。
それは別に、わざわざ人に伝えなければならないようなことではないですね。
時が来れば、救い主は成長して大人になって、神の働きをなさるようになります。
それはイエス様が30歳になってからのことなんですが、だとしたらなおさら、わざわざ今、そんなことを伝えなくてもいいはずです。
けれども、この時には、羊飼いたちにキリスト誕生の知らせが伝えられました。
そこに、深い御心があります。
それは、この羊飼いという人たちはどういう人として扱われていた人たちだったかということなんです。
それは、この場面を見るだけでもわかります。
羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたんですね。
仕事中だったわけです。
けれども、考えてみると、これは不思議なことです。
少し戻って、隣の頁の下の段の2章の3節を見てください。
人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、ふるさとに帰っていたんでした。
これは、今で言うところの国勢調査ですね。
もちろん、イエス様の両親のヨセフとマリアもふるさとに帰っていました。
それなのに、この羊飼いたちは今、仕事中であるわけです。
彼らは住民登録をしなくていいんでしょうか。
しなくていいんです。
というよりも、彼らは、登録をする必要もない人たちだと思われていました。
羊飼いの仕事というのは、24時間、365日です。
言ってみれば、すべての時間を羊にささげる仕事です。
ですから、羊飼いたちには、社会的な責任を果たすことができません。
例えば、軍隊に行けと言われても、行くことなんてできないわけです。
そのために、羊飼いたちは、人々からさげすまれていました。
彼らは住民登録をしていませんから、言ってみれば戸籍がないわけです。
社会的には人間ではないわけです。
もう本当に、見捨てられたような人たちだったんです。
その羊飼いたちに、クリスマスのメッセージが最初に伝えられました。
ここにある御心、分かりますよね。
誰も、神様の愛からこぼれ落ちることはないんです。
神様は誰も見捨てないんです。
けれどもここで、思わされます。
天の大軍は「地には平和」と歌いましたが、地に、本当に平和があるのでしょうか。
ヨセフとマリアは住民登録をするために、100キロも旅をしなければなりませんでした。
それが、この世の支配者の力ですね。
言ってみれば、イエス様は、この世の力に追いやられて、そこで生まれたんです。
それだけではありませんよね。
103ページの上の段の最初の行ですが、そこを見ますと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。
誰もマリアとヨセフを泊めてくれなかったんです。
住民登録のためにたくさんの人が旅をしなければなりませんでしたから、どの宿屋も人でいっぱいで部屋がなかったのかもしれません。
それにしたって、マリアはもうお腹が大きかったのに、誰も泊めてくれないというのはどういうことなんでしょうか。
イエス様は、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、生まれたんです。
これを平和と呼べるでしょうか。
今日の場面では、羊飼いたちに天使のメッセージが与えられるんですが、羊飼いたちは他の人たちから人間扱いされません。
それを平和と呼べるでしょうか。
そして、考えてみれば、そのような状況というのは、今の私たちの身の回りにも、いくらでもあるのではないでしょうか。
しかし、だからこそ、こう言うことができます。
神は、私たちの側に立ってくださっている。
人の力に追いやられることがある私たちです。
人の心に追いやられることのある私たちです。
それを経験したことのない人は誰もいません。
だからこそイエス様は、私たちと同じ立場に立ってくださるんですね。
イエス様は私たちの側に立ってくださる方なんです。
私たちの苦しみや悲しみを共に背負ってくださる方なんです。
そのために、この世に生まれてきてくださったんです。
だから、10節で天使は言っていますね。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。
これは羊飼いだけではなくて、どの人にも当てはまる、大きな喜びなんですね。
神が、この私のところに来てくださった。
神がこの私と共におられる。
それは誰にとっても大きな喜びです。
私たちが人の力に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
私たちが人の心に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
しかし、神はその私に寄り添ってくださる。
そこに、平和があります。
それだけではありません。
平和を歌ったのは誰でしょうか。
天の大軍です。
天使たちの軍隊が平和を歌ったんです。
どうして軍隊が平和を歌うのでしょうか。
そもそも、天の軍隊は何のためにあるのでしょうか。
天の軍隊は人の罪を打つためにあります。
しかし、今日、人を罪から救う救い主がお生まれになりました。
そのことを知っているからこそ、軍隊が平和を歌うのです。
そしてそれが、神の栄光だ、と天使は言っているんです。
人の罪のために神の子が命を投げ出すことが、神にとっての栄光なんだ、ということなんですね。
だから今日、天使は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」って言っていますよね。
これも、羊飼いのことだけじゃないんです。
私たち全員に当てはまることです。
そして、ここでは、「あなたがた」と言われています。
神にとって私たちは、「あなた」なんです。
神と私たちの関係は、「私とあなた」の関係なんです。
神が語りかけるのは世界全体に対してではありません。
人類全体に対してではありません。
神はこの私に語りかけてくださる。
そして、私たち一人一人のところに、救い主を送ってくださる。
この私の現実に、救い主が来てくださる。
それがクリスマスなんですね。
喜んで、イエス様をお迎えしたいと思います。
神様の平和が、神様に愛されている皆さんにありますように。