心の清い人々は幸い
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章8節
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章8節
今日の御言葉を聞いたら、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。
そうなんですか……、という感じでしょうかね。
何かこう、あまりピンとこない、と言いますか……。
「神を見る」と言われましても、という感じですね。
心の清い人々は神を見る、と言われているんですが、まあそれはそうかもしれないとは思いますが、私たちの中に、「自分は心が清い」と言える方が一人でもおられますでしょうか。
これ、イエス様の言葉なんです。
神の子を前にして、私は心が清いです、と言えますかね。
それだけではなくて、心の清い人は神を見る、と言われております。
そんなことを言われてしまいますと、私はこの目で見たことがない、だったら私の心はどうなのか、と考えてしまいそうです。
ただ、ここで言う「心が清い」とはどういうことなのでしょうか。
「神を見る」とはどういうことなのでしょうか。
私たちの感覚で言うと、私たちは心が清いとはなかなか言えないし、この目で神を見たとも言えないわけです。
けれども、これはイエス様が言っていることなんですね。
神の言葉なんです。
人間の言葉ではないわけです。
ということは、私たちはこの言葉を私たちの感覚で理解しようとしても仕方ないんですね。
では、一体、神の言葉で「心が清い」と言ったら、それはどういうことなのでしょうか。
この「清い」という言葉は旧約聖書によく出てくる言葉ですね。
旧約聖書では、どういうものが清い、どういうものが汚れているということが良く言われます。
例えば、旧約聖書のレビ記には、そのことばかりずらずらっと書かれている個所もあります。
そこでは、ある病気などが汚れているとされています。
そして、それが治ったら清いと言われるんですね。
例えばある種の重い皮膚病がそうです。
レビ記13章には、皮膚に白い湿疹ができて、その部分の肉がただれて、その部分の毛が白くなっているなら、それは汚れていると言うことだと書かれています。
そして、それに続くレビ記14章では、それが治ると清いと言われるんですね。
旧約聖書は、そういうことをいろいろ書いて、清いとか汚れとかいう意識を持たせようとしているわけなんです。
食べ物のことでもいろいろ書かれています。
例えば、うろこのない魚は汚れていると言われます。
うなぎ、エビ、イカ、タコなんかはそうですよね。
こういったものは汚れているから食べてはいけないという話になるんです。
ただこれ、理由がはっきりしないんですね。
旧約聖書ではうなぎとかエビとかイカとかタコとかが汚れているということになっていて、食べてはいけないことになっているんですが、そもそも、聖書の一番最初のページには、神様が造られたすべての生き物はすべて良いものだったと書かれているわけじゃないですか。
良いものなのに汚れているなんて、どういうことでしょうか。
これは要するに、「清い」とか「汚れている」という言葉を文字通りに受け取ってはいけないということですね。
文字通りの意味ではないんです。
全ては神様が造られた良いものなんですから。
うろこのない魚がダメな生き物なのではないんですね。
では私たちはこれをどういうふうに理解すればいいのか、ということなんですが、聖書のそのページを開きますと、食べてはいけないもののリストの最後に、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているんですね。
あなたがたは神の民だということなんです。
だから、神の民である証として、食事からして、他の人たちとは違う食事をしなさいということなんですね。
そしてそれが、聖なる神の命令だから、食べていいもののことを「清い」、食べてはいけないもののことを「汚れている」と表現したんです。
食べていいのかいけないのかを決めたのは聖なる神だからです。
ですので、理由ははっきりしないんですが、神の命令だから食べない。
とにかく、神の言葉に従う、ということですね。
それでこそ神の民なんだ、ということを、誕生したばかりの神の民に教えようとしたんです。
ですから、この「清い」とか「汚れている」という言葉は、そういう感覚を持つことが「御心に適っている」というくらいのことなんですね。
理由は分かりません。
理由を言わずに「とにかくこれはだめ」、「これはいい」と言われているんですね。
それは言ってみれば、子どもに対して教える時の教え方ですね。
理由を言わずに、とにかくやらせる、やめさせる。
それは相手が子どもだったら仕方ないことですね。
本当に小さい子どもに対しては、そういう教え方をするしかありません。
そして、この、旧約聖書のレビ記の言葉が伝えられた時には、神の民は、まだ神の民としてほんの小さい子どもだったんです。
この時、まだ、神の民はできたばかりのグループで、自分は神の民だ、ということもまだよく分かっていなかったんです。
まだ神の民として子どもだったんですね。
自分が何者なのかも良く分かっていない子どもだったんです。
ですので、この時はそういう教え方をするしかありませんでした。
けれども、イエス様が来てくださって、もっとしっかり理解できるように神様の御心を伝えてくださって、神の民は大人になりました。
ですので、今は食べてはいけないものというのはないんです。
そのことは新約の使徒言行録10章にはっきり書かれています。
また、重い皮膚病が汚れているということでもありません。
イエス様はわざわざらい病の人に手を触れていやしたんでした。
もし本当に汚れているんだったら、イエス様だって触りません。
要するに、理由も聞かずに言われた通りにしなさいという教え方をする段階は卒業したんです。
イエス様ははっきり言っていますね。
この福音書の15章11節ですが、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と言っています。
食べ物が問題じゃないんですね。
人の言葉こそが問題なんです。
私たちが何を語るのかが本当に大事なことなんです。
そして、言葉は私たちの心から出てきますから、本当に大事なのは私たちの心なんです。
ある食べ物を食べたり食べなかったりして、それで神様の言葉を守れたかどうか、なんていう段階の話ではもうないんです。
そういうことですから、旧約聖書にはルールがたくさんありますが、イエス様のルールは一つだけですね。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。
これですね。
これが大事なんです。
最初はまずはどんなことでも「はい」と言って神様の言うことを聞くことも大事だったでしょうが、結局神様が私たちに望んでおられることは互いに愛し合うことですから、それだけが本当に大事なことなんです。
ただ、そうなりますと、やっぱり、「心が清くなければならない」と思いますね。
ただ、清いというのも汚れているというのも、御心に適っているかどうかを表す言葉だったんでした。
ということは私たちは御心を知らなくてはならないですね。
自分で判断することではないわけなんですから。
そして、もっと大事なことは、どうして、何かが清い、何かが汚れている、と言われるのか、ということです。
「これは清いから大丈夫」、「これは汚れているからダメだ」というルールがたくさんあるわけですが、それは、「清いんだったら神の前に出ることができる」、「汚れている間は神の前に出てはいけない」ということなんです。
要するに、その人が御心に適っていて、神の前に出ることができるかどうか、という話なんですね。
では、どういう人が御心に適っていて、神の前に出ることができるのでしょうか。
まさにこのことをイエス様が話してくださった場面があります。
これは聖書を開いていただきたいんですが、ルカによる福音書18章10節からのところです。
少し長いのですがお読みいたします。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
御心に適っていたのは徴税人でした。
本当の意味で神の前に出ることができたのは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うことしかできなかったこの人なんですね。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。
そういうふうにしか言うことができないとしたら、この人は、自分の心が清いなどとは思っていないわけです。
それに対して、ファリサイ派の人は、自分では、自分は御心に適っていて神の前に出ることができると考えていますよね。
この人は自信満々でした。
でも、この人は清い人ではなかったんです。
人間の考えと神様の考えは違うんですね。
だから私たちはいつも御心を求める必要があります。
意識して自分の考えを退ける必要があるんです。
しかし、どうして、このたとえ話はこういう結論になったんでしょうか。
どうして徴税人は御心に適っていたんでしょうか。
徴税人は、自分の罪を悔いています。
ひとつには、そのことがあるでしょう。
私たちには皆、罪があります。
神に対する罪ですね。
神に背くという罪です。
私たちは皆、いつもいつも神様に従っているわけではありません。
私たちは皆、御心に適う者ではないんです。
清い者なんかではないんです。
神の目に私たちはそうなんです。
だとしたら、自分の罪を悔いるということは、御心に適うことになりますね。
それだけではありません。
ファリサイ派の人はどういうふうに祈っているでしょうか。
この人は、自分と他の人を比べています。
自分は他の人より立派だと言っているんです。
この人の心は、神様に向かっていないんですね。
それに対して、徴税人はどうでしょうか。
目を天に上げようともしないんです。
しかし、この人の心はどうでしょうか。
ただ、神の憐れみを求めているんです。
それが御心に適ったんですね。
ですから、「心の清い人」という言葉は、御心に適う人、ということなんですが、それをまた、こういうふうに言い換えることもできるかもしれません。
心の清い人というのは、自分の罪を悲しみながら、神様を求める人である、ということですね。
そして、そのような人は神を見ると言われています。
それは、私たちが頑張って自分の心を清めていって、私たちの心がいつか清くなったら神を見ることができるということではありません。
このたとえ話からは、こう言うことができます。
私たちが、自分の罪を悲しみながら、一心に神を求めるなら、私たちは神を見出すことになる。
この徴税人を神様はどう扱ってくださいましたか。
この人は「義とされて家に帰った」と書かれています。
義というのは神の前に正しいということです。
罪を悔いて神を求める人に、神は、「それでいいんだよ」と言ってくださるんです。
私たちは、その、神の赦しを見出していく、赦しの神を見出していくんです。
「神を見る」とはそういうことでしょう。
そうなりますと、私たちは皆、「心の清い人々」と言われる資格は十分にあるのではないでしょうか。
そして、その私たちを神は義としてくださっています。
私たちはそう信じていいんです。
まして、私たちは、今、私たちの罪をゆるす十字架の主の前にいます。
私たちは今、まさに神を見ているんです。
ですから、こう言われています。
「心の清い人々は、幸いである」。
私たちこそ、まさに、幸いな者なのです。
