憐れみ深い人々は幸い
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章7節
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章7節
今日の話も私たちにとって分かりやすい話ではないかと思います。
「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われますともう、そうですね、という感じですね。
しかし、ここで言う、「憐れみ深い」とはどういう意味なんでしょうか。
聖書で「憐れみ」と言ったら、まず神様を指してつかわれる言葉なんですね。
イエス様も、そういうつもりで「憐れみ」という言葉をつかいます。
憐れみについてのイエス様の話、と言いますと、私はルカによる福音書の10章25節からの「善いサマリア人」という話を思い出すのですが、その話の中で、「憐れみ」という言葉が出てきますね。
どういう話だったかと言うと、まず、強盗に襲われて殺されかけて、倒れている人がいるわけです。
そこをたまたま通りかかったサマリア人は、「その人を見て憐れに思い」、助けたということですね。
憐れんで、助けた。
ここで大事なのは、サマリア人というのは、ユダヤ人と敵同士なんです。
ですからこの話は、もう少し深い話なんですね。
単にかわいそうだったから助けたという話ではないんです。
ただ、この話では、倒れていた人がユダヤ人だったとは書かれていません。
まあ、場所がイスラエルですから、ユダヤ人かサマリア人だったんでしょうけれども、もしかしたらローマ人だったかもしれないんですね。
ですので、この話というのは、相手が誰であれ助けるということなんです。
相手が誰なのかは問題じゃない。
と言うか、相手が誰であるかを問題にしない。
敵であれ味方であれ、助けを必要としている人を助ける。
その人が助けを必要としているから。
もう本当に、憐れみにだけ集中しているような憐れみなんです。
自分の立場がどうのとか、相手の立場がどうのとかじゃないんですね。
それが神の憐れみなんだ、とイエス様は言うんです。
そうなりますと、これは私たちが憐れみと言っているものとは違うわけです。
私たちの「憐れみ」は、単に弱い立場の人を助ける、困っている人を助ける、というだけのことですよね。
でも、イエス様の言う憐れみは、どんな相手でも、相手がどういう人かなんていうことを全く気にせずに助けることなんです。
助けるというより、愛すると言った方がいいかもしれませんね。
何しろこのサマリア人は、死にかけている人に手当てをしてあげただけではなくて、宿屋に連れて行って、宿屋で2万円を払って、宿屋の主人にお世話をしてくれるようにお願いしたんです。
「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで言って。
これはもう助けたというより愛した、というくらいのことですよね。
つまり、イエス様の言う憐れみというのは、相手がどんな人でも愛するっていうことなんです。
心したいですね。
私たちは、自分と相手の立場の違いとか相手の性格とか行いとか、そういうものをまず最初に見ますけれども、それを見てしまったらなかなか愛せないんですね。
そういうものというのは、自分と違うからです。
立場とか性格とか行いとか、そういうものがまったく一致している人って、そうはいないからです。
だから、逆に言って、神の憐れみを私たちが持つことができるとしたら、それは、自分と相手に同じものを見いだすことが大切なのかなとも思います。
注目したいのが、ここでつかわれている「憐れみ深い」という言葉なんですね。
新約聖書はギリシャ語で書かれているんですが、この言葉をユダヤ人の言葉、旧約聖書の言葉であるヘブライ語に直すと、そのもとの意味は、「母の胎」を意味する言葉なんですね。
お母さんにとってお腹の中にいる赤ちゃんというのはどんなものでしょうか。
もう、自分と子どもが別物だと思えないんじゃないでしょうか。
自分の内に、命がある。
自分にも命があるんですが、自分の内にも命がある。
まだ顔を見ることもできないんですが、命がある。
自分の命も子どもの命も、同じように尊い。
どちらの命も、神から与えられた命。
それを見つめるなら、私たちも憐れみ深い者にされていくんでしょうね。
しかし、私たちはいつもいつもそうすることができるでしょうか。
「憐れみ深い」と言われるほどに私たちが神様と心を一つにするようにして、すべての人をいつも憐れむことができるでしょうか。
そう考えてしまうと、なんだか落ち込んでしまいそうです。
しかし、イエス様は私たちを落ち込ませるためにこんなことを言っているのではないんですね。
イエス様は私たちに、「憐れみ深い人々は幸いである」と言っておられます。
イエス様は私たちに幸いになってほしいんです。
憐れみ深い人々はどうして幸いなのでしょうか。
「憐れみを受ける」からだと言われていますね。
神様が私たちを憐れんでくださるから、私たちは幸いなんです。
実際、私たちは神様の憐れみを受けているじゃないですか。
私たちはもともと、神様に背く者でした。
神様に従えない者でした。
しかし、そのような、神の敵だったのに、私たちは赦していただいたんだと聖書は言います。
敵である私たちを神様は赦してくださったんです。
もう少し正確に言うと、私たちが受けるはずだった罰を、代わりに神の子が受けてくださったんですね。
それが十字架です。
それによって、私たちが神のもとに帰る道が開かれたんです。
私たちはまさに、神の憐れみを受けているんです。
もう受けているんです。
私たち自身はまだまだイエス様の言うようなことはできないけれども、私たちはすでに、神の憐れみを受ける、幸いな者です。
ということは、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」というのは、「もしあなたがたが頑張って、神様のように憐れみ深くなったら、その時には神様が憐れんでくださるよ」ということではないんですね。
私たちはもう憐れみを受けているんですから。
そして、イエス様から、憐れみとはどういうものであるのかも聞いています。
だから、私たちは、憐れみ深くなることができます。
もし私たちが本当の憐れみがどういうものなのかということを聞いていなかったら、私たちは憐れみ深くなることはできないでしょう。
普通に考えて、憐れみというのは、ただ、困っている人を助けるというだけのことです。
でもそうじゃないんですね。
本当の憐れみというのは、相手がどのような人であっても精一杯愛することなんです。
また、話を聞いただけでは、私たちは実際にやってみようという気にはならないでしょうね。
私たちは、神様の憐れみについて聞いていて、その神様の憐れみを実際に受けているから、そうなりたいと思えるんです。
神様の憐れみは全く常識外れですよ。
けれども、そんな常識外れのことをしてまで、神様は私たちをご自分のもとに引き寄せたいんです。
1人も失われてほしくないんです。
逆に言うと、私たちは、常識外れのことをしなかったら、普通に考えたんだったら、滅ぶしかないような存在なんだということです。
どうしようもない存在だということなんです。
神の目にはそうなんです。
私たちはまさに神の敵なんです。
けれども、そんな私たちでも、神様はどんなことをしてでも赦したい、救いたい、失われてほしくない。
それが神の憐れみなんですね。
それが、今、私たちに及んでいます。
では、その私たちは人に対してどのようにあるべきでしょうか。
イエス様は言います。
「憐れみ深い人々は、幸いである」。
