いよいよイエスが逮捕される。
イエスがまだ話している内に、ユダがやってきた。
たくさんの人たちも、剣や棒を持って一緒に来た。
しかし、たくさんの人たちが武器を持ってやってくるというのはどういうことか。
ここにいるのはイエスと弟子たち。
12人しかいない。
それなのに、他の福音書を読むと、軍隊の専門用語が使われていて、500人くらいの人たちがやってきたと書かれている。
12人を捕まえるのに、500人の人が武器を持って取り囲む必要はない。
それなのにそんなことをするのは、イエスの力を認めているということ。
イエスの敵は、イエスの力を恐れている。
ユダもそう。
ユダは、連れてきた人たちに誰がイエスかを教えるために、イエスにキスをした。
どうしてキスをするのか。
指をさして、あれがイエスだと教えればいい。
キスをするというのは、イエスを愛しているということで、自分がイエスの弟子だというポーズ。
どうしてそんなポーズを取るのか。
結局、ユダもイエスが怖い。
だから、まっすぐに指をさすということができない。
イエスの力を認めている人たちが、イエスを捕まえようとする。
イエスの力を恐れているのに、人間の力でイエスを殺そうとする。
人間というものは神を認めたくないもの。
イエスは何と言ったか。
「友よ、しようとしていることをするがよい」。
裏切り者のことを「友」。
「しようとしていることをするがよい」。
ユダのことも、これから自分が受ける苦しみも、受け入れている。
この時、弟子の一人が敵の一人を剣で切りつけた。
なぜこの弟子はそんなことをしたのか。
イエスを守るためか。
しかし、相手は500人。
どうにかできる相手ではない。
イエスを守ろうと考えたというより、正しい判断が出来ていない。
この弟子も、恐れている。
恐れに支配されて、剣を振り回した。
そして、恐れているのはユダも同じ。
イエスを捕まえに来たたくさんの人たちも同じ。
イエスは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言った。
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。
そして、ここにいる人たちが剣を取ったのは、恐れているから。
恐れる者は皆、恐れで滅びる、ということにもなるだろうか。
イエスは、恐れている弟子たちを落ち着かせるために言った。
「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」。
恐れる必要はない、ということ。
神の力は、人間とは比べられないくらいに大きい。
そして、これから実現するのは御心なんだと言った。
「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。
今、神の言葉が実現しようとしているんだ。
私たちは、このイエスの言葉を理解できれば、恐れることはなくなる。
一つには、神の力の大きさ。
もう一つは、神の言葉は実現するということ。
この二つを知っていれば、恐れることは何もない。
考えなければいけないことというのは、いつもあるだろう。
しなければいけないことも、いつもあるだろう。
でも、恐れる必要はない。
神の力は人間の力よりも大きく、神の言葉は実現するから。
そして、恐れがないのなら、私たちは、このところに出てきている人たちとは逆の心になる。
今日の人たちはどうだったか。
恐れていて、でも、自分の思いを実現しようとして、ただ、自分でも自分が何をしているのか、良く分からなくなっている。
イエスの力を認めているはずなのに、おかしなことをしてしまう。
それは、弟子たちも皆同じ。
イエスの力を信じているからついて来たはずなのに、最後にはみんな逃げ出してしまう。
こんなおかしなことはない。
人間は神を認めない。
認めたとしても、恐れてしまうと、おかしなことになってしまう。
私たちは、神の力と御心を正しく知る必要がある。
神には想像できないくらいに大きな力がある。
しかし、その力で神はどんな御心を実現させるのか。
神の御心は、人を救うこと。
そのために、人に代わって苦しむことが、神の御心。
私たち人間は苦しむことが嫌い。
当然そう。
だから、自分の思い通りにしたい。
しかし、神の御心は、私たちが苦しまなくて済むように、代わりに苦しんでくださるということ。
けれども、この時には誰もそれを理解できなくて、おかしなことばかりしてしまった。
神の御心は親の心。
人間の心は親の気持ちが分からない子どもの心。
親は子どものために自分が犠牲を払うつもりがある。
しかし、子どもはそれが分からなくて、暴れることがある。
そうであったとしても、親には子どもを受け入れる気持ちがある。
罪人を救うために十字架にかかってもいいというのがイエスの親心。
だから、イエスは言う。
「友よ、しようとしていることをするがよい」。
人を救うためなら、弟子に裏切られても構わない。
人間は親に対して暴れている子ども。
そんな人間に対しても、イエスの心はどこまでも親の心。
この時には、誰も神の御心を知らなかった。
しかし、私たちは知っている。
イエスはもう、私たちを救うために、すべての苦しみを受け入れてくださった。
私たちが受けるはずだった一番大きな苦しみは、もうなくなった。
ただ、私たちがこの世で生きていく中で、小さな苦しみはある。
小さいとは言えない苦しみもある。
私たちも、私たちの周りにいる人たちも、親に対して暴れるような子ども。
この世の中で生きている中で苦しまない方がおかしい。
しかし、私たちが受けなければいけないと決まっていたはずの一番大きな苦しみは、もうイエスが引き受けてくださった。
私たちの誰にもできないことを、私たちのためにもうしてくださった。
それを知ったら、私たちの心は変わる。
私たちも、何かあると剣を取るようなことがあったかもしれない。
しかし、今は違う。
私たちは、神に救われた。
もう、救われている。
神が救ったんだから、実はそうではなかったということはない。
神の心が変わって、やっぱり止めたということもない。
恐れる必要はない。
剣を取る必要はない。
そんな気持ちにならなくていい。
救いは、いつも、私たちにある。
私たちが生きる中で、苦しむことはある。
しかし、イエスは剣を取らずに、私たちを救ってくださった。
神の力で。
その神の力が、今のこの私たちに及んでいる。
それが、私たちが救われているということ。
だから、私たちは信じたい。
私たちの今のこの苦しみからも、イエスは、剣を取るのとは違う仕方で、私たちを救ってくださる。
宣教師としてハンガリーに行っている先輩の牧師から、話を聞いた。
ハンガリーの改革派教会は、大変な苦しみの中を歩んできた。
ハンガリーには500年前に改革派信仰が伝えられたが、ハプスブルグ家はカトリック教会を守るために改革派教会を迫害した。
拷問を受けることもあり、国外に逃亡する人も多かった。
その後、オーストリア・ハンガリー帝国ができると、プロテスタント教会も自由に伝道できるようになったけれど、オーストリア・ハンガリー帝国が第一次世界大戦に負けると、国の領土は三分の一になってしまい、教会も分裂させられてしまう。
第二次世界大戦の後にはハンガリーは共産主義の国になった。
教会にはスパイがいて、すべてのことが国に知られている状態。
伝道はほとんど認められなかった。
そんなことがあっても、教会は立ち続け、その時その時、傷ついた人たちを助け続けて、今、ハンガリーの改革派教会は、国内で、カトリック教会の次に大きな教会になっている。
その、ハンガリー改革派教会のエンブレムには、聖書の言葉が書かれている。
ローマの信徒への手紙8章31節。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」。
神の力が、ハンガリーの教会を守ってくださった。
祝福してくだった。
力のある人たちが迫害しても、国が戦争に負けて分裂しても、国が信仰を認めない国になっても、神は信仰を守り通してくださり、いやもっと多くの人が信じて救われるようにしてくださった。
今日のイエスの言葉にもあった。
神は力ある神。
そして、その神の御心は、私たちを救うこと。
恐れることはない。
剣を取るのとは違う仕方で、神は私たちを救ってくださる方。
神は私たちの味方。
誰も、わたしたちには敵対できない。