2026年03月27日「心を新たに」

問い合わせ

日本キリスト改革派 北中山教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

この手紙を書いたのはパウロという人です。
まず、この人は、キリストとだいたい同じくらいの時代に生まれました。
けれども、すぐにキリストに従うようになったわけではありませんでして、もともとはキリストの教会を迫害していた人です。
どうしてそんなことをしたのかと言いますと、この人はユダヤ教のエリートだったんですね。
ガマリエルという当時一番のユダヤ教の先生のもとで学んだ人で、この人自身、非常に頭の良い人でした。
この人は後にクリスチャンになりましたので、世界で一番有名なクリスチャンになったわけですが、ある人は、「クリスチャンにならなかったとしても、パウロは歴史に名を残しただろう」と言っています。
それくらい能力的に優れた人であったわけです。
ユダヤ教の中で将来を期待されてもいたわけですが、30過ぎでそれまでのすべてを捨ててクリスチャンになり、60歳くらいまで伝道して、世界中に教会を建てました。
ただ、パウロは手紙を書く時にギリシャ語で書いたんですが、そのギリシャ語はちょっと、というかだいぶん下手なギリシャ語なんですね。
無理をせずに自分の言葉であるヘブライ語で書けば良かったんじゃないかとお思いになるかもしれませんが、ギリシャ語というのは今の英語です。
当時の世界で、最も広い範囲で通用した言葉なんですね。
ですので、いろいろなところにある教会に手紙を書くにあたっては、ギリシャ語が一番都合が良かったんですね。
ただ、パウロのギリシャ語には問題がありまして、個所によっては、ヘブライ語の語順でギリシャ語の単語が並んでいるようなところもあります。
パウロが筆をとって手紙を書いたのではなくて、パウロが口でしゃべって、それをそばで聞いている人がそのまま紙に書いたんですけれども、ギリシャ語の間違いがたくさんあるんですね。
言葉でしゃべるだけでこれだけの内容の話ができるわけですからやはり大変優秀な人なんですが、パウロにとってギリシャ語は外国語で、外国語となるとパウロも苦手だったんですね。

そして、それ以上に、パウロの働きが難しいものになる点がありました。
パウロはどうやらイエス様の直接の弟子たちから良く思われていなかったらしいんですね。
使徒言行録を読みますと、エルサレムにやってきたパウロが逮捕されたことがあったことが記されていますが、その時、大騒ぎになって、エルサレム中の人がそのことを知ったということなんですが、エルサレムの教会の、イエス様の直接の弟子だった人たちは誰も助けに来ないんですね。
完全に見捨てられているんです。
どうしてそんな冷たい態度をとられたのかと言いますと、イエス様の直接の弟子たちは、キリスト教徒になるためには、まず、ユダヤ教徒にならなければいけないと考えたんです。
ユダヤ教のルールをきちんと守った上で洗礼を受けてクリスチャンになるべきだと考えたんですね。
パウロは、そういうふうには考えなかった。
そこで、対立することになってしまったんですね。
しかし、対立、と言いましても、どうやら互角だったわけではないようでして、パウロが書いた手紙を見る限り、パウロは相当に追い詰められていたようです。
しかし、その後の歴史を見ますと、神が選んだのはパウロだったんですね。
新約聖書の三分の二はパウロが書いた手紙です。
パウロは何も、聖書を書こうと思って、いくつもの教会にあてた手紙を書いたわけではありません。
パウロが熱心に、教会を指導した。
その記録が、時代を超えて読み継がれて、書き写されて、後に、聖書に収められることになったんです。
そして、パウロの伝道に始まって、世界中に教会が建てられて、今ここにも教会が建っているんですね。
それに対して、イエス様の直接の弟子たちもエルサレムに教会を建てたわけですが、その教会は今に残っていないんです。
今、エルサレムにキリスト教会がありますが、それはずっと後の時代に建てられたものなんですね。
イエス様の直接の弟子たちがいたエルサレム教会は、後になって、ユダヤ教に吸収されてしまったようです。

神様が選んだのはパウロだったんです。
パウロの伝道によって、教会は世界中に広がったんです。
そのパウロが今、キリストに結ばれた仲間たちに語っています。
「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」。
パウロは神の憐れみによって語るんですね。
この憐れみという言葉は聖書の専門用語です。
憐れみという言葉は、聖書では、何よりもまず神についてつかわれる言葉なんですね。
神は憐みの神なんです。
この憐れみという言葉は内臓という言葉が元になってできた言葉で、要するに、相手のことを思いやるあまり、自分まで胸が苦しくなるような状態を指す言葉なんですね。
つまり、神様にとっては私たちのことがご自分自身のことなんです。
そのような神の憐れみに沿って、パウロは語ります。
パウロを通して神が憐れみをもってこうしなさいと勧めるんですね。
この「勧める」という言葉は、もともとは「そばに呼ぶ」という言葉です。
頭ごなしにこうしなさいということではなくて、そばに呼んで、さとしてくださるんですね。
この言葉は聖書の他の箇所では、また別の言葉で訳されています。
勧めるではなく、「励ます」と訳されている場所があるんですね。
神の言葉は単に勧めるだけではなくて、「励ます」ものでもあるんですね。
やっぱり、頭ごなしなものではないんですね。
聞く人は励まされて、そうすることができるように力を与えられるんです。
この言葉にはさらに違う訳し方もあります。
「慰める」と訳されているところがあるんですね。
再び立ち上がることができるように慰められる言葉なんです。
そのような言葉をパウロは語ります。

まず、あなたがたの体を神に「献げなさい」と言われています。
この「献げる」という言葉は「そばに置く」という言葉です。
そばに置いて、相手のものとして自由に使ってもらうことですね。
自分の体を神に献げるというのも、自分自身を神に用いていただくことです。
ですので、ここは気を付けたいですね。
自分自身を献げるというのは、自分から自分の意志で奉仕していく、というのとは違うんです。
自分が自分のものではなく、神のものになることなんですね。
ああいうことをして神様に奉仕したい、こういうことをして神様に奉仕したいと考えるのでは、自分を神様に献げたことにはなりません。
私たちがどういうふうに用いられるのかは神様が決めるんです。
神様に主権がある。
自分がメインで奉仕していくんじゃないんですね。
神様に自分の主権を献げるんです。
自分が良いと思うことをするというのでは、献げたことにはなりません。
自分の考えに気を付けることが大切です。
自分が考えていることを神様の御心だと勘違いしてはいけないんですね。

だからここで、自分自身をいけにえとして献げなさいと言われていますね。
いけにえというのは、動物を殺して神様に献げることです。
命をささげるんです。
ただし、私たちは、「生けるいけにえ」だということですね。
生きている自分を神に献げるんです。
動物を殺して献げるように、自分の主権をなきものにして献げるんですね。
その上で、御心のままに用いていただくんです。
神のものとされた新しい自分として生きていく、ということですね。
それが「聖なる」ものとなるということです。

「聖なる生けるいけにえ」と言われていますが、「聖なる」という言葉が聖書でつかわれるときには、清く正しいという意味ではありません。
聖書で「聖なる」という言葉がつかわれたら、「神のもの」ということです。
自分のものではないということですね。
神のものであり、神のために用いられるものなんですね。
それでこそ、献げたことになるわけです。
そのことを、神は喜ばれると書かれています。

そしてそれが、私たちがなすべき「礼拝」なんだということですね。
礼拝というのは、神に自分を献げることなんですね。
私たちは日曜の朝、こうしてこの場所に集まって礼拝をしていますけれども、礼拝というのは、人生に一つの場面を付け加えるだけのことではないんですね。
私たちの生き方が全く新しくされることが礼拝なんです。
今まで自分は自分を生きてきた。
これからはその生き方をやめて、自分をすべて神に献げて、神に生かされていく。
自分が180度変えられることが礼拝なんです。
しかし、そうなりますと、自分がそういう礼拝をささげることができているか、不安になってしまいますね。
ただ、パウロは2節でこう語っています。
「自分を変えていただき」なさい。
変えていただきなさい、なんですね。
自分で自分を変えなさい、ではないんです。
変えていただく。
神様に変えていただくんです。
神様が私たちをそのようにしてくださるんですね。

私たちは、変えていただかなければなりません。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言われていますね。
この「倣ってはなりません」という言葉は、「型にはめられてはいけない」というような言葉なんですね。
この世は私たちを型にはめようとします。
そこから変えられなさいということですね。
こちらは、「形を変えられる」という感じの言葉がつかわれていまして、これは、新しい別の型にはめるということではなくて、中身の変化が外に現れるという意味合いの言葉です。
世の中の方にはめられたところから、神様に取り扱っていただいて、内側から変えていただきなさいということですね。
神様が私たちをそのように取り扱ってくださるんだから、それを願い求めなさいということです。
私たちは、自分で自分を変えることはできないんですね。
そもそも、自分で自分を変えるというのなら、それは、自分が自分のものだということで、それでは、自分を献げていないということになってしまうでしょう。
だからこそ、主権者である神様にしていただきなさいということなんです。
私たちは変えられて初めて、神を知りはじめることになります。
私たちは、そもそも神のことが分かっていないんですね。
それどころか、「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」も分かっていない。
何も分かっていないんです。
何もわかっていないと書かれてしまっているんです。
だからこそ、自分の思っていることや願っていることを、これが神さまの御心だと思い込んでいてはならないんです。
私たちは、そう思い込むくせがあります。
けれども私たちは、何も分かっていないんです。

だからこそ、私たちは神様に自分を献げる必要があります。
生き方が丸ごと新しくされる必要があるんです。
それは恐ろしいことではありません。
パウロはこの言葉を、神の憐れみによって勧めています。
ですからそこには、励ましがあり慰めがあります。
神の憐れみがあります。
なにも恐れることはないんですね。
そして、まさにそのように自分を献げて生きたパウロだからこそ、神様に大いに用いられたんですね。
パウロから始まって、今、世界中に、数えきれない教会があるんです。
そのパウロが私たちに言います。
「心を新たにして自分を変えていただきなさい」。
自分自身を、神様に献げましょう。
神様は私たちにおいても、素晴らしい業をなしてくださいます。
私たちは今、その約束の御言葉を聞いたんです。

関連する説教を探す関連する説教を探す