2026年03月16日「義に飢え渇く人は幸い」

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義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章6節

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「義に飢え渇く」ということが言われています。
何だか分かりにくい表現ですが、聖書で「義」と言ったら、神の正しさのことですね。
それに飢え渇くということはどういうことでしょうか。
神様の正しさが行われていない。
間違った人が堂々と間違ったことをしている。
それに我慢できない。
世の中一体どうなっているんだ、なんで自分がこんな目にあうんだ。
そういうふうに思う。
そして、本当に正しいことが行われるようになることを求める。
そういうことですね。
そういうことですとこれは、私たちみんなそうです。
私たちみんな、多かれ少なかれそう思っていますよね。
子どもだって思っていますよ。
これは昔話したことがある話ですが、私は幼稚園はキリスト教の幼稚園に通っていたんですね。
出身が神戸ですから、半分くらいの幼稚園はキリスト教の幼稚園ですから、別に信仰のない家庭であっても、子どもをキリスト教の幼稚園に入れるんですね。
そこで、先生たちから神様の話を聞くわけなんですが、やっぱり幼稚園児にとっては目に見えないことですので、神様と言われても良く分からないんですね。
そこで、同じ幼稚園に通っていた友人に聞きました。
「神様っているのかな?」。
その友人は答えました。
「神様がいるなら、こんな世の中のはずはないよ」。
幼稚園児がそんなことを言ったということに驚きますけれども、幼稚園児だって、世の中間違っていると思っているんですね。
考えてみますと、身の回りに、正しくないことが堂々と行われていることはいくらでもあるわけです。
私が以前、本気で世の中どうなっているんだと思ってしまったことがあったんですが、それは、東京の教会にいた時、近所に住んでいる車いすのおじさんのお手伝いをしていてなんですね。
そのおじさんとの出会いなんですが、教会の前を車いすのおじさんがコンビニの方に向かっていくんですね。
普通、車いすと言ったら手で車輪を回して進むんですけれども、手に力がないようで、足をパタパタ動かして、何とか前に進んでいるんですね。
それだと少しずつしか進みませんし、疲れておられるのか、10メートルごとに休みながら、なんですね。
それでお声をおかけしたら、すぐそこのコンビニに買い物に行くということでしたので、一緒に買い物して、家もすぐ近所でしたから、家まで行って、その日から、買い物のお手伝いをするようになったんです。
ですけれども、考えてみるとおかしいなと。
そのおじさん、完全に要介護なんですよ。
それなのに、誰も身の回りの手助けをしていないんです。
役所の人が月に一度くらい来ているようなんですが、病院に行くのすら手伝ってくれない。
独りで生活するのもままならないような人をほったらかし。
これはおかしいなと思って、教会にいらっしゃる看護師さんにお伺いしたところ、包括支援センターというものがあって、身の回りに事を何でも手伝ってくれるということでした。
しかし、どうして役所の人は何も教えてくれなかったんでしょうか。
どういうことなんでしょうか。
世界にはもっとおかしなことがあります。
これは2001年に出版された本で、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、『世界がもし100人の村だったら』という本ですね。
その中には、こんなことが書かれています。
「世界がもし100人の村だったら、100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。
これも、どうなんですかね。
先進国では食べ物を捨てているんですね。
そして、発展途上国では食べ物が足りないわけです。
しかし、先進国で余っている食べ物を発展途上国に送ることができれば、誰も飢えることはなくなるんだそうです。
この本には、他にもこういうことが書かれていました。
「もしあなたがいやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従ってなにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています」。
そして、この本の最後にはこう書かれていました。
「もしもたくさんのわたしたちがこの村を愛することを知ったならまだ間にあいます。人びとを引き裂いている暴力からこの村を救えます」。
私たちの身の回りにも、正しいことが行われていないと思うことはあるし、世界全体を見ても間違っているとしか言えないような現実があるわけです。
しかし、イエス様はそれについて、「幸いである」と言うんですね。
それは「満たされる」からだと言うんです。
「満たされる」ということは、神の義、神の正しさが実現するってことですよね。
それはどのようにしてでしょうか。
間違いが直されることによってでしょうか。
間違っている人が滅ぼされることによってでしょうか。
そうではないんですね。
神の正しさは、神が人を救う、というかたちで現れるんです。
新約聖書で神の義と言ったらそれは十字架のことです。
神の子キリストが人間の罪を背負って十字架にかかってくださったこと。
それが神の正しさだと言うんですね。
罪というのは聖書では、的外れということです。
神の正しさからずれているんですね。
もし神が、何の罰も与えずに罪を許したとしたら、神は罪を見過ごす間違った方だということになってしまいます。
でも神様はそのような方ではない。
罪を見過ごす方ではないんですね。
人は本来、裁かれるべき者なんですね。
私たちの身の回りを見ても、世界全体を見ても、神の目に正しいと言えるようなことはまずないわけです。
それは私たちだってそうですね。
私たちには私たちの在り方が普通だと思っていますけれども、でも例えば、この世界が100人の村だったとして、飢えている15人が、私たちが食べ物を捨てているのを見たらどう思うでしょうか。
日本は食べ物の2割を捨てているんです。
1年間に1人当たり152キロも捨てているんですね。
飢えている人はそれをどう見るでしょうか。
日本は外国から食料を買っている国です。
外国から買い集めて、捨てているんです。
その一方で、世界では6秒に1人、栄養が足りなくて子どもが死んでいるんです。
それを神様はどう見ますかね。
私は、食べ物を捨てる時、もったいないな、とは思うんです。
でもそれは、「自分のお金を無駄にしてしまった」という感覚ですね。
それは事実で、反省すべきことですけれども、自分中心の感覚でしかないんです。
聖書が罪だと指摘するのはそれですよね。
自分中心です。
それは私たちにとっては普通のことかもしれません。
けれども、私たちにとって普通のことが、神様の目にも正しいとは限りません。
いやむしろ、神の義というのは、滅ぼされるべき私たちの代わりに、神の子が罰を受けてくださったということですから、大変なことですね。
私たちは滅ぼされるべきものだと聖書は言っているんです。
しかし、神の義は、間違っている私たちを滅ぼすものではなかったんです。
正しいことを行えない私たちを何とかして救うものだったんです。

私たちは身の回りを見ても世界を見ても、間違っていると思うことがあります。
そして、本当の正しさが実現することを強く願います。
ただ、気を付けなければならないのは、私たちがそのようにして神の義を求める時、私たちは知らない内に自分を正しい側に置いてしまっているんです。
自分を神の側に置いてしまっているんですね。
けれども、神の子が私たちに代わって罰を受けたというのはどういうことでしょうか。
私たちは誰も正しくないんです。
私たちは皆、死に値するんです。
聖書はそう言っているんです。
私たちは神の目には、「世の中一体どうなっているんだ」、「なんで自分がこんな目にあうんだ」、そんなことを言う資格は最初からないんですね。
そういうふうに言いたくなることがない人というのはいないんでしょうけれども。
私たちみんな、「義に飢え渇いて」います。
それは満たされるんです。
ただそれは、私たちの考えもしなかった仕方でです。
神の子が命を投げ出してくださるという仕方で、なんです。
もうそれくらいしないと、どうしようもないくらい、私たちはみんな間違っていると神は言っておられるんです。

世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。
人の目にも、神の目にも。
私たち自身、誰かから見たら明らかに間違っています。
けれども、神はそんな私たちを救うんです。
世の中から間違ったことがなくなることはないでしょう。
けれどもそれも、神の義の中にあることだということです。
世界は丸ごと神の義の中にあります。
神は、人が、たとえ正しくなくても、とにかく人を救いたい。
正しくなくても、とにかく。
これは、愛しているということですね。
良く考えてみてどうするか、ということではないんです。
理屈ではないんです。
だから、命を捨てるところまで、人を愛し抜いたんです。
その愛の中に私たちは今、生かされています。
そのことを知っている私たちになら、私たちの目に間違っていると思うことがある時に、愛をもって何かをすることができるのではないかと思うんですね。
それが本当の意味で神の側に立つことではないかと思うんです。

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