2026年03月02日「神の国は近づいた」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章14節~15節

原稿のアイコンメッセージ

イエスは今まで、私たちと同じように洗礼を受けて、聖霊をいただいて、そして、私たちと同じように荒れ野で誘惑されました。
そして、今日からいよいよ、キリストとしての働き、救い主としての働きが始まります。
キリストの働きとは、「神の福音」を宣べ伝える働きだということですね。
福音というのは原文では、良い知らせ、という言葉ですが、神の与えてくださる良い知らせを告げ広める働きこそ、キリストの働きであるということです。
その他にもキリストは、病の癒しなんかもなさったんですが、そういうことをする時は、キリストはその人に、私が癒したということを誰にも言わないように、と言うんですね。
それはそれで大事な働きですが、言い広めるようなことではないということです。
また、イエスは、悪霊を追い出すという働きをなさることもありました。
それも救い主ならではの働きと言えますね。
ただ、その時、イエスは言うんですね。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。
神の国が来るということが大事なんですね。
今日の御言葉にも、「神の国は近づいた」とありますが、今日の個所を読むと、それが福音の内容であるわけです。
大事なのは福音です。
告げ知らせるべきなのは神の福音なんですね。

ただここで、「神の福音」と言われています。
これが1章1節では、「イエス・キリストの福音」と言われていました。
「イエス・キリストの福音」と言った場合には、イエスを宣べ伝えるということになります。
イエスが、宣べ伝えられるわけです。
それが、「イエス・キリストの福音」ということですね。
しかし今ここでイエス自身が、「神の福音」を宣べ伝えています。
イエスが福音を伝えています。
ややこしいことですね。
イエスは、宣べ伝える者なのか、宣べ伝えられる者なのか。
まず、今現に、イエスが宣べ伝えていますから、イエスが宣べ伝える者であることは間違いありません。
しかし、そのイエスの生涯全体に、神の福音があると言えます。
イエスの生涯において、神の福音が実現したんです。
イエスは確かに宣べ伝える者ですが、イエス無くして福音はありません。
ですから、この福音は「神の福音」であり、「神の子イエス・キリストの福音」なんですね。

ではこの福音、何が良い知らせなのか。
イエスの最初の言葉はこうです。
「時は満ち、神の国は近づいた」。
まず最初に、時が満ちた、と言われています。
新約聖書が書かれたのはギリシャ語ですが、ギリシャ語では時間という意味の言葉が二つあります。
同じスピードで過去から現在、未来へと流れていく時間のことを、ギリシャ語ではクロノスと言います。
このクロノスという言葉が元になって、英語のクロックという言葉ができました。
つまり、クロノスというのは、時計を見れば分かる時間のことです。
それに対して、ここで使われている「時」という言葉は、カイロスという言葉です。
それは、他の時とは違う、特別な意味を持つ時のことです。
その時、歴史が動いた、というような、ある特定のポイントのことです。
例えば、2011年3月11日は、他の日と同じ一日ではありません。
3月11日はカイロスです。
ここで言われている「時」なんです。

そのような時が満ちた、と言われています。
しかし、この時はどのような時だったでしょうか。
「ヨハネが捕らえられた後」だと言われています。
イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕まったのです。
ガリラヤの領主であるヘロデという人、この人は、イエスが生まれた時のヘロデ王の息子の一人ですが、その人が洗礼者ヨハネを捕らえました。
理由は、自分が法を破っていることをヨハネに指摘されたからです。
ヨハネは正しいことを言いました。
しかし、そのヨハネが捕らえられた。
まして、ここに書かれている「捕らえられた」という言葉は、原文では、「引き渡された」という言葉が使われています。
引き渡される、と聞きますと、後になってイエスが、イエスをねたんだユダヤ人の権力者に捕らえられて、ローマ総督ピラトに引き渡されて、死刑判決を受けたことを思い起こしますが、その同じ、「引き渡される」という言葉がここで使われているんですね。
そして、洗礼者ヨハネも、後でヘロデに首をはねられることになります。
正しいことを言うと、命がないんです。
時が満ちたとは思えない現実があったわけです。
人間の目で見る限り、神の福音を宣べ伝えるのにふさわしい時とは思えないわけです。
それでも、イエスはガリラヤに行きます。
ガリラヤはもともとイエスの出身地ですが、ヨハネが捕らえられた後でガリラヤに行くのは危険です。
ガリラヤはヘロデが支配している地域だからです。
しかし、イエスは、その働きを始めるに当たって、わざわざガリラヤに行って、そこで働きを始めたんです。

時は満ちた、と言われています。
この時は人間の時ではありません。
人間の目で見る限り、今の時は最悪の時です。
しかし、この時は、神の時なんです。
神の時ですから、人間の時とは無関係です。
人間の目にどう見える状況であったとしても、それを超えて、神の御業は実現します。
十字架と復活も同じことです。
人間の時とは違う、神の時というものがあるのです。

その神の時に当たって、「神の国は近づいた」とイエスは言いました。
「国」と聞きますと、私たちはまず、土地をイメージするのかもしれません。
国土というイメージであったり、地図のイメージであったり。
ただ、この「国」という言葉は、支配とも訳すことができる言葉です。
ですから、「近づいた」と言えるわけです。
神の支配が近づいた、ということですね。
また、ギリシャ語でもヘブライ語でも、国という言葉と王という言葉はほとんど同じような言葉ですから、神の支配というよりも、神が王になってくださる時が近づいたんだ、と言った方が良いかもしれません。
だとしたら、今のところ、何が王なのか、ということになるんですが、聖書は、人間は罪に支配されていると言います。
罪とは原文では的外れという言葉なんですが、アダムとエバが最初の罪を犯した時の物語から、罪という言葉を現代の言葉に置き換えると、エゴと言った方が近いような気もします。
そう考えますと、確かに私たちは、罪から自由ではない、エゴに支配されていると言えるわけです。
また、聖書では、サタンのことがこの世の支配者であるとも言われます。
とにかく、今のところ、ろくでもないものが王なんですね。
そのようなところに、神の国がやってくる、つまり、私たちは解放される、ということですね。
ですから、人を支配している悪霊を追い出した時にも、イエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言ったんです。
とにかく、ろくでもないものの支配を打ち倒して私たちが解放される神の国が近づいているんです。
神の国はそのような力あるものですから、どのような人間が、どのような考えでどのようなことをしようと、神の時を押しとどめることはできないんですね。
神の時は、ヨハネが捕らえられようと、イエスが十字架にかけられようと、神の御力によって必ず実現します。
だからこそ、「神の国は近づいた」という御言葉は神の福音なんです。

そして、その神の国が近づいているからこそ、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われるんですね。
「悔い改める」という言葉が使われていますが、原文では、「向きを変える」という言葉です。
そして、この言葉は、元々のヘブライ語では「帰る」という言葉です。
神に帰るということですね。
アダムとエバはもともと神の御許にいたのに、神に背いてそこにいられなくなった。
そこから、心の向きを変えて、神の元に戻る、神に帰る、ということです。
しかしこれは簡単なことではありません。
私たちはエゴに支配されているわけです。
言ったら、自分を神にしているわけです。
だから、アダムとエバは、食べてはいけないと神に言われていたのに、おいしそうだったという理由で、その木の実を食べてしまった。
それ以来、人間は神を受け入れようとはしない者なんですね。
神に王になっていただくよりも、自分の王は自分でありたい。
それが人間です。
サタンがあなたの王だ、エゴがあなたの王だと聞きますと、それよりも神が王であることの方がどれほど良いかと思いますが、支配されているものから自力で抜け出すというのは簡単なことではありません。
というよりも、理論上、不可能なことです。

ただ、ここで、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。
そもそも14節で、イエスは神の福音を宣べ伝えて、こういう話をしたんだ、ということでしたから、その話の内容にまで福音という言葉が出てくると、言葉がかぶってしまっているような感じになってしまいます。
ただ、これが重要なことなんだと思います。
14節で、神の福音ということが言われて、その内容が、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということは、私たちが福音を信じること自体が、神の福音なんだということです。
福音とは良い知らせという言葉ですが、知らせというのは外から届くものです。
つまり、知らせの内容というのは、私たちが関与していない事柄です。
元々この福音という言葉は、戦争に勝ったという知らせを意味する言葉でした。
戦勝の知らせを聞く人は、戦闘には参加していません。
知らせを聞くだけです。
犠牲を払っていません。
しかし、勝利には与るんです。
つまり、福音を信じること自体が神の福音だというからには、私たちが自分の力で成し遂げなさいと言われているのではないということです。
神が、信じられるようにしてくださるんです。
それはあたかも、悪霊に取りつかれて、口をきけなくされた人がいて、イエスが悪霊を追い出したところ、その人は口がきけるようになった。
そのようなことです。
しゃべれと言われてもしゃべれなかったんです。
でも、イエスが「神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」ということですね。
神の国が来るんです。
神の国の方からやってくるんです。
ですから、人間がどうのということではないんです。
人間のどんな力がうずまいていても、神の国は来ます。
人間にどれだけ力がなかったとしても、神の国は来ます。
その神の国が、今はまだ完成されていませんが、もう始まっている。
心の向きを変えていただき、神の元に帰らせていただきましょう。
人間というのは神の家にいられなくなったような者ですが、大丈夫です。
神が、帰って来いと言っているんですから、大丈夫です。
もう勘当を解かれたんです。
いやそれどころじゃないですね。
神が直々に、私たちを連れ戻しに来たんです。
帰るのが正しいんです。
神の元に帰らせていただきましょう。

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