荒れ野で
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 1章12節~13節
12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章12節~13節
今日の御言葉は、「それから」という言葉で始まっています。
原文を見ますと、ここには、「それからすぐに」と書かれています。
「すぐに」という言葉があるんですね。
この「すぐに」という言葉は、マルコによる福音書で、よく出てくる言葉です。
この前の場面の10節にも、「水の中から上がるとすぐ」という言葉がありました。
そして、この後も、「すぐに」という言葉が繰り返し出てくるんですね。
「すぐに」という言葉は、前の場面と今の場面を強く結び付ける言葉ですね。
今日の場面は前の場面と、実はワンセットだということです。
そして、今日の場面の前の場面は、イエスが洗礼を受けた場面です。
洗礼を受けると、聖霊が鳩のようにイエスに降ってきて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたということでした。
それが、ここでは、聖霊がイエスを荒れ野に送り出したというんですね。
この「送り出した」という言葉は、「追いやった」という言葉です。
聖霊がイエスを無理やり、荒れ野に行かせたわけです。
神様の御心に適っているということで、鳩のように降ってきた聖霊が、愛する子であるイエスを、荒れ野に追いやったんです。
イエスが神に愛されているということと、荒れ野に追いやられるということは、セットになっていることなんです。
これは一体どういうことかと思ってしまいますが、これは、私たちが経験している現実ではないでしょうか。
私たちも、洗礼を受けると聖霊が与えられます。
イエスと同じことです。
ということは、神にとって私たちも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」なんですね。
しかし、そうはいっても、私たちは、荒れ野のようなこの世の厳しい現実の中に置かれていることに変わりはありません。
いつの時代でも、「世の中狂っている」という言葉が聞かれますが、この世の現実というのは楽なものではありません。
イエスの現実は、私たちの現実です。
そもそも、聖書は、この世というものをどのように描いているか。
この世というのは、エデンの園から出ていったところなんですね。
聖書は、もともと人間は神の御許である楽園に住んでいたと言います。
しかし、神に背いたために、そこにいられなくなった。
神に背いたというより、アダムとエバのしてしまったことは、神から食べてはいけないと言われていた木の実を、おいしそうだったからということで食べてしまったということでしたから、神を無視して自分を優先したと言った方が正確ですね。
とにかく、そのことによって、罰が与えられました。
出産の苦しみと、人が人を支配する苦しみと、労働の苦しみが罰として与えられました。
そして、神の御許から離れて、罪と罰の現実の中を生きることになったんですね。
つまり、聖書は、この世は刑務所のようなものだと言っているんですね。
私たちは、この世で、神に背を向けて、エゴと苦しみの中を生きている。
この世は荒れ野なんです。
イエスは、その、荒れ野のような現実を私たちと共にしてくださっているということなんです。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられました。
サタンという言葉は「逆らう者」という意味の言葉なのですが、このサタンというものがどういう存在なのかは、聖書にまとまった形でたくさん書かれているとは言えません。
旧約聖書のエゼキエル書28章12節からのところを見ると、サタンはもともとは天使だったけれども、罪を犯すようになったものだとされています。
新約聖書のヨハネの黙示録12章7節からのところでは、サタンは天において、天使と戦って負けて、地上に投げ落とされたとされています。
また、そのヨハネの黙示録の12章9節と20章2節では、サタンのことが「年を経た蛇」と書かれまして、それはつまり、アダムとエバをだまして、食べてはいけないと言われていた木の実を食べさせた蛇は、実はサタンだったということですね。
そして、いずれにせよ、イエスの言葉によっても、新約聖書におさめられているパウロの手紙によっても、このサタンは「この世の支配者」とされています。
そう考えますと、この世は、刑務所どころではないですね。
刑務所よりもはるかにひどいところだということになるでしょう。
世の中がこんな世の中なのに、神なんているはずがない、と言う人がいますが、世の中がひどいところなのは当たり前なんですね。
テレビで流れるニュースも大体はひどいものですが、ひどいことがあって当たり前なんです。
むしろ、この世の中で美しい話が聞かれるとしたら、そちらこそ驚くべきことなんですね。
とにかく、サタンが神に逆らって罪を犯すものなんだとしたら、神の子イエスを憎むのは当然でしょう。
そこでサタンは、アダムとエバを誘惑したように、イエスを誘惑するんですね。
神の道を外れさせようとするんです。
これも、イエスが私たちの現実を共にしてくださっているということではないでしょうか。
私たちも、この世という荒れ野の厳しい現実の中にあって、様々な形で誘惑を受けることがあります。
そして実際に、道を外れてしまう人がいることを知っています。
私たち自身も、時として、道を外れることがあります。
私たちはアダムとエバの子孫だということですね。
しかし、イエスは、そのような現実を、わたしたちと同じように味わってくださっている。
洗礼を受ける必要もないのに、私たち罪人を背負って洗礼を受けてくださったことに始まって、イエスはこのように次々に、私たちの現実を共にしてくださっているんですね。
そして、その期間は40日間だったということですね。
40という数字は、聖書では大事な場面で出てきます。
新しいステージに入る時、聖書では、40という数字が出てくるんですね。
地上をいったんリセットするノアの箱舟の大洪水では、雨は40日40夜降り続きました。
その昔、エジプトで奴隷であった神の民が、自由にされてエジプトを脱出して、約束の地に入るまでの期間は40年でした。
では、今日のところでは、どのように新しくなるんでしょうか。
ここに、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と書かれています。
荒れ野には人間は住むことはできませんが、動物は住んでいました。
ヒョウ、クマ、イノシシ、ヤマイヌなどの野獣がいたそうです。
これも私たちの現実として読むことができます。
私たちの周りにも、私たちに野獣のように襲いかかろうとしているものがあると言えます。
そして、実際に、そのようなものに襲われることもあります。
これは、イエスの御言葉を思い出しますね。
イエスが、弟子たちを町々に派遣したことがありました。
それに当たって、わたしがあなたがたを世の人のところに行かせるのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだとイエスは言ったんですね。
世の人は狼なんです。
野獣なんです。
しかし、そもそもどうしてイエスが弟子たちを世の人のところに遣わそうとしたのかというと、世の人たちが飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て、胸を痛めたからだと書かれています。
神と離れてこの世の荒れ野で生きている人たちは、イエスの目に、飼い主のいない羊のように弱り果てているように映ったんですね。
ですけれども、いざ、弟子たちを派遣することになると、世の人は狼だと言うんですね。
世の人は、飼い主のいない羊です。
けれども、羊というのは、飼い主がいなくては生きていけない存在です。
ですから、神と離れてこの世の荒れ野で生きるのなら、羊のままでは生きていけない。
狼にならなくてはならない。
つまりイエスはいわば、この世の人というのは、狼の皮をかぶった羊だと言ったんですね。
羊の皮をかぶった狼という言葉の方が良く使われる言葉ですね。
それもまた別のところでイエスが話したことで、これはもう日本語になっているような表現ですね。
羊の皮をかぶった狼というのも、それはそれでもちろん野獣なんですが、狼の皮をかぶった羊というのが襲ってくることもあるんですね。
とにかく、この世の荒れ野には、いろいろな野獣がいるんです。
しかし、神は天使を遣わしてくださる。
だからイエスは守られたし、私たちも守られるんだ、ということなんですね。
ただ、この御言葉を、そういうふうに読むのとはまた別の意味で読むこともできます。
これは聖書を開いていただきたいんですが、新共同訳ですと、旧約聖書の1078頁、イザヤ書11章6節からのところです。
イザヤ書11章6節から9節に、こう書かれています。
「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」。
これは、世の終わりに地上に神の国が完成する時のことを語っているんですが、今日の、「野獣と一緒におられた」という御言葉は、世の終わりについてのイザヤ書の御言葉の先取りであると読むこともできます。
つまり、今日の御言葉は、天使が野獣からイエスを守ったと言っているのではなくて、イエスが野獣たちとも平和の内に共におられたと言っているのかもしれないんですね。
野獣との間にも平和が実現する、世の終わりの神の国の完成を先取りしているんですね。
考えてみますと、もともとアダムとエバは、動物たちと一緒にいたんですね。
創世記の2章で、神がアダムのところに、野のあらゆる獣を連れてきて、アダムが名前を付けたと書かれているんですね。
神の御許では、動物というのは恐ろしいものではなかったんですね。
ところが、ノアの箱舟の大洪水の後、創世記9章2節で、すべての動物は「あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」ということになったわけです。
なるほど、人間にとって野獣は恐ろしいですが、野獣からすると人間が恐ろしいということはあるでしょう。
そのような、お互いがお互いを恐れているところから、平和が実現していく。
そして、天使が仕えてくれる。
旧約聖書が書かれた時代の書物に、聖書には収められなかったんですが、『アダムとエバの生涯』という書物があります。
旧約聖書正典が現在の36巻に定められたのは西暦90年代ですが、聖書にはおさめられなかったとは言え、その時代までは、よく読まれていた本です。
その本の中では、エデンの園では、アダムとエバに天使が仕えていたと書かれています。
そしてやはり、アダムとエバは動物とも一緒だったと書かれています。
けれども、神から離れてしまってからは、野獣との戦いが始まったと書かれているんですね。
そう考えますと、今日ここで言われていることは、世の終わりとは神の国(国という言葉は支配とも訳される言葉ですが、罪の支配ではなく、神の支配ということですね)、の完成の時で、それは、一番最初の一番良かった状態の回復である、というふうに読むことができるんですね。
今日の話と似た話を聞いたことがあるでしょうか。
アッシジのフランチェスコのお話はご存じでしょうか。
中世イタリアの修道士だった人です。
この人は小鳥に説教をしたということで有名な人なんですね。
フランチェスコが伝道の旅をしていると、道端にたくさんの小鳥がいたので、小鳥たちに向かって説教を始めました。
そうすると、小鳥たちは彼の周りに集まり、さえずりをやめてじっと言葉に聞き入ったのだそうです。
そして、フランチェスコが祝福を与えて「行ってよろしい」と言うまで、鳥たちは飛び立たなかったと伝えられています。
また、この人は、人食い狼を回心させて、人を襲わないようにさせたとも伝えられています。
私はそのような話を、偉い人にありがちな、後の時代に作られた伝説だろうと考えていました。
でも今では、もしかしたらそれは本当の話かもしれないと思っています。
若い頃、ある牧師と一緒に動物園に行ったんですね。
その牧師は、近所では、あの牧師は犬と喋れるという評判のある人でした。
動物園に行くと、カバが干し草を食べていました。
その牧師は、そのカバたちに向かって、「おーい」と声をかけたんですね。
そうするとそのカバたちが一斉にこちらに向き直って、地響きを立ててこちらに走り寄ってきたんですね。
食べ物よりも、その牧師。
アッシジのフランチェスコの話が真実だったとしても不思議ではないんですね。
と言いますか、そのようになるように、そのように、神の国が実現して、本当の平和が実現するように、イエスは来てくださったんです。
それは事実です。
私たちにおいてそれが実現するために、わたしたちと同じように洗礼を受けて、荒れ野に追いやられ、サタンの誘惑を受けられた。
その上で、神の国の完成を先取りしてくださっている。
そのために、イエスだけが、十字架にかかってくださった。
すべて、私たちのためです。
だからイエスは、私たちの救い主なんです。
そのイエスと共に、今日も明日も、この世で生きていきましょう。
主が共におられます。
こんな有難いことはありません。
だから私たちは、飼い主のいない羊でなくて良い。
狼の皮をかぶった羊にならなくて良い。
羊でいい。
今日の場面のこの主が共におられるからです。
