2026年02月15日「柔和な人は幸い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章5節

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今日の話は、分かりやすい話ですね。
受け入れやすいと言いますか、今までは「心の貧しい人々は、幸いである」とか、「悲しむ人々は、幸いである」とか言われてきました。
それに比べたら、「柔和な人々は、幸いである」というのは分かりやすい話です。
それはそうだろうなあ、と思えるんですね。
しかし、この「柔和」という言葉ですが、この言葉が福音書でつかわれる時には、それはイエス様のことを指す言葉なんですね。
この言葉がこの福音書の11章29節に出てきます。
それはイエス様の言葉としてなんですが、これが、ご自身がどういう方であるかを表した言葉なんですね。
21章5節にもこの言葉が出てきます。
イエス様が最後を迎えるべく、エルサレムに入られる場面です。
ここでも、この言葉は、イエス様を指してつかわれています。
ですから、「柔和」というのはイエス様のことなんですね。
そして、今日の言葉では、その人たちは「地を受け継ぐ」と言われています。
この、「地を受け継ぐ」という言葉は、単に土地をもらうということではなくて、その土地を支配する「王になる」という意味の言葉です。
柔和な人は王になるんですね。
これもイエス様のことですね。
イエス様は天に昇って行かれる前に、いずれまたこの地上に来られると約束しておられました。
そしてその時にはこの地上の王になられるわけです。
そして、その時には、私たちイエス様の弟子たちも一人の王になるのだ、と約束してくださっていました。
イエス様の支配、愛の支配が実現する時、私たちは支配者の側にいることになるんです。
そういう約束をイエス様はしておられました。
ですから今日の言葉は、私たちに対するイエス様の約束なんですね。
しかし、そう言われても、という感じですね。
「柔和」というのはイエス様ご自身にはぴったり当てはまることですけれども、私たちは、いつもいつも柔和でいられるような余裕はないわけです。

ではどうすればいいんでしょうか。
先ほど紹介しました、この「柔和」という言葉がイエス様ご自身を表してつかわれている個所を読んでみたいと思います。
11章28節、29節です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
「わたしの軛を負い」と言われていますね。
軛を負う。
軛というのは土地を耕す時に牛が首にかけて引っ張るものですから、これは何か大変そうです。
しかし、「わたしの軛を負い」と言われていますね。
しかし、牛が軛を負う時には、二頭が一組になります。
仕事に慣れた先輩の牛と一緒に軛を負うんですね。
そうすると、初めてその仕事をする牛も上手にできるんだそうです。
二頭とも初めてというのならできないんだそうですが、慣れた牛と一緒にやりますので、問題なくできるんですね。
イエス様はここのところで、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っておられますよね。
イエス様は、イエス様について学ぶんだったら、イエス様のように柔和になることは大変なことではないよと言っておられるんですね。
私たちは皆、イエス様のようになるためにトレーニングを受ける必要があります。
しかし、それはできないようなことではないんだということなんですね。

もう一か所、21章5節を見てみましょう。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。
二重のカギカッコの中に入っているところは、旧約聖書に書かれていることですね。
これがイエス様を指して言われています。
イエス様は王なんですね。
しかし柔和な王です。
戦いには使えない、庶民の乗り物ろばに乗ってやってくるんです。
民衆はイエス様を王として迎えました。
しかし、その一週間後には、期待を裏切られたと思って、民衆はイエス様を「十字架につけろ」と叫びだすんですね。
その時、イエス様はどうでしたでしょうか。
イエス様はいずれの時も、心を動かされませんでした。
人々が大歓迎しても有頂天になったりしなかった。
「十字架につけろ」と叫んでも怒ったりしなかった。
いずれの時も柔和であったんです。
こうなると困りますね。
さっきの箇所ではちょっとした訓練を受けるだけだと言われたような感じでしたが、これでは到底まねができないわけです。

しかし、ここで考えてみるべきことがあります。
そもそも、聖書で言う「柔和」とは何なのかということです。
聖書が「柔和」という時、それはまず、神様が与えてくださるものなんですね。
ガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節にこういう御言葉があります。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。
「柔和」というのは霊の結ぶ実だと言われています。
聖霊、神の霊ですね。
神様が私たちの中に実らせてくださるものだということなんです。
新約聖書で「柔和」と出てきたら、それはイエス様のことであり、神様が私たちの中に実らせてくださるものなんです。
ということは、私たちの中にも、「柔和」というものが実ってきているはずなんです。
私たちはそれをなかなか実感できないかもしれません。
でも、洗礼を受けると私たちには聖霊が与えられます。
それが聖書の約束です。
そして、聖書は、聖霊が与えられているんだったらその人の中に「柔和」というものが実ると約束しているんですね。
ですから、「柔和な人々」というのは私たちのことなんです。
これは、私たちがそれを実らせなければならないということではありません。
神様の責任において、事実、私たちの中に、「柔和」というものが実ってきているということなんです。

これは、「地を受け継ぐ」、つまり、「王になる」ということもおなじですね。
これも約束です。
約束してくださったのはイエス様です。
私たちが約束したのではありませんね。
約束したのはイエス様です。
だとしたら、約束を守るのはイエス様です。
私たちではないんです。
そもそも、神様は私たちの約束になんか期待していません。
イエス様が逮捕される前の夜に、自分こそは一番弟子だと思っていたペトロは、イエス様に対して、何と言いましたか。
どこまでもあなたについて行きます、と立派なことを言ったんですね。
でもその後、実際にはどうなりましたか。
逃げ出してしまったんですね。
しかし、そんなペトロのところにも、後になってイエス様は来てくださったんですよ。
と言いますか、ペトロが立派なことを言った時、イエス様はペトロに言いましたよね。
「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。
ペトロは立派な約束をしたのに、イエス様はそう答えたんです。
もう最初っから、こちらの約束になんて期待していないんですね。
でも、それでいいんだということですね。
ですから、今日の言葉、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。
これは、イエス様が必ず約束を守る、ということです。

ただ、そうは言っても、いずれにせよ、私たちは柔和になっていならなければならないわけですね。
神様がそうしてくださるんですが、そうであるべきということに変わりはありません。
柔和なのがクリスチャンなんです。
それには変わりはないんですね。
ただ、さっき見た聖書の言葉では、「柔和」というのは「実り」なんですね。
「実り」ということは時間がかかるということです。
そして、「軛を負う」という言葉もありましたね。
楽なことではないということなんです。
私たちは時間をかけて、大変な思いをしながら、柔和になっていくんです。
神様がそのようにして私たちを鍛えてくださるということなんです。
軛を負うのは楽なことではありませんが、イエス様が共に負ってくださいます。
だから、これが大事なところですが、無理ではないということですね。
私があなたを成長させて、愛の王にするよと、イエス様は言っておられるんです。
長い道のりになるでしょうね。
しかしこれは必要なことだと思うんです。
アメリカでトマトの収穫をしている場面をテレビで見たことがあります。
輸出用のトマトだったようで、まだ青いのに収穫するんですね。
しかし、そのままスーパーの棚に並んだのでは誰も買いませんから、青いトマトを赤くするんです。
どうやって赤くするか、分かりますか。
色をぬるんじゃないですね。
青いトマトに炭酸ガスを吹き付けるんです。
そうすると、まるで魔法です。
あっという間に青いトマトが真っ赤になるんです。
これで見た目は熟したトマトです。
ただ、問題がありまして、味はやっぱり本当に熟して赤くなったトマトとは比べ物にならないそうです。
やっぱり、時間がかかるんですね、本物になるためには。
ただこれは、私たちがあれこれ考えて計画する必要はないことですよね。
長い人生の歩みの中で、神様が十分に私たちを柔和な者にしてくださると約束してくださっているんです。
それが今日の言葉です。
これからも、神様からの訓練を受けていきましょう。
「柔和な人」にならせてもらいましょう。
神様がそうしてくださいます。

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