創造主を知る
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 創世記 1章1節
初めに、神は天地を創造された。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 1章1節
今年の年間聖句を聖書の最初の創世記1章1節とさせていただきました。
これは私なりに考えたことがあったんですが、去年の12月に、YMCAの幼稚園で奉仕する機会がありまして、それは、クリスマスに向けての、キリスト教理解研修ということだったんですが、一昨年、その研修の講師をさせていただいた時には、クリスマスの聖書箇所をいくつか取り上げまして、その聖書箇所の解釈をお伝えしたんですね。
言ってみれば、クリスマスの説教をしたわけです。
幼稚園の先生方、職員の方々はおおむね、クリスチャンではないですから、まあ、キリスト教の学校で学んでおられたことのある方は多いんでしょうけれども、そうそう聖書のことを知っておられることもないだろうと思って、クリスマスについてまずは知っていただくというつもりで、そういうお話をしました。
それから一年経って、一か月前にまたキリスト教理解研修に呼ばれまして、じゃあ今年は何を話そうか、と考えた時、必ずしも知識が大事なのではないという当たり前のことに気づきました。
何しろ、幼稚園の先生方にとって、相手は幼稚園児ですね。
幼稚園児でも知識というものはいくらでもありますが、幼稚園児にとっては知識よりも感覚の方が大事です。
おそらくそれは、大人にとってもそうでしょうね。
人間は知識で完結するようなものではないのだと思います。
そこで、クリスマスというのは、神が人になってくださったということで、それは、神が人と共にいてくださるということで、だから、どんな時でも安心していいんだ、神様を信頼していいんだ、ということを子どもたちに伝えてくださるように、先生方にお願いしました。
神様があなたのところに来てくださるんだからね、ということです。
結局これがキリスト教ということだと思うんですね。
この世では、神が人になられたという話とは、正反対の話をしていますね。
人が、力を付けていって、強く大きくなるように。
それは成長ということですけれども、この世の話はすべてそのような話です。
人が成長するように、もっと強く、もっと大きくなれるように。
そのようにして、どこまでも、自分の足で立って、自分の足で歩いていきなさい、と教えるんですね、
別に年長の方でなくても、ある程度の年数を生きてきた人なら、人生の中で、もう立ち上がれないと思うことや、もうこれ以上は歩けないと思うことも必ずあるんですが、それについては世の中では何も言ってくれないんですね。
これは私にとって不思議なことです。
牧師という仕事は、人の人生をお伺いする仕事でもありますけれども、今まで、楽な人生を生きている人に出会ったことがありません。
何事もなく生きているように見える人でも、その人その人の苦しみが必ずあります。
それでも、世の中では、どこまでも、自分の足で立って、自分の足で歩いていきなさい、力を付けて、強く大きくなりなさいとしか言わないんですね。
それは、この世の宗教も同じですね。
神道では人が神になると教えています。
神が人になるというのの正反対ですね。
仏教でも、人が仏になると教えています。
そのために修行するのが人生だということですね。
結局、世の中では、あなたは今はまだ羊に過ぎないが、力を付けて、いずれは狼になると教えているんですね。
私たちが聞いてきた話というのは、家庭の中でも学校でも職場でも同じことです。
あなたは今はまだ羊に過ぎないが、力を付けて、いずれは狼になる。
私たちは、その話ばかり聞かされてきたんです。
しかし、キリストはどうだったでしょうか。
この世の人々が、飼い主のいない羊のように弱り果てていることに心を痛めたんですね。
羊は狼にはなれません。
なる必要もありません。
私は私以外の何者でもありません。
羊に、自分の足で立って、自分の足で歩いていきなさいと言ったら、弱り果てるに決まっているんです。
私たちは、弱り果てるに決まっている道を行くように追い立てられているんです。
そこへいくと、今日、聖書は、何と言っていますか。
「初めに、神は天地を創造された」。
当たり前の話ですが、人が天地を創造したのではありません。
私たちはもちろん、造られた者です。
にもかかわらず、力を付けて、強く大きくなれ、とそれだけを言われているんですね。
もうそれだけで弱り果てていいような話です。
しかし、聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と言うんですね。
「天地」とありますが、「地」という言葉は、そもそも、「物質」を意味する言葉です。
また、「天地」という表現は、両極端の言葉を取り上げて、その間にあるすべてのものを表す表現でもあります。
神は、すべてをお造りになられた。
そして、「初めに」とありますね。
そこからがスタートだということです。
つまり、「時間」もここで造られた。
だからここに、「初めに、神は天地を創造された」と書くことができるわけです。
そして、時間も空間も何もなかったところに、すべてのものが造られたということは、そこには、それに先立って、神のご意思があったということになります。
何もないところに、時間を、空間を、そこに存在するものを造り出そう。
その神のご意思が、世界の存在の根拠なんです。
ですから、私たち一人一人は、いてもいなくてもどちらでも良いような存在ではありません。
たとえ私たち自身が、自分などいてもいなくてもどちらでも良いと思ったとしても、神様にとってはそうではないんです。
聖書を読めば分かりますね。
神様は造っておいて後はご自由に、ということはないんです。
私たちは、造られた上で、守り導かれているんです。
そこで、クリスマスで、神が人となられたということが分かります。
どうして、神が人になられたのか。
どうして、そこまでするのか。
神はご自分がご自分のご意思によって造った人を、愛しているんです。
だから、人を見ていると、居ても立っても居られない。
そこで、私たちのところに来てくださった。
それくらい、私たちは愛されている。
だから、私たちを造ってくださった。
しかし、どうして、そのような話を世の中で聞くことが無いのでしょうか。
今日の聖書の言葉は、世界がどのようにできたかということですが、そのような話は、すべての民族が持っていると言えます。
しかし、聖書以外のお話では、神が何もないところからすべてを造ったとは言わないんですね。
他のお話によりますと、世界は、お話の最初から存在していて、そこに後から神が生まれ、人が生まれてくる。
また他のお話によりますと、世界を作ったのは神なんですが、世界を作るための材料は最初から存在している。
つまり、聖書は、世界のおおもとというのは神の愛だと言っているわけですが、他のお話によりますと、世界のおおもとが何であるのかが分からないんですね。
他のお話によりますと、神とか人よりも、世界の方が、物質の方が、先にあったもので、大いなるものであるということになってしまう。
そうなりますと、考え方が何か物質主義的になってしまうでしょうね。
愛ではなく力だということにもなるでしょう。
神よりも物質の方が大いなるものですから、神なんて大したことはない、自分が強くなれば良いということになるでしょう。
この世的に見て、強く大きくなれた人というのは、実際にいるわけですが、しかし、何事もなく生きているように見える人でも、その人その人の苦しみが必ずあります。
そして、実際に、ある時までは強い人であったけれども、二度と立ち上がれなくなってしまった人というのはいくらでもいるわけです。
それなのに、強く大きくということばかり言われる。
この世にあって、私たちは、非常に不利な生き方を強いられているんです。
ただ、この聖書の最初の言葉は、それを受け入れることが必ずしも容易ではないということはあるでしょう。
何しろ、こんなことを言っているのは聖書だけです。
他の話はすべて、聖書と正反対のことを言っているんです。
つまり、他の話を採用する方が簡単なんです。
新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節に、こういう御言葉があります。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。
「信仰によって」、分かると言われています。
ということは、信仰によらなければ分からないんです。
まず、信じなさいと言われていることになります。
しかし、そう言われますと抵抗があるわけです。
ただ、私たちは、普段、物事を考える時でも、何もないまっさらな意識で物事を考えているのかというとそうではありませんでして、自分の経験と知識に照らして、あらかじめ、何らかの立場に立って物を見ているわけです。
何もないまっさらな意識というものは存在しないんです。
そう考えるなら、これは、そうそう無法なことを言っていることにはならないでしょう。
一度そういう観点で物を見てみなさい、ということだからです。
そして、そういう観点で物を見れば、そんなに分かりにくいことでもないわけです。
新約聖書のローマの信徒への手紙1章20節には、こういう御言葉があります。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」。
それはその通りです。
例えば、私たちの体はDNAというもので出来ています。
そして、このDNAというものは言葉なんですね。
日本語には「あいうえお」の50音がありますが、DNAには4つの要素があります。
「あいうえお」をいい加減に並べても意味にならないけれども、「あいうえお」の組み合わせによって正しい意味ができてくるわけです。
それと同じように、DNAも、4つの要素を正しく並べると意味ができて、その情報で、私たちの体は出来上がっています。
つまり、DNAというものは言葉なんです。
そして、言葉というシステムは、偶然にできるものではありません。
言葉というものは、知性のある存在が用いるものです。
私たちは、知性ある方の言葉で出来ているんです。
また、神様は、世界を非常に精巧に作られました。
物理定数という、いつでもどこでもこうであるという、ある決まった値がありまして、それは例えば、光の速さは秒速30万キロメートルということなんですが、いつでもどこでも秒速30万キロメートルです。
車のスピードとは違うんですね。
スピードが決まっている。
そのような、いつでもどこでもこうであるというある決まった値というのが、光の速さだけでなく、33個発見されているそうです。
そして、その値というのが、ほんの少し変わっただけでも、世界は成り立たなくなるんだそうです。
ある決まった値というのは、そこのところの話だけではなくて、光の速さというだけの話ではなくて、その数値が全く別のことも既定していたりしますので、全く別のところで基準になっていたりしますので、例えば、光の速さが秒速30万キロメートルでなかったとしたら、タンパク質ができなくて、命が存在できないということになるんだそうです。
33個の決まった値、物理定数というものが、ぴったり今の値である時だけ、この世界は存在できるんです。
私たちは、そんなにも精巧に作られた世界に、私たち自身、精巧に作られて、置かれているんです。
科学の話をいたしましたけれども、別に科学というのは信仰と相性の悪い話ではありません。
そもそも、科学というのは何なのか。
仮説を立てて、検証するということです。
仮に、こうではないかという立場に立って(最初は何らかの立場に立たなければ仕方ありませんから)、そこからある考えを打ち出してみて、それが本当に間違っていないか確かめてみる。
それは、宗教改革時代の神学者たちが聖書を読みなおした方法と同じです。
宗教改革の時代になる前までは、カトリック教会しかなかったわけですが、カトリック教会では、聖書だけを基準にしているのではなくて、聖書の他に教会の中での言い伝えも基準にしていましたから、聖書と矛盾するような点がいくつもあったんですね。
そこで、宗教改革者たちは、カトリック教会が言っていることは聖書に照らしてどうなんだ、ということを検証していって、聖書に立つ教会を立て上げていったんですね。
そしてそれは、聖書を読むということに留まりませんでして、仮説を立てて検証するというその意識が、科学というものを産んでいったんですね。
ですから、科学と宗教改革は同じ時代にスタートしたんですね。
それ以前の時代というのは、科学というものはなくて、錬金術なんかをやっていたわけです。
それが、科学に取って代わった。
言ってみれば、科学と宗教改革は双子なんです。
私たちも、もっと、神が世界をお造りになられたという観点で物を見てみたいと思います。
何も難しいことを考えろということではありません。
神が愛をもって私たちの存在を望まれて、私たちが思いもつかないほどの深い御心によって私たちを造ってくださり、愛をもって私たちを守り導いてくださっている。
そのことは、私たちが普通に生きているだけでも、その観点に立つのなら、分かることです。
そのことを確かめながら、生きていきたいんですね。
そうする時に、私たちは、自分が飼い主のいない羊のように弱り果てているということに、より深く気づかされることもあるでしょう。
しかし、その私たちを、神が愛してくださっています。
守り、導き、養ってくださいます。
私たちは、飼い主のいない羊としてこの世に生きることもできますが、飼い主のいる羊として生きることもできます。
新しい年を、そのように、生きていきたいと思います。
