クリスマスの知らせ
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章8節~14節
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章8節~14節
先週日曜は大雪が降りまして、礼拝にいらした方が随分少なかったそうですね。
私は先週日曜は泉区の北中山教会に参りましたけれども、ノーマルタイヤで北中山に行こうとする私を雪かきのために早めにいらしてくださっていたが皆さんが止めてくださって、お陰で命拾いいたしまして、タクシーで行きまして、無事に行って帰ってくることができまして、お陰で今日、このようにして皆さんにお目にかかることができますことを神様に感謝しています。
まだまだ雪に慣れていないということが明らかになってしまいましたけれども、私は神戸の出身でして、神戸では、雪が降っても積もることはないんですね。
小雨が雪になった程度の雪しか降らないので、雪に対する対策ということは考えなくていいんです。
それでも、雪が降ると気持ちは高揚しますね。
滅多に雪が降らないところから来ましたから、雪が降ると心が高鳴ります。
どこで生まれて育ったにしても、日本人の心の奥底に、雪というものにはある存在感が確かにあるのだと思います。
雪が降る景色というのは、心の風景というか、原風景ということではないかと思います。
これは、80年前に戦争で南の島に行った人の話なんですが、戦地には芸能人が慰問に行くということがあったそうです。
ある時、南の島に、劇団がやってきた。
その劇団は、演劇の最初に、大量の紙吹雪を舞い散らして、紙吹雪で作った雪を見せたんだそうです。
そうしますと、何百人いる観客の兵隊さんたちが、大歓声を上げるんだそうです。
南の島で、雪を見れた。
それは心が高鳴るでしょうね。
でも、ある時、紙吹雪の雪を降らせたのに、一切歓声が上がらない。
不思議に思った役者さんが、客席をのぞいてみると、何百人の兵隊さんたちが、全員泣いていたというんですね。
驚いて、これはどこの兵隊ですか、と舞台の袖にいた人に聞くと、「東北の兵隊です」。
ああ、そうか、と思いますね。
心の風景、原風景、本当の原風景ですね。
今日の聖書の場面ですが、この風景は、羊飼いたちの一生忘れられない原風景になっていったんじゃないかと思うんですね。
想像を絶するようなきらびやかな場面です。
きっと、羊飼いたちは、後になっても、つらい時こそ、あの時あれを見たということを折に触れて思い出しながら生きていったんじゃないかと思います。
天の大軍が賛美をしています。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
とても高いところにおられる神様に栄光があるように。
そして、地上にいる、御心に適う人に平和があるように。
クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の栄光を現す方であり、地上に平和をもたらしてくださる方でもあるということですね。
そのことが、天使たちの賛美によって宣言されています。
それがクリスマスなんですね。
けれども、ここで気になることがありますね。
平和は、「御心に適う人にあれ」と歌われているんです。
そう言われますと、私たちとしては、自分が神の御心に適っているかどうかが気になります。
でもこれ、気にしなくていいんですね。
この言葉は聖書の原文を見ますと、「神が愛してくださっている人」という意味なんです。
神様が愛してくださるのは、特別な人だけではありません。
どんな人でも神様は愛してくださいます。
私たちがどのような者であっても、どれほど罪深くても、それによって神様の愛からもれてしまうということはありません。
だから今、羊飼いたちに対して、イエス様がお生まれになられたことが伝えられているんです。
これ、考えてみれば不思議なことですよね。
救い主が生まれたということ。
それは別に、わざわざ人に伝えなければならないようなことではないですね。
時が来れば、救い主は成長して大人になって、神の働きをなさるようになります。
それはイエス様が30歳になってからのことなんですが、だとしたらなおさら、わざわざ今、そんなことを伝えなくてもいいはずです。
けれども、この時には、羊飼いたちにキリスト誕生の知らせが伝えられました。
そこに、深い御心があります。
それは、この羊飼いという人たちはどういう人として扱われていた人たちだったかということなんです。
それは、この場面を見るだけでもわかります。
羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたんですね。
仕事中だったわけです。
けれども、考えてみると、これは不思議なことです。
少し戻って、隣の頁の下の段の2章の3節を見ますと、人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、ふるさとに帰っていたんでした。
これは、今で言うところの国勢調査ですね。
もちろん、イエス様の両親のヨセフとマリアもふるさとに帰っていました。
それなのに、この羊飼いたちは今、仕事中であるわけです。
彼らは住民登録をしなくていいんでしょうか。
しなくていいんです。
というよりも、彼らは、登録をする必要もない人たちだと思われていました。
羊飼いの仕事というのは、24時間、365日です。
言ってみれば、すべての時間を羊にささげる仕事です。
ですから、羊飼いたちには、社会的な責任を果たすことができません。
例えば、住民票をチェックされて、軍隊に行けと言われても、行くことなんてできないわけです。
そのために、羊飼いたちは、人々からさげすまれていました。
彼らは住民登録をしていませんから、言ってみれば戸籍がないわけです。
社会的には人間ではないわけです。
もう本当に、見捨てられたような人たちだったんです。
その羊飼いたちに、クリスマスのメッセージが最初に伝えられました。
ここにある御心、分かりますよね。
誰も、神様の愛からこぼれ落ちることはないんです。
神様は誰も見捨てないんです。
天使たちは言いました。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というのはそうそういないでしょうね。
まして、飼い葉桶、ということは、場所は馬小屋なんでしょうから、家の中にいるのとは違って、ちょっと覗いてみれば、乳飲み子がいるかどうかは分かるでしょう。
ただこれは、そのようにして探しなさいと言われていることではないんですね。
「これがあなたがたへのしるしである」と言われています。
しるし、というのは奇跡のことです。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というのはそうそういないでしょうが、奇跡ということではありません。
奇跡と言うなら、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という天使の言葉がありますが、これこそ奇跡です。
神からの救い主、旧約聖書に預言されていたメシアが、神の元から人のところに、とうとう来てくださった。
これこそ神の業です。
けれどもここで、あなたがたが乳飲み子を見つけることが、しるしであると言われています。
つまり、そのようにしている乳飲み子を見つけたなら、それを、救い主メシアだと思って良いということです。
それは、しるしと言えるでしょうね。
乳飲み子と言うのはどれも同じようなもので、誰もそれを特別な子だとは思いませんが、いやいやこの子こそ、神からの救い主なんだと、自分たちには分かるわけです。
そのような、特別なことが羊飼いたちに知らされたということなんです。
神が、この自分に、そんな重大なことを知らせた。
それは私たちもそうです。
神が、この聖書の言葉を通して、私たちには、こんな重大なことを知らせているんですね。
神からの救い主が人のところに来られたんだ、と知らせているんです。
この時、羊飼いたちは神との出会いを求めていたわけではありませんでした。
羊飼いたちは仕事中でした。
自分が生きるために働かなくてはならない。
そのような現実の中にいたんです。
私たちにも、そのような現実があります。
しかし、そこに、神の声が響く、ということはあるんです。
神の方から語りかけてくださるということはあるんです。
そして、自分の現実から神の現実へと招かれるということはあるんですね。
考えてみれば、神が人に語りかける時というのは、いつもそうだと言えるかもしれません。
そのようにして、神は人を救いへと招いてくださるんです。
けれどもここで、思わされます。
天の大軍は「地には平和」と歌いましたが、地に、本当に平和があるのでしょうか。
ヨセフとマリアは住民登録をするために、100キロも旅をしなければなりませんでした。
それが、この世の支配者の力ですね。
言ってみれば、イエス様は、この世の力に追いやられて、そこで生まれたんです。
それだけではありませんよね。
103ページの上の段の最初の行ですが、そこを見ますと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。
誰もマリアとヨセフを泊めてくれなかったんです。
住民登録のためにたくさんの人が旅をしなければなりませんでしたから、どの宿屋も人でいっぱいで部屋がなかったのかもしれません。
それにしたって、マリアはもうお腹が大きかったのに、誰も泊めてくれないというのはどういうことなんでしょうか。
イエス様は、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、生まれたんです。
これを平和と呼べるでしょうか。
また、今日の場面では、羊飼いたちに天使のメッセージが与えられたんですが、羊飼いたちは他の人たちから人間扱いされません。
それを平和と呼べるでしょうか。
そして、考えてみれば、そのような状況というのは、今の私たちの身の回りにも、いつも、いくらでもあるのではないでしょうか。
しかし、だからこそ、こう言うことができます。
神は、私たちの側に立ってくださっている。
人の力に追いやられることがある私たちです。
人の心に追いやられることのある私たちです。
それを経験したことのない人は誰もいません。
だからこそイエス様は、私たちと同じ立場に立ってくださるんですね。
イエス様は私たちの側に立ってくださる方なんです。
私たちの苦しみや悲しみを共に背負ってくださる方なんです。
そのために、この世に生まれてきてくださったんです。
だから、10節で天使は言っていますね。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。
これは羊飼いだけではなくて、どの人にも当てはまる、大きな喜びなんですね。
神が、この私のところに来てくださった。
神がこの私と共におられる。
それは誰にとっても大きな喜びです。
私たちが人の力に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
私たちが人の心に追いやられる時、誰も私たちを顧みてくれません。
しかし、神はその私に寄り添ってくださる。
そこに、平和があります。
今日の最初の話ですけれども、南の島で雪を見た兵隊さんたちは大喜びだったでしょう。
東北の兵隊さんたちは、大喜び以上で、感極まって泣いてしまった。
その兵隊さんたちは、「南の島で雪を見られるとは思っていなかった、これでもう、思い残すことはない」と言って、戦いに赴いて、誰も帰ってこなかったんだそうです。
「もう思い残すことはない」というのは本心だったでしょう。
でも、誰も帰ってこなかった。
聖書のこの場面は、そうではないんですね。
神様が共にいてくださるんです。
私の側に立ってくださるんです。
私たちの苦しみや悲しみを共に背負ってくださる方なんです。
励まして、その後お別れ、ではないんです。
そして、今日の場面は、それどころではありません。
平和を歌ったのは誰でしょうか。
天の大軍です。
天使たちの軍隊が平和を歌ったんです。
どうして軍隊が平和を歌うのでしょうか。
そもそも、天の軍隊は何のためにあるのでしょうか。
天の軍隊は人の罪を打つためにあります。
しかし、今日、人を罪から救う救い主がお生まれになりました。
そのことを知っているからこそ、軍隊が平和を歌うのです。
そしてそれが、神の栄光だ、と天使は言っているんです。
人の罪のために神の子が命を投げ出すことが、神にとっての栄光なんだ、ということなんですね。
そのようにしてすべての人を救うことは、神にしかできないからです。
私たちが死地に赴いて、命を投げ出すんじゃないんです。
神の子が私たちの代わりに死地に赴いて、命を投げ出してくださるんです。
だから今日、天使は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」って言っていますよね。
これも、羊飼いのことだけじゃないんです。
私たち全員に当てはまることです。
そして、ここでは、「あなたがた」と言われています。
神にとって私たちは、「あなた」なんです。
神と私たちの関係は、「私とあなた」の関係なんです。
神が語りかけるのは世界全体に対してではありません。
人類全体に対してではありません。
神はこの私に語りかけてくださる。
そして、私たち一人一人のところに、救い主を送ってくださる。
この私の現実に、救い主が来てくださる。
それがクリスマスなんですね。
喜んで、イエス様をお迎えしたいと思います。
神様の平和が、神様に愛されている皆さんにありますように。
この場面が、私たちの原風景になりますように。
