2025年11月17日「荒れ野での誘惑」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 4章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

今日の場面では、真っすぐに向き合うということを、イエス様が示してくださっています。
この前の場面でも、イエス様は、洗礼者ヨハネに対して真っすぐだった。
洗礼者ヨハネもイエス様に対して真っすぐだった。
この場面では、イエス様は何と悪魔に対しても真っすぐなんですね。
全部真っすぐに答えているんです。
相手を全部無視してもいいような気もしますし、追い払ってもいいように思いますが、そうはしない。
全部真っすぐに答えるんですね。
しかし、この「悪魔」というものは一体どういうものなんでしょうか。
原文では「サタン」なんですけれども、実はこの言葉、旧約聖書にはほとんど出てこないんです。
これは天使もそうなんですが、悪魔というのも、どういうものだとははっきり書かれていないんですね。
ですので、私たちの頭の中に、天使のイメージ、悪魔のイメージがありますけれども、それは人間が勝手に想像したことだと言っても言い過ぎではないんです。
天使といったらふわっとした服を着ていて、羽が生えている、とか、悪魔といったらつのが生えていてしっぽが生えている、とか、そういうイメージがありますが、それは私たちの想像に過ぎないと言ってもいい。
ですので、外見のことだけじゃなくて、悪魔ってそもそもどういうものなのか、私たちには良く分かりません。
ただ、旧約聖書には悪魔はあまり出てこないんですが、新約聖書に入って、福音書にはたくさん出てくるんですね。
福音書というのは、イエス様の物語です。
イエス様は神の子です。
ということは、これは重大なメッセージかもしれないですね。
神の目には、この世というのは神と悪魔がせめぎ合っている世界だと。
それが霊的な現実なんだというメッセージかもしれない。
もちろん、「悪魔」なんて、私たちの目には見えないわけです。
ただ、目に見えないと言ってしまうと、神様だって、あるいは、人の心だって目で見るものではないですよね。
ですので、神の子イエス様にとっては今日の物語くらい悪魔というのはリアルなものなんでしょうが、私たちにとってはリアルではないわけです。
ただ、この世というのは神と悪魔のせめぎ合いであるという現実を知っておきなさい、ということでしょうか。
そして、「サタン」という言葉は、原文ではもともとの意味は「逆らう者」という意味なんですね。
神の力と神に逆らう力がせめぎ合っているのがこの世の現実なんだと。
目には見えないけれども、それをリアルに感じるようにしなさい。
そういうものの見方をしてみなさい、ということでしょうか。
目には見えないですから、何か悪いことがあった時に、「これは悪魔の攻撃だ」とかはっきり言い切れるわけではないですね。
けれども、私たちに対して、悪魔の攻撃がないとは思ってはいけないんでしょうね。
何しろ、神に「逆らう者」ですからね。
この世を見ていると、神に逆らう力がものすごく強いっていうのは子どもにでもわかることですね。
そう考えれば、悪魔の攻撃というのはどこかで、何かの形で、必ずあると思っておいた方がいい。
悪魔というのがどんなものなのかもはっきりしませんが、攻撃はあって当たり前ですね。
その悪魔に対して、イエス様はどう戦ったか、というのが今日の話です。
イエス様は「誘惑を受け」たんですね。
この「誘惑」という言葉は、「試す」、「試験する」という言葉です。
試験ですから、合格不合格があるわけですね。
そして、その悪魔のことが、3節で、「誘惑する者」と書かれています。
試験する者っていいうことですね。
神に逆らう者というのは、試験する者である。
試験して、人を不合格にしてしまうということでしょうか。
そう考えるなら、私たちとしても恐ろしいですね。
しかもこれは、少なくともこの時のイエス様にとっては避けられないことでした。
何しろ、イエス様は、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」んですね。
神の霊がイエス様を導いたんです。
この前の場面で、洗礼を受けると神の霊がイエス様に降りましたけれども、その霊が、試験を受けさせている、とも言えるわけです。
これは私たちも心しておきたいことですが、私たちも洗礼を受けると神の霊が与えられるわけですから、試験は避けられない、と言えるのかもしれないですね。

この時、悪魔は三つのテストをイエス様に対してしました。
一つ目は、イエス様はお腹がすいていたので、石をパンに変えたらいいんじゃないか、と。
二つ目は、神殿の屋根の端に立たせておいて、神の子なら守ってもらえるはずだから、そこから飛び降りてみろということですね。
三つ目は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうということですね。
一つ目と二つ目は似ていますよね。
「あなたならできるでしょう」、「できなきゃおかしいですよね」という感じで、やらせようとするわけです。
それに対して、イエス様は聖書の言葉でお答えになる。
一つ目については、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。
これは、イエス様がこれからなさっていくお働きがどういうものであるのかを示しているんでしょうね。
イエス様がこれからやっていくお働きは単に食べ物を食べて生きる、そういう肉体のレベルのお働きではないんです。
「パン『だけで』生きるものではない」ということですから、肉体レベルのことを全く無視しているわけではないんですけれども、人間として本当に生きるというのは言葉によるんだよ、神の言葉によるんだよ、ということですね。
これからのお働きがどういうものになるのか、ここではっきり示したわけです。
ただ、肉体レベルのことを全く否定しているわけではないので、お腹がすいているんだったら石をパンに変えてもいいんじゃないかとも思いますが、これもイエス様のこれからのお働きを考えると分かることですね。
イエス様は、ご自分自身のためには神の力を使うことはしなかったんです。
「神の子ならできるだろう」なんて言われていますが、神の子は、人のために神の力を使うんですね。
多分、悪魔としてはイエス様がそういう方だと分かっていて、でも、何とかして、人に対して神の力を使ってほしくないから、こういう誘惑をしたんでしょうね。

二つ目は、「飛び降りたらどうだ」ってことですけれども、今度は悪魔も聖書の言葉を使うんですね。
これは怖いですよ。
悪魔も聖書を知っているんですね。
「神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える」。
それに対して、イエス様も、聖書の言葉を返しました。
「あなたの神である主を試してはならない」。
そうですよね。
神様が守ってくださるかどうか確かめるために飛び降りるなんていうのはふざけています。
というか、悪魔は聖書を知っていて、聖書の言葉を使っているけれども、使い方が間違っていますよね。
悪魔は、人の心を神の言葉から離れさせるために神の言葉を使っているんです。
人を聖書から遠ざけるために聖書を使うんですね。
これが悪魔だということでしょうか。
これは一つ目の誘惑も同じでした。
お腹がすいているのなら石をパンに変えてみろ、ということですが、もしそうしたとしたら、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という神の言葉から遠ざかってしまうことになりますね。
人を神から離れさせようとするのが悪魔だということなんです。
私たちは、そんなことには引っかからないと思うかもしれません。
でも、悪魔は誘惑の仕方が上手ですね。
飛び降りたらどうだ、と言った時、悪魔は、イエス様を神殿の屋根に立たせたんですよね。
今までは荒れ野にいたんでした。
荒れ野にも、飛び降りることができるような場所はいくらでもあったはずです。
でも、神殿まで連れて行った。
神殿には人がたくさんいます。
そんなところで屋根から飛び降りて無事だったら、もうそこにいる人たちはみんなイエス様が神の子だと信じますね。
つまり、この誘惑は、自分のことを人に認めさせてやれということなんです。
人に認められたいという思いを私たちはみんな持っています。
悪魔はそこをついてくるんですね。
イエス様はその誘惑には乗らなかった。
イエス様はこれから始めるお働きの中でも、ご自身が神の子であるはっきりとしたしるしを見せて人を集めるようなことはなさらないんですね。
いや、奇跡を見せることはあるんですが、そんな時に限って、「誰にも言わないように」と言ったりするんですね。
奇跡を見せて信じさせるなんていうことをイエス様はなさいません。
イエス様は私たちに、信じることを求めてきます。
そして、信じるところに、イエス様が神の子であるしるしが示されていくんですね。
奇跡を見て信じたんだとしたら、そんな信仰は本物の信仰じゃないですね。
ですから、奇跡を見せびらかすようなことはイエス様はなさらないんです。

しかし、これでもまだ試験は終わりません。
まだまだ、神から引き離そうと頑張るんですね。
最後の試験は、もし悪魔を拝むなら、この世をすべて与えてやろうってことですね。
もう今度は直接的に、自分を拝めと言ってくるんです。
これはもう無茶苦茶ですね。
この世のすべてが悪魔のものだなんて聖書には書いていません。
もうこれは嘘をついているんです。
この世のすべてが私のものだ。
というのは、はっきり言って、私は神だっていうことですよね。
そして、私を拝め、と。
悪魔は、思いっきり嘘をついてくることがあるということですね。
しかしこれも要注意です。
アドルフ・ヒトラーは、民衆は小さな嘘にはすぐに気づくが、大きな嘘には気づかない、と言っていたんです。
ですから私たちも、思いっきり嘘をつかれたらだまされてしまうかもしれないと思っておくべきでしょう。
そこでも大事なのは、神の言葉に立つことですね。
イエス様はやっぱり聖書の言葉で返事をしました。
「あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ」。
そうすると、悪魔は離れ去ったんですね。

イエス様はこの前の場面で、洗礼を受けました。
洗礼を受けると私たちは神に結ばれます。
しかし、そうなると、すぐに悪魔が私たちを神様から引き離そうとしてくるかもしれない。
それも、聖書の言葉を使って、神様から離れさせようとすることもある。
私たちの弱いところをついてきたり、もしかすると、思いっきり大きな嘘をついてくるかもしれない。
その時に大事なのは、イエス様のように、真っすぐに神様を見上げることですね。
聖書の言葉に立って、真っすぐに神様を見上げること。
そうすれば、悪魔は離れていくしかないんです。

では、私たちは、その試験に合格することができるのでしょうか。
これは、イエス様の最初の弟子たちのことを考えてみたいですね。
イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。
イエス様が逮捕されると、弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げ出しました。
そのことを、ルカによる福音書でイエス様は、それはサタンの試験だと言っていました。
弟子たちは全員、不合格だったんです。
しかし、不合格になった弟子たちはそのあと、どうなりましたか。
不合格になった弟子たちのところに、イエス様が来てくださったんですね。
たとえ私たちが不合格になっても、イエス様は私たちを見捨てないんです。
もし私たちが神様から離れそうになっても、イエス様が私たちを取り戻しに来ます。
だから、私たちは、安心してこの試験を受けていいんですね。
もし、「不合格になった」と思うようなことがあったとしても、大丈夫です。
その時、イエス様は私たちの隣にいます。
不合格になる度に、イエス様は私のところに来てくださいます。
そういうことを繰り返している内に、私たちは、本当に、真っすぐに、聖書の言葉に立って、神様を見上げることができるようになっていくんじゃないかと思うのです。
おそらく、私たちは、いつもいつも、合格することはできない。
けれども、心配する必要はありません。
悪魔の試験をクリアしたイエス様が、私たちを立ち直らせてくださいます。
いつどんな試験があるのか分かりません。
毎日試験を受けているような気もします。
でも、安心して、試験を受けてください。
不合格でも大丈夫です。
イエス様が共におられます。

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