2025年11月17日「聖霊を受けなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 北中山教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章19節~23節

原稿のアイコンメッセージ

最初に「その日」とありますが、これはイエスが復活した日ということですね。
イエスはその日の朝早く、マグダラのマリアがお墓に行った時には、もう復活していました。
その後、マグダラのマリアは、復活したイエスに会いまして、それから、弟子たちのところに行って、そのことを弟子たちに伝えました。
そして、今は、その日の夕方だということですね。
弟子たちからすると、マグダラのマリアからイエスが復活したことを聞いてから、もう何時間もたっています。
けれども、弟子たちは、家の中に閉じこもったままです。
どうしてかと言うと、ユダヤ人を恐れていたからだということですね。

自分たちの先生であるイエスが死刑にされてしまった。
だとしたら、自分たちも同じ目にあうかもしれない。
弟子たちの頭の中にあったのは恐れです。
マグダラのマリアから聞いた話は弟子たちの頭の中になかったことでしょう。
ここで、家の戸に鍵をかけていた、とありますが、ここの「戸」という言葉は複数形です。
全部の戸に鍵をかけていたんでしょう。
もし弟子たちが、例えばですが、これからイエスが自分たちのところに来てくれるかもしれないと思っていたのなら、そんなことをするでしょうか。
弟子たちは、恐れに支配されていました。
そして、恐れに支配されると、神を締め出してしまうことになるということなんですね。

私たちにも、大なり小なり、恐れがあります。
そして、恐れる時には、この弟子たちと同じことになっているのではないかなと思います。
私たちも、何かを恐れる時、神を締め出している。
もし、神を締め出していないんだったら、恐れることはないはずです。
死にも打ち勝った復活のイエスが私と共におられるとしたら、何を恐れることがあるでしょうか。
しかし、人間というものは恐れに支配されやすいものです。
聖書では、神が人に語りかける時、その最初の言葉は、多くの場合、「恐れるな」ですね。

私たちが恐れに支配されてしまいやすいというのは、仕方のないことかもしれません。
私たちは、私たちの力が及ばない様々な現実に取り囲まれています。
もしそこで私たちが、自分の力でそれに立ち向かわなくてはならなくなったら、必ず恐れを感じることになるでしょう。
私たちに現実が見えていれば、必ずそうなります。
そして、結果として、鍵をかけて閉じこもることで、なんとか自分を守ろうとすることしかできなくなるでしょう。
それがこの弟子たちであり、私たちです。

ただ、イエスはそこに来てくださるんですね。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。
「あなたがたに平和があるように」。
これは、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語で、あいさつの言葉です。
新約聖書はギリシャ語で書かれましたから、ここには、ギリシャ語のあいさつの言葉を書くのが正しいのですが、福音書を書いた人たちは皆、ギリシャ語のあいさつの言葉は書かずに、このように、ヘブライ語のあいさつの言葉をそのまま直訳して、「あなたがたに平和があるように」と書きました。
イエスに会った人たちは、皆感じていたんじゃないですか。
イエスは、私たちが平和であることを願っておられる。
単なるあいさつの言葉にも、その言葉の通りの気持ちを込めておられる。
そして今、イエスは、自分から神を締め出して、恐れに支配されている弟子たちに、平和を与えてくださるんですね。
考えてみると、神が人に出会ってくださる場面というのは、いつでもこのような場面ではないかと思います。
ふさわしくない者に、出会ってくださる。
閉ざしたはずの心の部屋の真ん中にいらしてくださり、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる。

イエスはその上で、「手とわき腹とをお見せになった」と書かれています。
イエスの手には釘の跡があり、わき腹には槍で突かれた跡があったということでしょう。
それを見せたというのは、イエスが一度は死んだけれども復活したということを弟子たちに示したということになります。
しかし、それを見せられた弟子たちとしてはどうだったでしょうか。
イエスの手とわき腹の傷は、イエスを見捨てて逃げ出した、弟子たちの弱さの結果です。
弟子たちが、土下座して謝っても済むような話ではありません。
けれども、それを見て、「弟子たちは、主を見て喜んだ」というんですね。
喜んでいいんです。
イエスが、「あなたがたに平和があるように」と言ったんですから。
そう言った上で、手とわき腹の傷を見せたんです。
イエスは、弟子たちの弱さも罪もすべて赦してくださるんです。
イエスは、弟子たちの弱さや罪をなかったことにしたり、見て見ぬふりをなさったりはしません。
罪は指摘されます。
しかし、その罪は、もうすでに、イエスが背負ってくださって、代わりに罰を受けてくださったものです。
それが、手とわき腹の傷です。
ですから、手とわき腹の傷のことで責められることはありません。
喜んでいいんです。
赦されているんですから。
普通、手とわき腹に傷があったら、心配するのが先ではないかとも思いますが、それ以上に喜んでいいんです。
自分たちは弱かったんですが、イエスは強い。
そのイエスが大丈夫だと言っておられるんですから。

この喜びに生きることが信仰ということですね。
これはつまり、恐れの正反対ということです。
私たちが力を付けて、恐れを乗り越えるということではないんですね。
罪人である自分のところにイエスが来てくださって、罪の赦しと救いの喜びを与えてくださることによって、信仰を生きるようにされるのです。

以前、キリスト教書店で、一枚のカードを見たことがあります。
そのカードの上半分には、こう書かれていました。
「イエス様、私は問題を抱えています。……それは、私自身です」。
そのカードの下半分には、こう書かれていました。
「わが子よ、私にはそれについての答えがあります。……それは、私自身です。」
何とも核心を突く言葉だなと思いました。
私たちの問題というのは、結局いつも、突き詰めていけば、私たち自身です。
だとすると、それに対する答えは、自分では出すことができないわけです。
それについて答えを与えてくださるのがイエスなんだということですね。
それが、この場面で起こっていることだと言えるでしょう。

イエスは重ねて言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
弟子たちはどこに遣わされるんでしょうか。
イエスが父なる神から人々のところに遣わされて、罪の赦しと救いの喜びを伝えていったように、私たちも人々のところに遣わされて、罪の赦しと救いの喜びを伝えていくんですね。

そう言ってから、イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい」。
ここでイエスは不思議なことをしましたね。
息を吹きかけた。
この「息」という言葉は、ギリシャ語でもヘブライ語でも、「霊」という言葉と同じです。
そして、この場面を読むと、思い出すことがあります。
旧約聖書の最初の創世記2章7節で、神が人を土の塵で形作るんですが、形作った後、神から息を吹き込まれて、人は生きる者となったとあるんですね。
それと同じことがここで起こっているということなんです。
恐れに支配されて、死んだようになっていた弟子たちが、罪の赦しと救いの喜びを与えられて、よみがえった。
実際に弟子たちが聖霊を受けるのはもう数十日後になってからのことで、聖書で言うと使徒言行録の2章のことになるんですが、復活のイエスに出会ったこの弟子たちは、もう、新しく生き始めている。
私たちも、洗礼を受けると聖霊を受けます。
それはやはり、改めて、神の霊をいただいて、新しく生き始めたということです。
洗礼を受けた人は、もう、新しく生き始めているんです。

ではその新しい生き方において、何が起こってくるか。
今日の最後の言葉ですね。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
これは、イエスが弟子たちにそう言っているんですが、そもそもこれは、イエスに当てはまることですね。
神がイエスを遣わした。
神から遣わされたイエスは、人々に罪の赦しを宣言してきて、そして、今日は、弟子たちを赦した。
しかし、ここのところのこの言葉では、弟子たちが赦すか赦さないかにかかっているということなんですね。
これはどういうことなんでしょうか。
そもそも、罪の赦しというものは、イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかってくださることによって起こったことで、つまり、もうすでに差し出されているものですね。
だから、差し出された救いを受け取る人は救われるし、受け取らない人は救われない。
そういうものです。
ですから、弟子たちが自分の考えで赦すと言ったら赦される、赦さないと言ったら赦されない、そんなことはないはずです。

これは、弟子たちが、聖霊と共に新しく生きる限りでのことなんですね。
弟子たちが、イエスから遣わされた限りで、聖霊と共に新しく生きる限りでのことです。
私たちも、聖霊と共に新しく生きるなら、イエスから遣わされて、その限りで、聖霊が私たちにおいてもその人においても働いて、イエスと同じ神の業をなしていくということなんですね。
ですからこれは、あなたがた弟子たちが自分で自由に決めることだと言われているのではなくて、あなたがたに聖霊が伴っている限り、聖霊の働きによって、赦しを受け取る人もいれば、受け取らない人もいる、ということです。
結果として、目の前に現れるその人その人がどうなるかは分かりません。
現実問題、赦されないまま、罪が残るということだってあるわけです。
ただ、私たち自身、いつかどこかで誰かからイエスの話を聞いて、私たち自身に聖霊が働いて、罪を赦された。
洗礼を受けて、聖霊を与えられて、新しく生き始めた。
私たちにはそれが起こった。
だから、私たちとしては、人々が罪を赦されるように、赦しの主であるイエス・キリストを伝えていくんですね。
罪というのは人を神と隔てているものですが、それが取り除かれて、その人が神と共に新しく生きることができるように、私たちも遣わされていく。
その中で、ある人の罪が赦されるということが起こってくるし、ある人の罪は赦されないということも、現実問題、起こってくるんです。

私たちにはできないと考える必要はありません。
今、このように言われている弟子たちはどんな人たちでしたか。
鍵をかけて家の中に閉じこもるしかできなかった弟子たちです。
その弟子たちが、聖霊を受けると、世界中に出て行って世界中に教会を立てていったんです。
それが聖霊の力です。
聖霊の力というのは、弟子たちを新たに造り替えるくらいの力なんです。
一粒の種が大木に成長したくらいに、弟子たちは変えられました。
聖霊は力だと聖書では繰り返し語られますが、聖霊の力と言った時の力という言葉は、原文のギリシャ語ではデュナミスという言葉なんですが、このデュナミスという言葉が元になって、ダイナマイトという言葉ができたんですね。
まさにそれくらいの力。
爆発的な力。
そのような力をもって、私たちはイエスの元から遣わされるんです。
私たちは只者ではないんですね。
天使のことを英語でエンジェルと言いますが、このエンジェルという言葉は、遣わすという言葉が元になってできた言葉です。
神が遣わす者ということで、エンジェル。
天使と同じように、私たちは、イエスに遣わされる。
信じられないくらいの力を帯びて。
でも、ある考え方をするなら、信じられないということはないですね。
実際に、そのような力を与えられていたからこそ、何百年にわたる迫害にも耐えて、迫害の中でも信じる者が起こされて行って、今では、世界の三分の一の人たちがイエスを救い主だと信じているんです。
地球の裏側の日本にも、こうして教会が立っているんです。
気負う必要はないです。
聖霊に委ねましょう。
聖霊が働く時、神の業が現れます。
私たち自身が、そのことを、証しているんです。

関連する説教を探す関連する説教を探す