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2023年02月06日「刈り入れ時」

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聖句のアイコン聖書の言葉

31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 4章31節~38節

原稿のアイコンメッセージ

結婚はするけれども離婚してしまうということを繰り返してきた女性。
この人が今まで、夫から離婚を言い渡されてきたのか、本当のところはこの人から離れていったのかは分からない。
いずれにせよ、この女性は、なぜ自分はいつもこうなってしまうのかということで悩んでいただろう。
そして、いずれにせよ、町の中にこの人を相手にする人は誰もいなかった。
誰にも分かってもらえなくて、孤独だった。

その女性にイエスが声をかけた。
喉が渇いていたので、「水を飲ませてください」。
そこから話が始まって、心が渇いていたこの女性に、イエスが救いの水を与えることになっていく。

ちょうどそこで、町に食べ物を買いに行っていた弟子たちがイエスに食事を勧める。
そうするとイエスは不思議なことを言った。
イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
イエスが疲れていて、喉が渇いて、お腹がすいていたから買い物に行ったのに、これは一体どういうことか。
弟子たちには理解できない。

水の話をした時も、サマリア人の女性は理解できなかった。
水というのは命の源だが、肉体の命しか考えないのなら、イエスの与える救いの水ということは分からない。
食べ物のことも同じ。
私たちは食べることで肉体の命を保っている。
しかし、それは動物も同じ。
人が人として生きるというのは、それだけではない。

神の子イエスにとってもそれは同じ。
イエスの食べ物とは、「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。
まず、神の子イエスには、ご自分を遣わした方がおられる。
遣わした方がおられるということは、自分には使命があるということ。
神がイエスを遣わしたのは人を救うため。

この、使命があるということ。
それが、神の子にとってのまことの「食べ物」。
それによって私はまことに生きているということ。

そしてそれは、私たちにとっても同じこと。
単に肉体の命を保っているだけでは、人が人として生きているとは言えない。
救い主イエスにとってまことの生き方とは、人を救うこと。
ということは、私たちにとっては、まず、イエスに救われることがまことの生き方。
そして、イエスが与えてくださる救いの水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出ると言われていた。
自分だけではない。
救いが私たちからあふれて、周りにも広がっていく。
そこに、私たちの使命がある。
イエスは最後の38節で、「わたしはあなたがたを遣わした」と言っている。
私たちも、実は遣わされている。
神の子に遣わされている。
だから、使命がある。
それが刈り入れということ。
救われる人を集めるということ。
収穫の働き。
種を蒔いてくれた人は他にいる。
イエスが、種を蒔いた。
種が蒔かれて、実を付ける。
それを、私たちは収穫する。

種を蒔いてから実を付けるには、何か月もかかる。
麦の場合だと、4か月かかるそう。
自分で種を蒔いて、自分で刈り入れるなら、そうなる。
しかし、イエスは畑を見るように言う。
もう、実って、色づいて、刈り入れを待っている。
麦というのは白く色づくのだそう。
まさにそのように、この時、町の人たちがサマリア人の女性に連れられて、畑を横切ってイエスの方に来ようとしていたのかもしれない。
当時の服の色は、基本的に白色。
実った麦と同じ色。
「既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」。
これは、この場面ではサマリアの女性のことになる。
多くの人を刈り入れた。
刈り入れに当たって、この人は報酬も受けている。
自分が声をかけた町の人たちが、自分と一緒にイエスに向かっていく。
この人にとって望んだこともなかったような大きな喜び。
今まで誰かに話しかけられることなどなかった人。
自分からも誰かに話しかけようとは思ったこともないような人。
その人が、このようになっている。
「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」。
もちろんそれは、イエスにとっても喜び。
刈り入れの働きによって、イエスと私たちは共に喜ぶことになる。
とにかく、この女性は、種を蒔かれて、刈り入れをすることで、人生を劇的に変えられた。

では私たちは、どのようにして刈り入れれば良いのか。
種蒔きはイエスがしてくださるとして、では、私たちはどのような人を、どう刈り入れれば良いのか。
私自身は、28歳で洗礼を受けた。
27歳の時から教会に通い始めていた。
最初は、本当に軽い気持ちだった。
ちょっと礼拝を覗いてみようか、というくらいの気持ち。
しかし、そもそもどうしてそういう気持ちになったのか。
自分が通っていた幼稚園が、キリスト教の幼稚園だった。
もしそれがなかったら、ちょっと礼拝を覗いてみようとは思わなかっただろう。
種は蒔かれていた。
そして、私は洗礼を受けた。
イエスの元に、刈り入れられた。
刈り入れた人、これはこの場合はその教会の人たちということになるだろうが、教会の人たちにとっては、私がどこで種を蒔かれていたのか、どこの幼稚園に通っていたのかはそれほど大事なことではなかっただろう。
ただ、私が洗礼を受ける時、その教会の皆さんは大いに喜んでくれた。
もちろん、イエスも喜んでくださっていただろう。
種を蒔いた方も刈り入れた人たちも、共に喜んだ。

「4から14の法則」というものがあるらしい。
4歳から14歳までに触れたことは、一生、その人に残る。
だから、あるハンバーガーショップは子どもを店に来させるのに熱心。
4歳から14歳の間にそのハンバーガーの味を覚えさせれば、その人は一生、その味を求めて、その店に来る。
信仰も同じかもしれない。
私たちが今、信仰を持っているのは、4才から14歳までの間に、実は何かに触れていた、ということがあったからではないか。
それは、キリスト教の学校に通っていたということかもしれない。
あるいは、全然別のところで、何かの体験をしたということかもしれない。
とにかく、大人になる前に何かがあった。
実は種が蒔かれていた。
そして、そういう人たちは、私たちだけではない。
同じようなものに触れていた人たちが、実はたくさんいるはず。
いやきっと、数えきれないくらいいる。
キリスト教の幼稚園に通っていた人だけでも、この町にどれくらいいるだろうか。
その人たちを刈り入れるようにと言われている。
「色づいて刈り入れを待っている」と言われている。
実際そうだと思う。
刈り入れを待っている人は、この町にたくさんいる。
私がそうだったように。

そして、刈り入れという働きは労苦することではない。
私たちは、労苦の実りにあずかると言われている。
労苦するのは種を蒔くイエス。
イエスがどれくらい労苦したか。
人を救うために、人の罪を背負って、ご自分が十字架にかかった。
私たちは、その労苦の実りにあずかる。
そのために、私たちは遣わされている。
最後の38節では、「わたしはあなたがたを遣わした」と言われている。
ここで言うあなたがたというのは弟子たちのこと。
弟子たちは、まだ、今のところ遣わされていない。
それなのに「遣わした」と言われているのは、ユダヤ人の言葉、ヘブライ語に特有の表現だろう。
ヘブライ語では、未来のことだけれども、必ずそうなると強く思っている時には、それを、完了形で表現することがある。
そして、この言葉は、私たちにおいては、もう現実のものになっている。
「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」。
私たちは、それぞれの場所に遣わされている。
そして、その場所で使命を果たす。
それこそが、私たちを生かす、まことの食べ物。

イエスが水を求めたように、私たちも水を求めることがある。
食べ物を求めることがある。
お金を求めることもある。
地位や名誉を求めることもある。
ただ、そういったこの世のものだけを求めながら生きるなら、いつまでも満たされることはない。
水や食べ物もお金や地位や名誉も、一度受け取ったらそれで十分ということはない。
この世のものは、私たちの中で泉となってわき出るようなものではない。
それでは、いつまでも飢え渇きの中を生きているのと同じ。
イエスは私たちが満たされて生きるために、まことの水と、まことの食べ物を与えてくださる。
そして、イエスから与えられた使命に生きる時、私たちには大きな喜びという報酬がある。
満たされて、喜びの中を生きていこう。

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