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2024年04月29日「復活」

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聖句のアイコン聖書の言葉

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 11章38節~44節

原稿のアイコンメッセージ

イエスがいよいよ墓にやってきた。
イエスはこの時、「再び心に憤りを覚えて」おられた。
いよいよイエスはこの墓という場所で、死と対決する。
人間を支配する最も強い力であり、もっとも悪い力である死の力と、この場所で戦う。

ただ、イエスが、死の力と戦ったのはこの時だけではない。
ルカによる福音書には、7章の11節から17節に、イエスが、ナインという町に入ろうとしたところ、葬儀の列に出くわした時のことが書かれている。
一人息子が死んで、葬られる。
その母親は泣いている。
イエスはその時、母親に、「もう泣かなくともよい」と言って、息子を生き返らせて、息子をその母親に返した。
その時も、イエスは死と戦って、息子を取り戻し、母親に返したのだと言える。
しかし、その場面では、イエスが憤ったというようなことは無かった。
では、その場面と今日の場面は何が違うのか。
ルカによる福音書では、息子を生き返らせ、母親に返したわけだが、イエスはその息子のことを前から知っていたわけではない。
母親のことも前から知っていたわけではない。
しかし、今日の場面は違う。
イエスは前からラザロのことを知っていた。
マルタとマリアの姉妹のことも知っていた。
そして、マルタとマリアは、ラザロが死にそうだと伝えてきた時には、ラザロのことをイエスに、「あなたの愛しておられる者」と言っていた。
またイエスも、その知らせを受けて、弟子たちと話をする中で、ラザロのことを、「わたしたちの友」と呼んでいた。
見ず知らずではない。
知っている、つながりがある、愛している。
イエスは、ご自分と人とのつながりを重んじてくださる。
その面で、私たちと同じ。
私たちにとっても、知らない人より知っている人、愛している人の方が大事だが、イエスにとってもそれは同じ。
もちろん、イエスは知らない人だからと言って知らんぷりをするようなことは無い。
ルカによる福音書では、息子が死んで泣いている、見ず知らずの母親を憐れに思って、息子を死の支配から取り返してくださった。
ただ、イエスにとっても、その人が知っている人なのか、知らない人なのか、愛しているのか、そうでもないのか、ということは、非常に大きなこと。

私たちはイエスに知られている。
私たちは今、このように礼拝しているが、礼拝とはまずイエスに会うこと。
だから私たちは日曜に礼拝している。
イエスが復活して、弟子たちに会いに来てくださったのが日曜日だから。
だから、日曜に礼拝する私たちは、イエスに知られている。
いやむしろ、私たちを知っていて、私たちを愛してくださっているから、私たちを礼拝に招いてくださっている。
イエスにとって私たちのことというのは重大なこと。
今日の場面に至るまでのところでも書かれてきたが、イエスにとって、ご自分が知っていて、愛している人々というのは、場合によっては涙を流し、場合によっては憤るほど、重要な存在。
「VIP」という言葉がある。
「ベリー・インポータント・パーソン」の頭文字を取って「VIP」。
「ビップ」とも言うことがあるが、非常に重要な人を指して、「VIP」と言う。
この言葉は聖書から来ている。
イザヤ書43章4節。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」。
あなたというのは人。
人は尊い。
神の目に尊い。
ここから、「VIP」という言葉ができてきた。
それがイエスにとって、ラザロであり、マルタとマリアであり、今このように礼拝している私たち。
ではそのVIPに対して、イエスは何をなさるのか。

イエスは、お墓を塞いでいる石を取りのけなさいと言われた。
墓を塞いでいる石は、ラザロを死の支配下に閉じ込めている石。
それを取りのけさせておいて、いよいよイエスは死と対決する。
しかしここで、マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
普通に考えればそう。
そして、そう言うマルタはこの時、これからイエスが死と対決するとは思わなかったということになる。
けれどもそこでイエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
イエスは、この話が始まった11章の4節で、ラザロが死にそうだと知らせを受けた時、知らせに来た人に対して、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と答えていた。
このイエスの言葉は、マルタとマリアにも届けられていただろう。
そのことを指して、イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

ただここには、「もし信じるなら」という言葉がある。
信じないなら、神の栄光は見られない。
神の栄光が現れ、神の力が死の力に勝利するのを見られるのは、信じる人だけ。
これは不思議なこと。
これから、ラザロは復活する。
周りにいる人が信じていようと信じていまいと、復活する。
だとしたら、信じているかいないかは関係ないようにも思える。
しかし、実はこれは本当に決定的なこと。
少し後の46節には、ラザロの復活を見た人々の中には、このような出来事があったということを、イエスを敵視している指導者たちに告げ口する人がいたということが書かれている。
この人たちは、ラザロが生きて墓の中から出てくるのは見た。
しかし、神の栄光は見なかったということになる。
どうしてそうなってしまうのか。
聖書の他の個所では、イエスが癒しの奇跡を行っても、イエスを敵視する指導者が、「イエスは悪魔の力でこのようなことを行っている」と言ったことがあった。
最初から信じないと決めていて、別の理由付けを考え出した。
46節でイエスのことを告げ口した人たちも、同じようなものだろう。
最初から信じないと決めているのは間違いないだろう。
それだと、当然、神の栄光は見られない。
つまり、イエスが、「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言っているのは、信仰を強制しているのではなく、最初から信じないと決めつけるのはやめなさい、ということ。
考えてみると、今、イエスの他にも多くの人たちがラザロの墓の前にいて、その人たちはラザロの復活を見る訳だが、全員が最初からイエスに神の力があることを信じていたわけではないだろう。
この時イエスに会うのが初めての人もいたはず。
しかし、ラザロの復活を見て、その人たちも、イエスを信じるようになった。
そのことが、少し後の45節に書かれている。
決定的に大事なのは、信じないと決めつけないこと。
もしそうなら、神の栄光が見られる。

ここで、人々は石を取りのけた。
イエスは天を仰いで祈った。
「ラザロを復活させてください」と祈ったのではない。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」。
神がイエスの父であること。
神が神の子の願いを聞いてくださった、と。
「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。
イエスがこのように祈ってからラザロが復活したなら、信じないと決めつけていない限り、人々は、イエスが神の元から来たことを信じられるようになる。

その上でイエスは、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。
後になって、イエスも十字架の後で復活するが、イエスが復活した時には、布で巻かれたまま出てきたということはなかった。
イエスを包んでいた布は、墓の中に置かれていた。
しかしラザロは、葬られた時のままの姿で出て来た。
自分ではほどくことができなかったということ。
イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
イエスご自身がほどいてやるということはなかった。
人にやらせた。
自分ではほどくことができなくても、もう、人の手で取りのぞくことができる。
考えてみると、イエスは、墓を塞いでいた石をのけるときも、人にやらせた。
人にもできることがある。
信じないと決めていない限り、人にも、神の栄光が現れるに当たって、できることがある。
もちろん、私たちは、死んだ人を復活させることはできない。
けれども、神の力が現れるに当たって、手助けをすることならできる。
そのような形で私たちも、神の栄光に与かっていくことができる。

全身が麻痺して動かないけれど、口に絵筆を加えて、絵と詩を書いておられる方で、星野富弘さんという方がおられる。
この人の作品は何冊もの本になって、カレンダーにもなって、多くの人を慰め、励ましている。
どうして体が不自由なこの人に、どんな健康な人でもできないような働きをすることができるのか。
この人は、若い頃、事故で首の骨を折って、全身が麻痺してしまった。
しかし、クリスチャンの友人が差し入れてくれた聖書を読んで、ある御言葉に目が留まった。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
実はこの御言葉は、星野さんが子どもの頃、貧しい家で育って、畑の肥やしを桶に入れて背負って、豚小屋から畑に行く、その道の途中に十字架の付いたお墓があって、その墓石に刻まれていた言葉。
子どもだった星野さんはその道を行く時に肥やしを入れた桶を背負っているので、「重荷を負う者は」という言葉が心に残っていた。
それで、病室でこの御言葉を口ずさむようになって、心の中でイエスと語らうようになって、洗礼を受けた。
神はずっと前から、この人のために計画を立てておられた。
ラザロについてもそうだった。
イエスは、ラザロが危ないと知らせを受けてから、すぐには動かなかった。
2日間動かないで、ラザロが墓に葬られるのを待って、復活させた。
それは、他の人たちが信じるようになるため。
先々のことまで見通してのご計画がある。
星野さんの場合は、もともとはこの人はスポーツマンで、体育の先生だった。
しかし、体育の先生になってわずか2か月後、授業中の事故で、首の骨を骨折してしまい、体を全く動かせなくなった。
若いスポーツマンにとってそれは、死んだのと同じこと。
しかし、イエスはこの人を復活させてくださった。
そして、それに当たって、人が用いられた。
星野さんに聖書を差し入れた友人。
聖書の話をしたわけではない。
聖書を差し入れた。
それなら、誰にでもできる。
また、墓石に、聖書の言葉が刻まれていたこと。
その御言葉はおそらく、生きていた時にその人が自分の墓石にその言葉を刻むようにと遺言しておいた言葉だろう。
それも、用いられた。
本人は用いられることを想定していたわけでもないだろうが、用いられた。
人間が計画しなかったことにも、神には計画がある。

また別の見方をすると、復活したラザロには、布や覆いがまとわりついたままだったということ。
これは、復活したのに、まだ、死の支配がまとわりついているということになる。
これは、ラザロだけでなく、私たちにもあてはまることだろう。
私たちの多くは、イエスを信じて洗礼を受けた。
洗礼というのは、今では牧師が手を水に浸して、その手を頭に置くだけだが、イエスの時代は川で行われていた。
川に全身浸かって、そこから上がってくる。
古い自分に死んで、新しい命を生きていく。
それが洗礼。
洗礼を受けた私たちは新しくされている。
けれども、現実には、私たちには、死の支配の残骸のようなものが色々な形で残っている。
体を縛り付けていた布や頭の覆いのようなものが、今も残っていて、私たちの自由を奪い、息苦しくさせ、ものを見えなくさせているということがある。
私たちが喜んで生きることを邪魔するものが、今も私たちに巻き付いているということがある。
星野富弘さんの詩にも、こういうものがある。
花と自分自身についての詩。
「黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜきれいに咲けるのだろう
私は
大ぜいの人の
愛の中にいて
なぜみにくいことばかり
考えるのだろう」。
これは、私たちにも当てはまることではないか。
そしてそれは、自分では取り除くことができなくても、人の力で取り除くことができる。
星野さんはそのような仕事をしておられるのではないか。
星野さんほどの仕事は出来なくても、星野さんに聖書を差し入れた人も、墓石の御言葉を遺言した人も、そのように用いられたと言える。
もし信じるなら、神の栄光が見られる、とイエスは言われた。
信じよう。
神の栄光を見させていただこう。
信じる者は、神の栄光を見ることができる。
神と人とで織りなす奇跡を、私たちにもイエスが見させてくださる。
それを求めるようにと、イエスが言っている。

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