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2023年01月23日「永遠の命」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4しかし、サマリアを通らねばならなかった。5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 4章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

ファリサイ派の人々に、イエスのことが知られた。
イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けている。
これの何が悪いのかと思うが、洗礼というのは、異邦人がユダヤ教徒になる時に受けるものだと考えられていた。
ユダヤ人は神の民で、異邦人は罪深いという考え方があった。
だから、ユダヤ人は洗礼を受けない。
最初から神の民。
そして、ファリサイ派はそういう考え方に一番こだわる人たち。
だから、洗礼を授けていることがファリサイ派の人たちに知られると必ず、面倒なことになる。
2節に、「洗礼を授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちである」と書かれているけれども、ファリサイ派の人たちにそんなことを言っても、それで収まることはない。
そこでイエスは一度、それまでにいた場所を離れて、自分のふるさとの地方に戻る。

イエスと弟子たちはユダヤを去って、ガリラヤに行った。
ユダヤというのもガリラヤというのも地方の名前。
日本で言うと東北地方とか関東地方というのと同じ。
ただ、ユダヤからガリラヤに行くには、サマリアを通らなければならなかったと書かれてある。
サマリアというのも地方の名前。
しかし、サマリアを通らなければならないということはない。
確かに、一番南の地方がユダヤ地方で、一番北の地方がガリラヤ地方。
真ん中にサマリア地方がある。
しかし、サマリア地方を迂回して、東側に回って、ガリラヤ地方に入ることもできる。
実際、ユダヤ人の中にはサマリア人を嫌がって、そのルートで移動する人は多かった。
それなのに、サマリアを通らなければならなかったと書かれている。
サマリアに行かなければいけない積極的な理由がある。

イエスはシカルというサマリアの町に来た。
この土地は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるということだが、ヤコブやヨセフというのはユダヤ人の先祖。
アブラハムに始まって、その子イサク、またその子にヤコブ。
そこに、ヤコブの井戸があった。
このヤコブの井戸については、旧約聖書に何も書かれていない。
ただ、今も、この井戸だと思われるものがあって、もともとの深さは30メートルくらいだったと考えられている。
とにかくこの井戸は、歴史のある、由緒正しい井戸だった。

そして、私たちがもっと井戸というものについて知っておきたいことは、この時代には、井戸というのはまさに命の源であったということ。
人間は食べ物が無くても、30日くらいは生きられる。
しかし、水がなかったら3日しか生きられない。
食べ物よりも水の方が、命にとってはるかに決定的。
ただ、現代では水道の蛇口をひねるとすぐに水が出る。
いや現代では、蛇口をひねらなくても、蛇口のところにあるセンサーに手を伸ばしたら、勝手に水が出る。
一番簡単に手に入るのが水。
けれども、この時代には、水がめを担いで井戸まで行って、水を汲んで、重くなった水がめを担いで帰る。
重労働。
ただ、そうするより他ない。
水は命。
だから、どんなことをしてでも、手に入れなければならない。
水と聞くと私たちにはありがたみがないが、これは、私たちにとっての生活費という言葉に近いかもしれないくらいのもの。
生活費がなければ生きていけない。
そのために私たちは一生懸命働く。
それと同じくらい、水というのは、生きるか死ぬかというものだった。

この時、イエスは旅に疲れていた。
喉も乾いていた。
それで、弟子たちを町に食べ物を買いに行かせて、井戸のそばに座っておられた。
ちょうどお昼ごろ。
そこに、サマリア人の女性が水を汲みに来た。
水汲みというのは朝にする仕事。
それなのに、昼に水を汲みに来る、それも、町の中に井戸があるはずなのに、わざわざ町の外のこの井戸に水を汲みに来るというのは普通のことではない。
そうしなければいけない事情があった。
そして、イエスは水を汲む道具を持っていなかった。
ということは、この井戸には、いわゆる釣瓶のようなものが取り付けられていなかった。
それは自分で持ってこなければならなかった。
実は、この「井戸」という言葉は、14節にある、「泉」という言葉と同じ言葉。
水が湧いているけれども、人の手がそんなに入っていなくて、簡単に水を手に入れることができないということかもしれない。

そこで、イエスはサマリア人の女性に頼んだ。
「水を飲ませてください」。
そう言われた女性の方でも驚いているが、これが驚くようなことだった。
「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と言われているが、ユダヤ人とサマリア人は敵同士だった。
サマリア人も、元々はユダヤ人。
ただ、遠い昔にイスラエルの国が外国に支配されていた時期があり、その時期に外国からたくさんの人がイスラエルに入ってきて、その外国人とイスラエル人とが結婚して子どもが生まれて、それでできた民族がサマリア人。
元々は同じなので、サマリア人も聖書は読むけれども、旧約聖書の最初の五つの本しか読まない。
この、似ているけれども違う、というのが、一番仲の悪い関係になるということがある。
全然違うのなら気にならないけれども、似ているけれども違うということになると、お互いがお互いに、こちらが正しい、こちらが本物だ、相手は偽物だ、ということになる。
ユダヤ人は信仰の本拠地はエルサレムだと考えていた。
それに対してサマリア人は、この地方にあるゲリジム山という山が本拠地だと考えていた。
今でもサマリア人という人たちが何百人か残っていて、ゲリジム山で礼拝をささげている。
ゲリジム山こそ、礼拝するべき場所だ。
だから、サマリア人は、ユダヤ人がエルサレムからガリラヤの方に離れていくことは認めたが、ガリラヤからエルサレムに登っていく人がいると、邪魔をした。
だから、普段から、ユダヤ人とサマリア人は交際しない。
この「交際」という言葉は、「同じものを共有する」という言葉。
同じものを共有しない
今、弟子たちがサマリア人の町に食べ物を買いに行っているように、ユダヤ人とサマリア人は全く関わりを持たないということではなかった。
ただ、ユダヤ人がサマリア人に何かを頼んだ時には、必ず代金を支払った。
食べ物を買うというような、最初からお金のかかることだけではなく、どんなことを頼んだ時でも、お金を払った。
借りを作らない。
貸し借りをしない。
同じものを共有しない。
交際しない。
ビジネスライクなやり取りだけだった。

だから、この場面は驚くようなこと。
ユダヤ人がサマリア人に話しかけている。
水を求めている。
でも、水を求めるだけで、お金を払う様子ではない。
サマリア人は水を汲む物を持っている。
しかし、イエスは水を汲む物を持っていない。
サマリア人の物を貸してくれということか。
そんなことを言う人がいるのか。

イエスは今、乗り越えることのできない壁を乗り越えようとしている。
人と人の間に壁があって、もうそれは当たり前だ、常識だとみんながそう思っている。
でもイエスは、それを壊す。
人と人の間には、どんな壁があるのも良くない。
信仰の上での壁であっても、人種や民族という壁であっても、壁があるのは良くない。
私たちは、信仰の違いや人種や民族の違いがあると、まず壁を感じるということがある。
しかし、イエスは壁を壊す。
何年か前、トランプ大統領がアメリカの大統領になった時、トランプ大統領は、「メキシコからアメリカに勝手に入ってくる人が多いので、メキシコとアメリカの国境線に、高い壁を作ってアメリカに入れなくしよう」と言った。
アメリカにはアメリカの言い分があるだろう。
元より、勝手に入ってくるというのは不法入国。
ただ、それに対して、壁を作って入れないようにしようと言った。
その時、ローマ教皇が言った。
「橋を架けずに壁を作ろうと言うのは、キリスト教徒ではない」。
イエスは橋を架ける。
橋の架かっていない所に橋を架ける。
壁を壊して、橋を架ける。

ただ、この女性は、まだイエスの考えに気付いていなかった。
どうしてそんなことを言ってくるのか分からない。
イエスは言った。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。
おそらくこの女性はこの言葉の意味をほとんど理解できなかっただろう。
しかし、「水を飲ませてください」と言ったのは目の前にいるこの人で、この人が自分に「生きた水」を与えると言っていることは分かった。
そこで、この女性は言った。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」。
「主よ」と呼びかけているが、これは大人の男性に対する普通の呼びかけの言葉。
この女性は、イエスの言った「生きた水」のことを、普通の水のことだと思っている。
「生きた水」という言葉は、たまり水ではなく、動いている水という意味。
川が流れているのは生きた水。
海の満ち引きも生きた水。
この井戸のように、泉が湧いていても生きた水。
あなたは汲む物を持っていないのに、どうやってここの水を汲むのですか。
ただ、この女性は、イエスが、普通の人とは違う、権威があるような様子だということも感じている。
だから、それに少し反発しながら、こう言っている。
「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。
ヤコブが与えてくれたこの井戸は、自分たち皆にとって命の源だった。
この水で、自分たちは生きてきた。

イエスは言った。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。
水を飲んでも、また渇く。
しかし、イエスの与える水を飲むと、もう渇くことはない。
それは、一度飲んだだけでもう十分ということではない。
イエスの水がその人の内で泉になる、水が湧き出しつづける。
その水とは、永遠の命に至る水である。
もうこれは水の話ではない。
救いの話。
救われた者は、渇くことがなくなる。

この時代、水というのは命の源として強く意識されていた。
これは現代に置き換えると、お金ということかもしれない。
あるいは、人によっては地位や名誉ということかもしれない。
しかし、水でもお金でも地位でも名誉でも、一度もらえたらそれでいいということではない。
水は飲みつづけなければいけないし、お金や地位や名誉ということになると、もっと多くを求めるということがある。
求めつづける。
それは、渇いているということ。
結局いつまでも、渇いたまま。
しかし、救われた者は渇くことがない。
自分のこと、この世の事がすべてではないと知っているから。
神が私をこの罪の世から取り戻してくださったということを知っているから。
この世にあっても、この世とは違う次元で生きているから。
だから、イエスの与える水はその人の内で泉になる。
自分のことも、この世のことも、越えて行ける。
この世の壁を壊して、橋を架けることもできる。

この女性は言った。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。
この女性はまだ、その水を普通の水のことだと思っている。
ここで汲むものだと思っている。
しかし、結局、この人に、その水が与えられていくことになる。

その最初のきっかけは、イエスがこの女性に「水を飲ませてください」と求めたことだった。
しかしそれは、人と人との間にある壁を考えると、できないことだった。
私たちも、壁のある世の中を生きている。
自分ではそれを生まれた時から常識だと考えていて、不思議にも思っていないかもしれない。
しかし、私たちが聖書の時代のユダヤ人とサマリア人のことを考えると残念に思うように、ずっと後の時代の人たちが、今のこの私たちの時代を考えると残念に思うということはあるだろう。
恐らく私たちは、自分が考える以上に、壁に取り囲まれて生きている。
しかし、そこに、壁を壊して橋を架けようとするイエスの力が働くことはある。
それも、水を汲むというような、いつもの日常の中で、そういうことが起こることがある。
この時、女性が水を汲みに来て、イエスに出会った。
女性の方からすると、これは偶然ということだったかもしれない。
しかし、それを偶然だと考えるべきではない。
後の所を読むと分かるが、イエスはこの女性のことを知っていた。
こちらからすると偶然に思えるようなことでも、イエスからすると必然。
イエスがこの人を選んで出会ってくださったように、私たちに目を留めてくださることもある。
その時私たちは、このサマリア人の女性がそうであったように、理解できないかもしれない。
この女性のように、イエスに言い返すようなことをしてしまうこともあるかもしれない。
そうであったとしても大事なことは、イエスに求めること。
この女性はイエスの話を理解できていない。
しかし、最後に、イエスに求めた。
そして、イエスは与える。
求める者には与えられる。
求めよう。

ある牧師の話。
ある人が治らない病気にかかった。
その人はクリスチャンではなかった。
入院したその人は、治らない病気と闘った人の書いた本や、色々な宗教の本を読んだ。
まさに、渇いていた。
そして、聖書を読んだ。
その人は病室に牧師を招いて、言った。
「入院してから、いろいろな本を読んだが、どの本も、いかに死ぬかということが書かれてあった。しかし、聖書だけは、いかに生きるかということが書かれてあるように思った。だから、洗礼を授けてください」。
牧師はその人に洗礼を授けた。
求める者には、与えられる。

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