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2024年03月29日「十字架の死」

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聖句のアイコン聖書の言葉

44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 23章44節~49節

原稿のアイコンメッセージ

今日は午後からイースター・チャリティー・コンサートが行われます。
収益は全額、能登半島の被災地に寄付いたしますので、この折にそういうチャリティーということも思い起こして、ぜひご覧ください。
チャリティーという言葉がありますけれども、この言葉は聖書から来ているんですね。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますけれども、カリタスというギリシャ語の言葉がありまして、それは神の恵みという意味なんですね。
そのギリシャ語のカリタスが英語のチャリティーという言葉になるんですね。
神の恵みを受けた者が、恵みを他の人たちにも分け与えていくっていうことですね。
ぜひそういう場にしたいと思っていますので、午後からの時を楽しみにお待ちください。

さて、今日の場面はイエス様が十字架の上で息を引き取る場面です。
その時には、こんな不思議なことが起こったんですね。
お昼の12時ごろなのに真っ暗になったと書かれています。
これは一体何なんでしょうか。
もしかしたらこの中に、日食ではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
日食というのは地球と太陽の間に月が入ることですね。
地球と太陽の間に月が入りますと、太陽の光が地球に届かなくなりますので、暗くなりますね。
本当にもうそれはびっくりするくらい暗くなりますね。
今日の場面はそのことを言っているんでしょうか。
実は、そうではないんですね。
イエス様が十字架に付けられたのは過越祭というお祭りの日だったと聖書に書かれています。
そしてその、過越祭というお祭りは、満月の日に行われるお祭りでした。
そして、満月の時には日食は起こらないのだそうです。
ですのでこれは日食ではないんですね。
じゃあ一体何なのかということになりますけれども、イエス様が逮捕される前に言っておられたことを思い出しました。
逮捕される直前の22章53節で、イエス様はこう言っておられたんですね。
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。
今は闇だとイエス様は言っておられたんですね。
ご自分を逮捕しに来た人たちに対して、あなたたちは闇だ、今は闇の時だと言っておられたんです。
このイエス様の言葉と今日の場面は一致しますよね。
今は闇の時なんです。
その闇の中でとうとうイエス様が十字架に付けられた。
その時、世界は暗闇に包まれた。
世界は罪の暗闇の中にある。
そういうことで、今日の場面にまるで日食のような場面が描かれているのではないかと思います。
もうどうしようもないような大きな罪の暗闇の中に、人間が、世界が、落ち込んでしまっている。
そういうことではないかと思います。

そして、その後で、また不思議なことがわざわざ書かれていますね。
続きのところに、ここに書かなくてもいいようなことがなぜか書かれていますね。
「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と書かれているんですね。
十字架の場所は町はずれです。
町の中心にあった神殿とは全然違う場所です。
それなのに、神殿で起こったことが書かれています。
全然違う場所なんだけれども、これも関係のあることなんだぞということですね。
この「神殿の垂れ幕」というのは何なのかと言いますと、神殿の一番奥にかかっている垂れ幕です。
神殿の一番奥というのは、普段は人が入れないようになっていて、その場所に神様がいらしてくださると考えられていたんですね。
人間がその場所に入っていいのは、年に一回だけでした。
年に一回だけしか、人間は神様と直接向き合うということができなかったんですね。
それも、その場所に入っていいのは、一人だけだったんです。
けれども今、その神殿の幕が裂けました。
この幕は幕と言っても、長さが18メートル、厚さが10センチもあるような幕なんですが、それが真ん中から裂けたんですね。
この幕は、神様と人をへだてていたものです。
その幕が裂けた。
神様と人をへだてる壁がなくなったんです。
そうなりますとどうなるでしょうか。
世の中は暗闇なんですよね。
その暗闇に向かって幕が裂けます。
神様が暗闇の中に出てこられます。
暗闇の中で、神様の出来事が起こります。
それが46節ですね。
イエス様は大声で叫んで、息を引き取りました。
この世の罪の暗闇を引き受けて、十字架で命をささげてくださったんですね。
人々の罪がイエス様を十字架に付けました。
しかし、イエス様は一言の反論もなさらずに、人々の罪に背中を押されるようにして十字架に付けられました。
その時イエス様は人々の罪を引き受けてくださっていたんです。
そして、罪に対する罰を代わりに受けてくださったんです。
聖書は罪に対しては罰を受けなくてはならないと言いますが、その罰を、イエス様が引き受けてくださったんです。
神殿の垂れ幕が裂けた時にそのことがついに起こりました。
神様と人をへだてる壁がなくなった時、そのことが起こりました。
本当だったら、神様と人をへだてる壁がなくなったんだったら、世の中は罪の暗闇なんですから、神様の怒りが人々に降りかかってもおかしくないですね。
けれども、罪に対する神様の怒りを、イエス様がすべて引き受けてくださったんです。
イエス様は人々の罪を引き受けて、その罪に対する神様の怒りも引き受けてくださったんです。

ただそれはイエス様にとっても楽なことではありませんでした。
十字架の刑罰というのは大変苦しい刑罰です。
十字架刑というのは、死刑なんですが、すぐに死ぬことはできないんですね。
十字架にはりつけにされる時には、まず、両方の腕をものすごく強く引っ張られるんですね。
両側に人が立って、両方の腕を、肩が外れるまで引っ張ります。
その上で、大きなクギで十字架に打ち付けられるんですね。
クギを打つ場所は手首です。
良く絵なんかで手のひらにくぎを打たれた絵を見たりすることがありますが、それは間違いです。
クギを打つのは手首です。
もし手のひらにクギを打ったら、自分の体重を支えることができません。
手のひらが裂けてしまって下に落ちてしまいます。
ですので、手首の骨と骨の間にクギを打ち込むんですね。
そして、足を重ねまして、踵にクギを打ち込みます。
そうやってはりつけにされるんですね。
もうそれだけで気が遠くなるくらい痛いと思いますが、それだけでは死ぬことはありませんね。
十字架で、どうして死ぬのかというと、これは窒息死なんです。
息ができなくなって死ぬんですね。
どういうことかと言いますと、まず、両方の腕がものすごく引っ張られた状態で体が固定されていますので、普通に胸をふくらませて息をするということができないわけです。
ではどうやって息をするのかと言いますと、はりつけにされるときにはひざを少し曲げられてかかとにクギを打たれますので、ひざは曲げたり伸ばしたりできるんですね。
上半身はもう動かせないんですが、ひざは曲げたり伸ばしたりできます。
ですので、十字架に付けられた人はひざを曲げたり伸ばしたりして、それでちょっとずつ息をするということなんだそうです。
ですけれども、くぎを打たれていますから、少しずつ血が流れていってしまいますし、だんだん体力もなくなってきて、体を動かすことができなくなりますね。
そうすると息ができなくなって死んでしまう。
それが十字架なんですね。
窒息で死ぬんですが、その苦しみをなるべく長くしてやろうというとても残酷な刑罰なんです。

そして、その苦しみの最期に、イエス様は言いますね。
46節です。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。
最期の言葉ですね。
イエス様は最後に、こう言ったんでした。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。
この言葉を聞くと、皆さんどんなふうにお感じになられますでしょうか。
穏やかな気持ちで、すべてを神様におゆだねするつもりでそう言ったんでしょうか。
そうではないんですね。
この言葉をイエス様は大声で叫ばれたと書かれています。
穏やかな声で言ったんじゃないんです。
大声で叫んだんです。
イエス様はこの世の罪の暗闇を一身に引き受けて、ご自分の命を投げ出してくださったんですね。
罪に対する罰を受けるというのはイエス様にとってもそういうことだったんです。
楽なことではないんですね。
本当に命がけだったんです。
命がけで命を投げ出したんです。
私の命をささげます。
だから、誰にも罰を与えないでください。
そういう必死の叫びなんですね。

そしてここで、また不思議なことが起こります。
百人隊長が神を賛美しはじめるんですね。
「本当に、この人は正しい人だった」なんて言っていますね。
これは不思議です。
百人隊長というのはローマ帝国の兵隊なんですが、ローマ帝国の兵隊というのはイエス様を十字架に付けた人ですよね。
それも、百人隊長なんですから、現場の責任者です。
それなのに、「本当に、この人は正しい人だった」なんて言って、賛美している。
この人は、この場で何が起こったのかが分かっているような感じですね。
しかし、それにしても不思議です。
この人はイエス様を殺した現場の責任者です。
だったら、賛美するより、怖くなってしまいませんかね。
自分が何をしてしまったのかを知ったら、神を賛美している場合ではないですね。
こんなことをしてしまった自分はどうなってしまうんだろうと恐れてもいいような場面です。
それなのにこの人は神を賛美するんですね。
神の力が働いているっていうことですよね。
神の子イエス様がご自身の命をささげてくださったから、もう誰も罰を受けることはない。
もうここに、救いが始まっている。
この百人隊長は誰かからそれを知らされたわけではありません。
ですけれども、それが分かっている。
そこまでのことが分かっている。
「本当に、この人は正しい人だった」というのは、このイエスという人は罪がなかったのに死刑にされたんだなあというだけのことではありません。
もうここに救いが始まっていることが分かっているんです。
自分がその救いの中に入れられていることが分かっているんです。
だからここで賛美するんですね。
それはこの人が何かこう、頭で考えて、真理にたどり着いたとかそういうことではないですね。
たとえ人間がどうであろうと、世の中が罪の暗闇の世の中だろうと、神の力は人よりも世の中よりも強い。
神の救いは人がどうであろうと、世の中がどうであろうと、広がっていく。
そういうことだと思います。
その中で私たちは賛美する。
賛美ってそういうことですね。
救ってくださいって賛美するんじゃなくて、私たちがどうであろうと私たちが救われているから賛美する。
私たちよりもはるかに強い神の力が私たちを救ったから賛美する。
感謝の気持ちが賛美になる。
そういうことだと思います。

不思議なことはまだまだ続けて起こります。
この場所に集まっていた人たちが帰っていくんですが、「胸を打ちながら帰っていった」と書かれています。
これも不思議なことです。
この人たちは、イエス様を十字架に付けろと叫んだ人たちですよ。
イエス様が死ぬところをその場で見届けてやろうと考えていた人たちですよ。
それなのに、胸を打ちながら帰っていくんですね。
この、胸を打つというジェスチャーは、聖書では、悲しみを表すジェスチャーなんですね。
この人たちは、自分が間違っていたと思って、悔い改めているんですね。
人々の心が変えられているんです。
神に背いていた人たちが、救いへと向けられているんです。
本当だったら、見たいものが見れた、イエスは確かに自分の目の前で死んだと満足して帰っていくはずの人たちが、神の力によって心を変えられているんです。
神の力は、百人隊長でも救うんです。
十字架に付けろと叫んだ人たちも救うんです。
どんな立場の人であっても、どんな考えを持っている人であっても、神の力の前では問題ではないんですね。
神の力が働く時には救いが起こるんです。
それが神の力なんです。
何よりも強い神の力は、人を救う力なんです。
世の中は暗闇ですが、神の力は光なんですね。
暗闇は光には勝てません。
光を押しとどめることのできる暗闇はありません。
人の心の中にどんな暗闇があろうと、人の行いがどれだけ暗闇に支配されていようと、神の力が差し込んでくるとき、暗闇は消し飛んでしまうんですね。
そこに、賛美が起こる。
悔い改めが起こる。

今、私たちはその光の中にいます。
どんな暗闇よりも強い神の光の中にいます。
だから私たちはこの礼拝の中で罪を悔い改めたんですし、賛美したんです。
普通だったらそんなことしませんよ。
この場面の直前に、イエス様と一緒に十字架に付けられた人が出てきました。
その人、死刑になるようなことをした人なのに、我々を救ってみろなんてイエス様に対して言ったんですね。
死刑になるようなことをしたのに、自分は救われていいと思っているんです。
自分はそこまで悪い人間ではない、そうするしかなかったんだ。
そう考えるのが人間です。
たとえ罪を犯したとしても、人のせいにして、生まれた環境のせいにして、言い訳をするのが人間です。
というより、言い訳に基づいて罪を犯すのが人間です。
何もないところで人間が自分から悔い改めるなんてないですよ。
でも、神の光が差し込んでくる時、賛美が起こる。
悔い改めが起こる。
私たちの礼拝の中でもそれは起こる。
それは、この礼拝の場所が神の力が働く場所だということなんです。
私たちも今、十字架のもとにいるわけですが、この場所に、神の力が働いている。
暗闇の世にあって、ありえないはずのことが起こっている。

今日の最後の49節では、イエス様のことを知っている人たちが遠くに立って、これらのことを見ていたと書かれていますね。
これらの出来事をどう考えればいいのか分からなくて呆然としているということでしょうか。
確かに、呆然とするような出来事です。
しかし、大事なことは、賛美と悔い改めのある所には何よりも強い神の力が働いていることを知ることです。
本当はこの人たちは、一緒に賛美して、一緒に悔い改めるべきでした。
でもこの人たちは、驚いてしまって、この時はそうすることができなかった。
これは距離的にも、心の上でも、遠くに立っていたから、十字架のイエス様から離れていたからかもしれません。
だとしたら私たちは近くに立ちたいんです。
イエス様の近くにいることを求めたいんです。
それを求めましょう。
いえ、求めなくたって、イエス様は約束してくださっていますね。
私は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
そして、私たちが求めなくたって、この場所には賛美があり、悔い改めがある。
私たちの思いなんかよりもはるかに強い救いの力が、私たちに及んでいるんです。

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