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2024年02月25日「イエスを殺そうとする人々」

イエスを殺そうとする人々

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章31節~42節

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聖句のアイコン聖書の言葉

31ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」34そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。37もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」39そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
40イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。41多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」42そこでは、多くの人がイエスを信じた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 10章31節~42節

原稿のアイコンメッセージ

2014年から2016年にかけて、山中雄一郎先生が私たちの教会におられた時、ヨハネによる福音書からの説教をなさっておられたということをお伺いしていたが、山中先生が説教をなさったのはヨハネによる福音書の10章30節までだったということを、先週たまたま知った。
何の気なしに昔の年報を見て、ふと目が止まったところに、山中先生が10章30節までお話になられて、引退なさったということを知った。
つまり、今日の場面からは、山中先生がお話になられたところの、その後のところ。
私は自分自身が板宿教会所属の西神伝道所――今は教会――の出身で、その折、山中先生が板宿教会の牧師であられたので、今日から、山中先生がお話にならなかったところに入っていくということに格別の思いを抱いている。
勝手に、山中先生からバトンを受け取ったような気がしている。

ただ、今日の場面は良い場面ではない。
イエスを殺そうとする人たちが、石を取り上げる。
イエスの時代には神殿の拡張工事をしていたので、大きな石はそこいらにいくらでもあった。
今日のところでは、「また」石を取り上げたとあるが、8章59節の場面でも、同じようなことがあった。
人々がイエスを殺そうとずっと付け狙っている感じ。

しかし、石を取り上げた相手に向かって、イエスは言った。
「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」。
わたしは善い業を示しているが、どの業が気に食わないのか。
ユダヤ人たちは答えた。
「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。
善い業は善い業だ、ただ、イエスの言葉が気に入らない。
今日の個所の直前のところで、イエスは、神がイエスの父であり、イエスと父なる神とが一つであると言った。
そのことがユダヤ人には受け入れられない。
もちろん、ただの人がそんなことを言ったら神を冒涜したことになる。
しかし、イエスは事実、神の子。
神はイエスの父。
そのしるしとして、奇跡をなさった。
善い業を示してこられた。
そして、その善い業というのは、生まれつき目が見えない人を見えるようにするというような、旧約聖書に、これができるのが救い主であると記されていることだった。
イエスは神の子であり、神のもとから来た救い主。
しかし、そのしるしを見ても、信じない人がいた。

その人たちに、イエスは言われた。
「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」。
この二重のカギカッコの中に入っている部分は、旧約聖書からの引用。
これは詩篇82編の言葉。
神が人に向かって、「あなたたちは神々である」と呼びかけている。
新共同訳では、この詩篇82編の言葉は、「あなたたちは神々なのか」と疑問文になっているが、原文では、疑問文ではない。
「あなたたちは神々である」と神が人に言っている。
これはどういう状況で語られた言葉かというと、人間の権力者たちが思い上がって、不正な裁きを行い、弱い人々を顧みず、虐げていた。
そのような権力者たちに対して神は言う。
「あなたたちは神々だ。皆、いと高き方の子らだ」。
「しかし、あなたたちも人間として死ぬ」と続けて言われる。
つまりこれは皮肉で、神々と言っている。
ただ、思い上がって、神にでもなったつもりでいる権力者たちが神々と言われているのなら、神の元から遣わされたイエスが神の子を名乗ったところで何が悪いのか。
まして、権力者たちのことが、この35節で、「神の言葉を受けた人たち」と言われている。
ここのところの「言葉」という単語は「ロゴス」というギリシャ語で、これはいろいろに訳すことができる言葉。
この場合は、人を治めるための役割や権力を神から受けた、というくらいの内容になるだろう。
権力者とは、神から与えられた務めだということ。
そう考えると、イエスこそ、神から与えられた務めを行っている。
イエスが神の子であると名乗ったからと言って、何が冒涜なのか。
まして、この福音書の1章では、イエスのことが神の言葉だと言われていた。
それも同じ神の「ロゴス」という言葉。

そして、ここでわざわざ、「聖書が廃れることはありえない」と言われている。
これは、神の言葉はその時だけでなく、時代を超えて、場所も超えて、何度でも実現するということ。
ただ、そんなことは言われなくても、ここにいた人たち全員が知っていたこと。
それをわざわざ言うというのは、詩篇82編に描かれている不正な裁きを行う権力者と、今、イエスを頭から信じないで、イエスを殺そうとする人々を重ね合わせているのだろう。

しかしそれでもイエスは、ご自分を殺そうとする者たちをも招いてくださる。
「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。
イエスを殺そうとする者たちは、イエスの言葉を問題にしたが、イエスの業は問題にしなかった。
そこでイエスは、ご自分の業を信じるようにと言う。
イエスは父なる神の業を行っている。
すごい奇跡を行っていると言いたいのではない。
父の業を行っていると言った。
だから、その業を見れば、イエスと神とが一つであるということが分かる。
父がイエスの内におられ、イエスが父の内にいることが分かる。

しかし、このようなことを言ってしまうと、ユダヤ人としては、神を冒涜したということになる。
「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた」。
どうやって逃れたのかは分からない。
ただこれも、父の業だと言える。
イエスがここで捕らえられて殺されることは神の御心ではない。
イエスが殺される時のことが、この福音書では「イエスの時」と言われるが、それは十字架の時であり、神が定めた時。
神の時は人の都合で変わったりはしない。
人が殺そうとしても、今はまだ、捕らえることもできない。
そのような、神の業。
ユダヤ人たちは、その業を見て、父の業だと気づくことができただろうか。
この人たちは、イエスが神の子であるはずはない、だから、イエスの言葉は神を冒涜する言葉だ、と思い込んでいる人たちなので、気づくのは難しかったかもしれない。
どんなことでも、最初に、「そんなことがあるはずはない」から入ってしまうと、そこなら抜け出すことは難しい。

その後、「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」。
ヨルダンというのは川。
その向こう側というのは、イスラエルの外。
外国。
今はまだ時ではないので、捕まるわけにいかないから、そこに出て行った。
その土地の人たちはヨハネを知っていた。
ヨハネというのは洗礼者ヨハネ。
洗礼者ヨハネはイエスを証しする人として、この福音書の1章に登場してきた。
人々はヨハネから、イエスについての証しを聞いていた。
だから、「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた」。
ヨハネは神の子でも救い主でもないので、奇跡を行うことはなかった。
ただ、ヨハネの証しを聞いて、そして、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」と言っているということは、イエスのなさった奇跡を見た。
そして、ヨハネの言った通りだということで、イエスを神の子救い主として受け入れた。
ヨハネはイエスが父の業を行うということも証ししていたのだろう。
そして、人々は、イエスのなさる奇跡を見て、それが父の業だと理解した。
父がイエスの内におられ、イエスが父の内にいることを悟った。

この人々の姿は、さっきまでの、イエスを殺そうとしていた人たちの姿とは正反対。
どうしてこのような正反対の人たちが並べて描かれているのか。
私たちは今、問われている。
あなたがたはどちらなのか。
最初から、イエスが神の子であるはずがない、と決め込んで、イエスを否定するのか。
イエスについての証しを聞いて、――聖書はイエスを証しするものだから、イエスについての証しというのは聖書を読むことも含まれる。つまり、私たちにもイエスについての証しを聞くことができる――、そして、イエスのなさる父の業を見て、――イエスは今も生きて働いておられるというのが聖書。だから、私たちもイエスのなさる業を見ることができる――、その上で、イエスを神の子だと認めるのか。
そして、この次の場面からは、イエスのなさった奇跡の中で、この福音書では最後にして最大の奇跡、「ラザロの復活」が語られていく。
死んだ人を生き返らせる奇跡。
それは、イエスが神の子、救い主であって、この世で最も強い力である死の力よりも強い力を持っておられ、それを人に与えてくださることのしるし。

ただ、ここで難しいことがある。
イエスはもう地上におられない。
イエスは今も生きて働いておられるとは言っても、私たちはイエスと顔と顔を合わせて会うことはできない。
証しというなら、私たちは聖書を持っている。
聖書を読んで、イエスについて知ることができる。
しかし、イエスが聖書に書かれている通りの働きをしているかどうか、イエスが本当に今も生きて働いておられて、父の業を行ってくださっているのかどうかは、イエスが地上におられない以上、判断するのが難しい。

ただこれは、頭から、「そんなことがあるはずはない」と否定しないなら、そうそう難しいことでもないように思う。
今日、私たちがこのような話を聞いたということはどういうことか。
聖書は言っている。
頭から否定しないなら、私たちも知ることができる。

2013年のノーベル物理学賞はイギリスの物理学者であるヒッグス博士が受賞した。
この人は、すべての物質に重さを与える素粒子であるヒッグス粒子というものの存在を理論的に予言した。
ヒッグス博士はヒッグス粒子を発見したのではなく、存在するはずだ、と予言した。
その予言から50年近くがたってから、実際に観測された。
どうしてヒッグス博士自身が発見できなかったのかというと、ヒッグス粒子は、目で見ることはできず、手で触ることもできず、耳で聞くこともできないものだから。
人間の体で感知できないだけでなく、最近まで、どんな分析装置を使っても捉えることが出来ないものだった。
それが、最新の大掛かりな装置を作って行った実験で、実際にヒッグス粒子が観測された。
ヒッグス粒子は神の粒子とも呼ばれるのだそう。
もし物質は質量がなければ存在できない。
ヒッグス粒子はすべての物質に重さを与える素粒子であり、すべてのものを存在させているものであるので、神の粒子と呼ばれる。
ただ、目で見ることはできず、手で触ることもできず、耳で聞くこともできないものが、どうして存在すると思えたのか。
一言で言うと、それがあると仮定するといろんなことがうまく説明できるようになるということ。
確かに見ることもできない、知ることもできない、確かめることもできないけど、それがあると仮定すると見事にいろいろな現象が説明できる。
逆に、それがないならいろいろな現象がうまく説明できなくなる。
そこで、科学者たちは、見ることも触れることもできない未知の粒子をヒッグス粒子と呼んで、いつか見つかると信じつづけてきた。

イエスも、今は目で見ることはできず、手で触ることもできず、耳で聞くこともできない。
しかし、イエスは今も生きて働いておられる。
それは、イエスが今も生きて働いておられると信じて、様々な出来事を観察していけば、知ることができること。
だから今日、イエスは私たちにこのような話をした。

神を信じるのは非科学的だという人がいる。
しかし、他ならぬ科学者たちが、見ることも触ることも聞くこともできなくても、必ず存在すると信じて、探し続けた。
どうしてかというと、それがあると仮定するといろんなことがうまく説明できるから。
それがないと、説明できなくなるから。
イエスも、見ることも触ることも聞くこともできない。
ただ、イエスがこのように働いてくださっていると考えると、納得のいくことというのはある。

何かあると、偶然だ、と言って済ませてしまう人がいる。
偶然だ、というのは、説明する必要がない、ということ。
もっと言うと、頭から、説明しない、考えないということ。
しかしそれは、本当に偶然だったのだろうか。
偶然というのは、それについては深掘りしないということ。
だから、偶然であるかどうかは証明できない。

イエスが働いてくださっているかどうかを感知するアンテナを立てていたい。
電波というものも見えない聞こえない触れないものだが、アンテナを立てていればキャッチできる。
ヘブライ人への手紙11章3節にこのような御言葉がある。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」。
そのアンテナさえあれば、見えない神の働きを知るのはそんなに難しいことではない。

実際に、神が私たちを、神の働きを知ることができるように造っておられるからこそ、私たちは、今日のこのような御言葉を聞いている。
業によって信じることができる、と。
実際、私たちは特別に造られている。
フルカラーでものを見ることができるのは人間だけ。
私たちが見ている色は赤と青と緑の組み合わせで出来ている。
赤と青と緑の組み合わせが、私たちが見ているすべての色。
私たちの目には色を識別するための、赤と青と緑に対応する細胞がある。
それで、全ての色を捉えることができる。
しかし、三種類の細胞のうち1つでも欠けたら、モノクロになってしまうのだそう。
そして、自然界の生き物の中で3種類全て持っているのは人間だけ。
つまり、人間以外の全ての生き物はみんな白黒の世界に生きている。
いろいろな生き物たちは、それぞれ色鮮やかな姿をしているのに、本人たちには白黒にしか見えていない。
それは不思議なこと。
色を知らない動物の毛皮がどうして鮮やかな色なのか。
白と黒の2色だけで色付けされていても彼らは一向に困らない。
生きていく上では必要のない美しい色合いは、環境に適した者が生き残るという理論では説明することができない。
生き物がフルカラーなのは、フルカラーでそれを見ることができる人間がいて初めて意味を持つ。
この世界は、人間が見て感動するために造られている。

私たちだけが色を見ることができる。
神は私たちに、そのような目を与えてくださった。
そして、それ以上のこととして、神は私たちに、神の業を知ることができるアンテナも与えてくださっている。
だから今日、イエスはこのような話をしてくださった。
神の業をしっかりとキャッチしていきたい。
神は今日も、私たちのために善い業を行ってくださっている。

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