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2023年01月15日「「天から来られる方」」

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聖句のアイコン聖書の言葉

31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 3章31節~36節

原稿のアイコンメッセージ

今日のところはややこしいところ。
誰が話した言葉なのか。
カギカッコに入っているので、誰かが話した言葉ということになっている。
しかし、元々の聖書にはカギカッコはない。
段落分けもない。
ずーっと同じような形で文字が並んでいるだけ。
そして、今日のところのすぐ前のところで、一度、カギカッコが終わっている。
この、すぐ前のところの言葉は、洗礼者ヨハネの言葉。
それは分かりやすい。
しかし、今日のところは誰の言葉なのか。
それが分かりにくかったので、この新共同訳を作った人は、一度カギカッコを閉じて、新しくカギカッコを付けた。
ただ、新しい人が登場しているわけではないので、やはり洗礼者ヨハネの言葉であると考えることはできる。

実際、洗礼者ヨハネの言葉として、ここを読むことはできる。
洗礼者ヨハネは、イエスのことを知っていた。
イエスは、「上から来られる方」、「天から来られる方」だ。
それに対して自分は、「地から出る者」、「地に属する者」だ。
このすぐ前のところに、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という洗礼者ヨハネの言葉があったが、洗礼者ヨハネは、その流れの中で、イエスと自分を並べて、あの方はこうだ、自分はこうだ、と語っている。
あの方は天から来られるが、私は、地に属する者として、あの方のことを語っているだけ。
私の話なんてどうということはないですよ、ということ。

それに続けて、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」。
イエスは、天におられた時に神から示されたことを証しする。
証言する。
イエスが神の子だからこそ知ることができたことを、この世で広めようとしてくださっている。
けれども、「だれもその証を受け入れない」。
天についての証言も、神についての証言も、人は聞かない。
イエスの言葉を、確かな証言であると受け取らない。
要するに、イエスはいい加減なことを言っていると人間は考える。

証言というのはそういうものかもしれない。
私たちも人の証言を聞くことがあるが、その証言が自分の考えに合っていれば、受け入れる。
自分の考えと違うことを証言されると、受け入れない。
そして、証言した人のことを、間違っていると感じる。
そういうもの。

しかし、イエスの証言を受け入れないということは決定的なこと。
イエスの証言を受け入れないということは、神の子を間違っていると見なすこと。
しかし、イエスの証しを受け入れるということは、これも決定的なこと。
「神が真実であることを確認したことになる」。
神の子は神について証言する。
だから、神の子の証言を真実として受け入れるということは、神が真実であると受け入れること。
いや、「受け入れる」ではなく、「確認したことになる」と言われている。
証言を受け入れるかどうかということと、それが真実であると確認したかどうかということは、本来、別のこと。
証言を受け入れても、その証言が実は間違いだったと後から分かることというのはある。
しかし、この福音書の1章12節には、こう書かれている。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。
受け入れるかどうかが決定的。
私たちが証言を確認する、裏を取る必要はない。
受け入れるなら、神が確実に私たちを神の子としてくださる。
神が、本当にそうしてくださる。
私たちが何かをする必要はない。
神が確かにそうしてくださるんだから、これはもう、確認したのと同じことだ。
それが、「確認したことになる」ということ。

話を元に戻すが、洗礼者ヨハネは、自分とイエスを対比して、イエスこそは天から来られた神の子、救い主だ、と言っている。
そして、救いが広まっていくのを第三者的な立場で見つめている。

ただ、この言葉が誰の言葉なのかということで言うと、洗礼者ヨハネではないと考えることもできる。
洗礼者ヨハネではなく、この福音書を書いたヨハネ。
福音書を書いたヨハネがここで、会話の文章ではなく、事実を説明する文章として、これを書いていると読む事もできる。

その場合、最初のところで、「地から出る者」、「地に属する者」と言われているのは、洗礼者ヨハネのことではなくて、私たちのことだということになる。
私たちは天に、神のみもとにいられなくなった者。
神の言葉に背いて、罪を犯して、神のみもと、エデンの園から出て行かなければならなくなったのが人間だと聖書は言う。
しかし、その私たちのために、天から神の子がいらしてくださった。
「地から出る者」、「地に属する者」である私たちが語ることというのは、すべてのものの上におられる方の語ることとは全く違う。
私たちの言葉は、天において、神から示されたことを伝えるような言葉ではありえない。
しかし、イエスの証しを受け入れるなら、私たちも、神の子とされる。

そして、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」。
イエスは、そのお働きを始めるに当たって、聖霊を受けていた。
旧約聖書の時代にも、聖霊が人に降るということはあった。
しかし、聖霊がずっとその人に留まるということはなかった。
けれども、聖霊はイエスにずっと留まって、働き続けた。
そして、聖霊の働きというのは証しをする働き。
だからここで、神の言葉を話すのは、霊が与えられるからだと言われている。
使徒言行録の1章8節でも、弟子たちに対して、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われている。
「力」と聞くと、どんな力かと思うが、それに続けて、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われている。
聖霊の力は、証しする力。
弟子たちもまさに、そのように働いた。
イエスは、神の言葉を証しした。
弟子たちも、神の言葉を証しした。

今日の最後の部分は、この福音書の3章16節からのところと重なる話。
同じことを、言葉を変えてもう一度言ったような話。
そして、3章16節からの部分は新共同訳ではイエスの言葉だということになっているが、これも議論のある話。
イエスが神のことを「神」と呼ぶことはほとんどない。
ほとんどの場合は、神のことを「父」と呼ぶ。
3章16節からのところも、今日のところも、両方とも、福音書を書いたヨハネの文章かもしれない。
ただ、今日の内容を考えるなら、それは決定的に重要なことではない。
決定的に重要なのは、私たちがイエスの証しを受け入れるかどうか。

「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」。
人を救うことについて、神はイエスにすべてを任せた。
3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあって、これと重なる言葉。
その後、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」。
これも3章16節に、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉があった。
今日の最後の言葉、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と言われていて、恐ろしいことが言われてもいるが、これはある意味、人間にとって本来的なこと。
神の言葉に背いて、罪を犯して、神のみもと、エデンの園から出て行かなければならなくなったのが人間。
だから、人間に対して、神の怒りはとどまっているし、命にあずかれないのが普通といえば普通。
また、永遠の命をいただけるのが「独り子を信じる者」だと言われていたのだから、逆に言うと当然、信じない者は滅びる。

ただここで、「信じない者」ではなく、「従わない者」と言われている。
信じるだけでなく、心で受け入れた通りに実際に生きていくこと。
そう言われると、私たちとしては思う。
自分は信じている。
全く信じていないのなら、ここには来ない。
しかし、どの程度、どのように信じているだろうか。
永遠の命に至る言葉を、どれくらい信じているだろうか。

今日の個所について、榊原康夫先生の説教を読むと、こんなことが書かれてあった。
胃潰瘍の患者に看護士が小麦粉の粉を渡して、「これは薬です。効くか効かないか分からないけれども」と言って、それを飲ませても、20%は効く。
同じ小麦粉の粉を医者が渡して、「これは非常に良く効く薬です」と言うと、70%も効く。
信じるということは、それだけの効果を確かに見せてくれる。
まして、神の真実な言葉を信じるなら、どうか。
100%の効果が現れる。
あるはずのない効果でも、信じるなら、かなりの程度現れる。
だとしたら、神の真実を信じる効果は、どれくらいに現れるだろうか。
そして、それを目の当たりにする時、私たちは、どれくらい熱心にイエスに従うようになるだろうか。
私たちの生き方がすべて、イエスに従うものとなり、私たちの生きるところがくまなく命の光に満たされるほどだろう。

昔、アメリカで、大きな病院の医者が、ある実験をした。
大きな病院なので、同じ病気で入院している人がたくさんいる。
医者は、同じ病気で入院している人を、2つのグループに分けた。
病気の程度は人によって違うので、どちらのグループも、平均して、同じくらいの病気の重さになるようにした。
そして、近所の教会に頼んで、教会として、この病気でこの病院に入院している人たちの回復を祈ってもらうことをお願いした。
病院からは教会に、病名と患者の名前だけを伝えた。
ただし、2つのグループとも、祈ってもらうのではない。
片方のグループだけ、祈ってもらう。
そうすると、数か月後、医者たちが驚くような結果が現れた。
祈ってもらったグループの人たちは、通常では考えられないほど、大きく回復していた。
祈られた人たちは、自分が祈られたことは知らされていなかった。
それでも、祈りは聞かれる。
ただ、この医者はその時、「これは病院の近所の教会に祈ってもらったからではないのか」と考えた。
この度は、この医者は、ヨーロッパの教会に連絡して、ヨーロッパの教会の人たちに祈ってもらった。
その結果に医者たちはまた驚いた。
同じ結果が出た。
祈ってもらったグループの方だけが、明らかに大きく回復していた。
お互いのことをほとんど知らなくても、祈られている側では何も知らなくても、神の力は働く。
この実験をした医者たちは、もちろん、神を信じただろう。
そして、その後、どれくらい生き方を変えられていっただろうか。

神が真実な方であるということを私たちは信じて良い。
その真実のためにイエスは命をかけた。
弟子たちも命をかけた。
地上で生きる命よりも尊いと言えるほどの真実。
それを確信していた。
そのような真実の中に、私たちはいる。
それが私たちの現実。
まず、そのことを喜びたい。

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