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2024年01月15日「神のもとから来る」

聖句のアイコン聖書の言葉

13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 9章13節~34節

原稿のアイコンメッセージ

今日の場面にはイエスさまが登場しません。
イエス様の言葉すら、出てきません。
ここは、イエスさまについて、色々な人が「ああでもない、こうでもない」と話をしている所です。
今日の登場人物たちは、皆、「知っている」、「知らない」と繰り返しています。
イエスさまのことを否定したいファリサイ派の人たちは、自分たちは「知っている」、分かっていると言っています。
けれども、結局、この人たちは何も「知らない」ということが明らかになります。
それに対して、目が見えなかった人は、「知らない」ことも多かったのですが、一つのことだけは確かに知っていたわけです。
今日は、この場面から、私たちが何を知るべきかについて、聞き取りたいと思います。

目が見えるようになったこの人ですが、この人の知っていることは本当に限られています。
そもそもこの人は、イエスさまのお姿を見ていないんですね。
15節でこの人が言っているとおりですが、イエスさまが、この人の目にこねた土を塗った。
イエスさまが地面に唾をして、唾で土をこねて、目に塗ったわけです。
でもそれで、その場ですぐに見えるようになったのではなくて、この人がイエスさまに言われた通りに、シロアムの池に言って目を洗うと、その時に、目が見えるようになった。
目が見えるようになったのは、シロアムの池です。
そして、シロアムの池から帰ってきた時には、イエスさまはもうそこにはいなかったのです。
だから、この人はイエスさまのお姿を見ていないんです。
イエスさまの言葉はいくらか聞いて、その言葉の通りにしましたが、イエスさまの言った通りにしただけで、会話らしい会話もなかった。
つまり、この人はまだ、本当の意味ではイエスさまに出会っていないと言えます。

人々はこの人を、ファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。
それは、このことが起こったのが安息日だったからです。
安息日というのは、仕事をしないで神に心を向ける日です。
イエスさまがこの人の目を見えるようにしたのが安息日だったので、これは問題があるかもしれないということで、聖書の専門家であり、聖書に基づいて生活していたファリサイ派のところに、この人を連れて行ったのです。
ただ、ここで問題になるのはイエスさまが治療という仕事をしたということではありません。
この人の目が治ったのは、シロアムの池に行って目を洗った時です。
イエスさまと一緒にいた時には、この人はまだ目が見えなかった。
ですので、イエスさまが治療をした、ということが問題にされているのではありません。
イエスさまは、この人の目に泥を塗りました。
それが、家を建てる人が壁を塗るという仕事をしたのと同じであると見なされたということです。
また、イエスさまは、地面に唾をして、土をこねて泥を作りました。
その、土をこねたということが、壁を塗るために土をこねるのと同じであると見なされたということです。
そんなことは聖書には書かれていないのですが、ファリサイ派の人たちは、完全に聖書に基づいて生活しようということで、自分たちで考えて、あれも仕事になる、これも仕事になる、だからしてはいけない、というリストをいくつもいくつも作っていったんです。
ルールというのはやっている内にだんだん細かく厳しくなっていくということがいつの時代、どこの国でもありますが、そういうことがあったわけです。

ただ、この時には、ファリサイ派の人々の間でも、意見が分かれました。
神のもとから来た者なら、――それはつまり、神の御心によって神の働きをしているのなら、ということですが、――そのような人なら、当然、安息日には神に心を向けるために仕事をしないはずだ、と言う人がいました。
しかし、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う人もいました。
これはつまり、イエスさまのことをただの人間ではないと言っているわけです。
こうなるともう、イエスさまのいないところで議論しても仕方ありません。
しかし、イエスさまが今どこにいるのかは誰も知りません。
そこで、人々は目が見えるようになった人に聞きました。
「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」。
彼は答えました。
「あの方は預言者です」。
預言者というのは神の言葉を聞いて、それを人に伝える人です。
つまり、この人は、イエスは神のもとから来た人だと答えたことになります。

しかし、ファリサイ派の人たちはそれを受け入れませんでした。
どうしてかと言うと、この人がもともと目が見えなかったのに目が見えるようになったということを信じなかったからです。
ここで、ファリサイ派の人のことが「ユダヤ人」という言い方に変わっていますが、この福音書で「ユダヤ人」という言葉は、イエスを信じない人についてつかわれる言葉です。
ファリサイ派の人たちにしてみると、仕事をしてはいけない安息日に、このようなことが起こったということを信じたくないのです。
ファリサイ派の人たちは完全に聖書に基づいた生活をしようということで、厳しいルールに従って生きていました。
もし、安息日にこのようなことが起こったということを認めてしまうと、自分たちのやっていることは一体何なのかということになってしまいます。
そうなってはたまらないので、ファリサイ派の人たちは、何とかして自分を守ろうとします。
これも良くあることですね。
自分が問われるようなことにならないように、自分を守ろうとする。
そして、場合によっては、そのためには手段を選ばない。
もともとは正しくやっていこうということだったはずなのに、その最初の目的も見失われてしまう。

この時、ファリサイ派の人たちはとんでもないことを考えつきました。
目が見えるようになった人の両親を呼び出したんですね。
両親は自分の子どもが目が見えるようになった時、その場にはいませんでした。
ですから、両親の話を聞いても意味がないはずです。
それなのに、こういう質問をしました。
「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」。
おかしな質問です。
これについてはもう、本人に聞いて、知っていることです。
それなのにこんな質問をするのは、イエスさまがこういうことをしたから見えるようになった、というのとは違うことを言わせたかったからです。
例えば、私たち家族は毎日、目が見えるようになるようにと祈っていました、ということを言ってくれたら、その祈りが聞かれたから見えるようになったということで、イエスさまが何をしたのかは関係ない、ということにできます。
または、本当は前から目が見えていました、というような嘘をついてくれれば、やはり、イエスさまが何をしたのかは関係ない、ということにできます。
そして、この時、ユダヤ人たちは、この両親に、強い圧力をかけることができました。
イエスさまのことをメシア、つまり、神のもとから来た救い主だと言ってしまうと、ユダヤ教の会堂から追放されてしまうのです。
ですから、両親は、下手なことは言えません。
ユダヤ教の会堂から追放されてしまうと、まともに生きて行けなくなります。
経済的にも社会的にも信仰の上でも人とのつながりを断たれてしまうからです。
日本には昔、「村八分」という罰がありました。
火事になった時と葬式の時だけは協力するけれども、その他の八分、その他の80%のことについては、一切付き合いをしない、ということです。
それに似たルールが聖書の時代にもあったわけです。
追放には、七日間の追放と、三十日間の追放と、永久追放がありました。
そして結局、今日の最後の34節で、目が見えるようになった人は、永久追放にされてしまうのです。
ただ、この時、この両親は、ユダヤ人たちが喜ぶようなことは言いませんでした。
両親は結局、分からない、と答えました。
なるほど、知らないふりをすれば、取り合えず自分たちは大丈夫です。

しかし、こうなると困るのはユダヤ人たちです。
目が見えるようになった人をもう一度呼び出して言いました。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」。
とうとう、イエスさまを否定するように強制します。
その時、この人は、こう答えました。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。
この人は、圧力をかけられても引き下がりませんでした。
「目の見えなかったわたしが、今は見える」。
この人は、イエスさまによって新しくされた。
今は新しい喜びに生かされている。
この人はそのような救いの体験をした。
だから、人からいくら圧力をかけられようと、そんなことは気にもならない。
そしてそれは、私たちも同じです。
私たちも、救いの体験をしたから、あるいは、ここに救いがあると思っているから、ここにいるわけです。
そうでないなら、いくら立派な人についてのお話を聞くとしても、わざわざここに集まってくる必要はありません。
この場所で、このような時を持つことが、私たちをまことに生かすことだと思っているから、私たちはここにいるんです。

ユダヤ人たちは同じことを質問します。
「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」。
答えさせておいて、それは安息日の決まりを破っている、と言おうとしたのでしょう。
そうして、この人のイエスに対する信仰を失わせようとしたのでしょう。
しかし、彼は答えました。
「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。
この人は自分から、イエスの弟子であると言いました。
それでも、ユダヤ人たちは何とかして自分を正当化しようとします。
この人たちは、自分たちはモーセの弟子だと言いました。
そして、神がモーセに語られたことを知っている、つまり、安息日に仕事をしないというようなことは、神の御心だ、と言いました。
そして、イエスと神とのつながりについては知らない、と言います。
それに対してこの人は答えました。
この人は、自分の体験した事実に基づいて話しています。
神は罪人の言うことはお聞きにならないはず。
生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがない。
イエスが神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずだ。

ユダヤ人たちはとうとう反論もできなくなりました。
そして、彼を追放しました。
しかし、この、ユダヤ人たちの最後の言葉はどうでしょうか。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」。
この時代には病気や障がいが罪の結果だと考えられることがありました。
しかも、この人の場合は生まれつきですから、そこを取り上げて、「お前は全く罪の中に生まれた」と言っているわけです。
しかし、今はもう見えるようになっているのに、それを問題にするのはどうでしょうか。
問題にするべきでないことを問題にして、相手を追放したわけです。
この人たちはルールを守る人たちであったはずなのに、いざ自分が問われるようなことになると、事実を認めず、手段を選ばず、自分を守るためにはルールも何もなくなってしまう、そういう人たちであったわけです。
この人たちは、自分たちは知っている、分かっていると思っていました。
つまり、自分は正しいと思っていました。
そして、自分は正しいという思いに一度なってしまうと、もうそれを手放すことはできないということですね。
自分の正しさを守るために間違ったことをしても平気になってしまう。

これは私たちも気を付けたいことですね。
私たちにもそれぞれに、自分の正しさがあるはずです。
全部が全部、自分が正しいとは思わないかもしれませんが、自分は全部間違っている、何も分かっていないと思う人はいないでしょう。
私たちにもそれぞれに、自分はこの点では正しいという部分があります。
というより、自分にも間違っている部分や分かっていないことはあるだろうが、それ以外の部分では自分は必要なことはちゃんと知っていて、分かっていると思っているのが私たちの現実ではないでしょうか。
もちろん、それはそうなのでしょう。
私たちは大体のところ、おおむね正しいのでしょう。
ただ、問題になるのは、私たちの正しさが揺るがされた場合です。
間違っているかもしれないとなった時、自分が正しいと思う気持ちが強ければ強いほど、自分の正しさを守ろうとすることになります。
そして、場合によっては、自分の正しさを脅かすものの存在を認めないということになってしまう。

大事なのは、目が見えるようになった人の態度です。
この人は、少なくとも、ファリサイ派の人たちほどには聖書を知らなかったでしょうし、聖書に完全に従った生活をしようというような志もなかったでしょう。
どちらがよく知っているか、どちらが正しいか、となると、ファリサイ派の人たちの方が上のような気がします。
けれども、この人は、圧力をかけられても引き下がらなかった。
別に相手を否定しようとしたわけではないけれども、ストレートに物を言って、その結果、相手はののしることしかできなくなった。
大事なのは、どれだけ知っているか、どれだけ分かっているかではない。
どれだけ新しくされたか。
ファリサイ派の人たちはこの世の人間同士のせめぎ合いの中にいます。
しかし、見えるようになった人は、この世の人間同士のせめぎ合いの中にはいません。
この人に起こった出来事によって、この人は、この世にあって、この世を生きるのではなく、神との関係を生きるようになった。
そうなったから、どれだけたくさんのことを知っている人を前にしても揺るがされないのです。
自分を神から引き離そうとして、人がどれだけ圧力をかけてきても、人の力に揺るがされることはないんですね。
逆に言って、ファリサイ派の人たちは、神との関係が確かでないから、揺るがされています。
もっと言うと、神との関係が確かでないから、神の言葉に完全に従った生活をして、自分を正当化しようとするのです。

アメリカの伝説的テニスプレイヤーに、アーサー・アッシュという人がいました。
この人は黒人選手として初めて全米オープンとウインブルドンでも優勝した人です。
しかし、輸血が原因でHIVウイルスに感染し、エイズを発症してしまいました。
あるスポーツ記者がこの人に質問しました。
「どうしてあなたのような立派な生き方をしている人が、こんなひどい目に遭うんでしょう。
神はひどいと思いませんか」。
それに対して彼は答えました。
「もし私がエイズになったことについて、なぜなんだと神に問う資格があるというなら、私自身にも別の質問に私が答えるべき義務が生じると思います。
どうしてスラム街で生活していた時、私の才能を見出してテニス界に引っ張ってくれた人と出会うことができたんだろう。
どうして最高のコーチと出会うことができたんだろう。
どうして最高の友人と出会うことができたんだろう。
どうして最高の女性である妻と結婚できて、素晴らしい子どもたちに恵まれたんだろう。
残念だったことだけを取り上げて、神を残酷な方だと決めつけるのは、アンフェアです。
なんにもなかった私にこんなにもたくさんの恵みが与えられたのは、一体なぜなのかと考えなければならないと思います。
私は他の人の人生と比べるつもりはありません。
私は私の人生を生きるのです」。
神との関係を生きる人は、人に揺るがされないんですね。
大きなアクシデントが起こったとしても、揺るがされない。
このテニスプレイヤーは、自分の人生に起こってきた良いことを、神がなさってくださったこととして受け止めています。
自分が素晴らしいからそうなったと考えるのではなく、神の御業として受け止めているんです。
神との関係の中に生きているんです。
もし、自分が素晴らしいからそうなったと考えるのなら、大きなアクシデントが起こった時、すぐに自分自身が揺るがされてしまいます。
しかし、この人は、自分の人生に、神が起こした奇跡を見ている。
そこで、神と出会っている。
今日の、目が見えるようになった人と同じ。
私たちの人生にも、神がしてくださったさまざまなことがあります。
ぜひそれを数え上げてみてください。
誰にも何にも揺るがされることなく、神との関係を生きていきましょう。
神は私たちを、そのような人生へと招いてくださっています。

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